『地獄まで愛して II』第1話|狂気がバトンパスされたなら
ズズッと、熱湯を入れてから一分しか経っていないカップ麺を透(とおる)は思いっきり吸い込んだ。
麺はまだ芯が残っていてかなり硬かったが、朝から何も食べていなかった腹は歓喜に踊っている。残りも一気にかき込み、しょっぱいスープを飲み干した。
“ゲフッ”と大きなゲップをすると、隣の部屋の住人が薄い壁をどついてくる。
「うるせーな。こちとら、お前のワキガ臭に耐えてやってんだよ」
池袋のネカフェにチェックインして数時間。
透は壁越しの見えない相手に向かって、無言で両手の中指を立てた。
数日ぶりにシャワーを浴び、脚を伸ばせただけまだマシだ。
シャワー室で脱いだ服を押し込んだビニール袋から、酸っぱい汗の匂いが狭いスペースに充満している。
――明日、コインランドリー行くか。
小汚い黒色のキャリーバッグを開け、茶色い紙袋を取り出す。
中には百万円の札束が五束。
ざっと確認して、また大切そうに奥底へ押し込んだ。
「食い足りねえな……菓子でも取ってくるか」
底が擦り切れたスニーカーに踵をつぶして足を突っ込み、ドリンクバーのあるフロントへ向かう。
ジュースマシンでどぎつい緑色の炭酸を注いでいると、壁のテレビが映し出すニュースにふと目が止まった。
画面の中の男が、若い頃の自分にやけに似ていたからだ。
「……昨晩、衆議院議員の山内太郎氏が心筋梗塞のため急逝されました。
葬儀は親族のみで執り行われますが、五日、〇〇寺にて十一時よりお別れの会が開かれる予定です。
喪主は、山内氏のお孫さんである山内陽氏(二十)。
山内氏の国政への貢献は、税制改革をはじめ非常に大きく――」
アナウンサーが淡々と読み上げていく。
「あの! お客さん! ジュース、こぼれてんですけど!」
若い女子店員の迷惑そうな声で我に返ると、緑色の液体がコップから溢れ、床を濡らしていた。
「あ、わりぃ、わりぃ」
店員のあからさまに迷惑そうな視線を無視して、コップを放置したまま部屋へ駆け戻ると、PCのスイッチを入れた。立ち上がりがやけに遅い。ようやくブラウザが開き、透は焦って「山内陽」と入力した。
数週間前から携帯は止められていたし、逃げ回るのに必死で、ニュースなんて正直どうでもよかった。
画面いっぱいに広がる“山内陽”の写真。
透の年の離れた兄弟、と言っても通じるほどそっくりだ。その写真を食い入るように眺めまわした。
――へえ、バンドでギターをやってて、最近売れてきてる、ね。そんなところまで似てやがる。ま、俺は随分前に脱落したけどな.....
そんなことより、肝心なのは、陽の隣に映っていた女だ。
こいつの母親らしい女。
記事に載ってる「山内麗華」で検索すると、SNSアカウントがすぐに見つかった。
透はまた、食い入るようにマウスを回し、画面をスクロールしていく。
――やっぱり….あの時の女だ.....。
透がごくりと生唾を飲み込む。細い喉仏が大きく上下した。
二十年前、やけにあっさりと自分の誘いに乗ってきた女。かと思えば、数ヶ月後には突然、煙のように姿を消してしまった……。
ほとんど自分の話はせず、かといって透の若い身体にのめり込んでいる風でもなかった。
電話番号も知らず、名前すら曖昧で、美穂――そう名乗っていたが、おそらく偽名だろう。
透にしても、当時は別にどうでもよかった。だが……。
旦那にバレるのを恐れて素性を隠しているのかと思ったが、どうもそれだけではない“説明のつかない違和感”が、心の隅にずっと残っていた。
あの女は、なんで俺なんかの誘いに乗ってきたんだろう。
二十年前より全体的に少し丸みを帯び、長い髪をマダム風に巻いて、見るからに高そうな服をまとっている。
やっぱり、相当な金持ちらしい。
SNSには、女が近々ローンチする美白クリームの宣伝投稿が続いていた。
『女性がもっと輝くためのささやかなお手伝い。私がプロデュースした美白クリーム、やっと形になりました。
「本物」の透明感、試してみてね!』
『ついに2台目のBMが納車!天国から支えてくれる義父に感謝です。
日差しが強い日のドライブも、車内に常備してる美白クリームがあるから安心(笑)』
『ヘビロテしてる美白クリーム、バーキンに入れて持ち歩いても浮かないパッケージデザインなのが本当に優秀!ちなみにバーキンの新色、お迎えしました。この色、本当に“似合う人”を選ぶのよね。大切に使います』
『GWはハワイでゆっくり。日焼けした肌に、このクリームがとにかく優しいの!』
そんな記事にイラつきながら、次々と写真をめくり、執拗に“うなじ”の画像を探す。
「あった……」
思わず声が漏れる。
『ずっと欲しかったTiffanyのピアス、やっとお迎えしました!髪をアップにすることが増えたから、もうすっかり私の耳元に馴染んでいます』
髪をかき上げ、その耳元を強調した写真。
そこには、白くて滑らかなうなじが写り込んでいた。
そして...、あそこに、あの“ハート型の赤いあざ”がある。
ほんの数ヶ月の関係だったが、背後から彼女を抱くたびに赤みを増していく
”それ”を眺め、若い頃の透は「エロとは、こういうことなのか」と、妙に納得した記憶が蘇った。
あれは、二十年前――。
透はギターケースを担ぎ、夕暮れの渋谷の路地裏をふらついていた。
「チキショウ、腹減ったな……」
空腹で頭がぼんやりする。
ゲリラライブでメシ代を稼ごうと彷徨っていたとき、道端でうずくまっている華奢な女が目に入った。
この路地裏には似つかわしくない高級バッグを傍らに置いて、何がそんなに悲しいのか、背中を震わせて泣いている。行き交う人々は怪訝な視線を向けるものの、誰一人として足を止めようとはしない。
三十代前半だろうか。艶のある肩下まで伸びたダークブラウンの髪が顔を覆っている。
ワンピースもヒールも見るからに上等だ。
――まあ、悪くない.....
栄養不足で鈍った脳みそを、透は必死に回転させた。
この前の女は最悪だった。
透からすれば、母親でもおかしくない“ケチなババア”で、旦那の代わりに相手してやってるのに、飯すらまともに奢りやしない。
せいぜいホテルに入る前にコンビニで好きな飯と酒を買わせてもらえるのが、関の山だった。
あれに比べれば、この女は若いし、雰囲気も“上物”だ。
両手と髪が顔を覆っていて表情は見えないが、漂う空気が違う。
透はジーンズのポケットから水色のハンドタオルを取り出した。汗臭いが仕方ない。
「大丈夫? 何か辛いことでもあったの?僕でよかったら話、聞きますよ。こう見えて聞き上手なんです」
女が一瞬泣き止み、透を見上げた。
――オッケー。イケる。なかなか美人じゃねえか。
この女、頂いた。
透はお得意の“母性本能をくすぐる笑顔”を作ると、膝をついて女の目線に顔を近づけた。
ーーーつづく。
→次章
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