『地獄まで愛して』エピローグ|騙してたつもりが、騙されていたなら
エピローグ:完成された嘘
「こちらで、以上です。」
初老の弁護士が、麗華が捺印した書類をトントンと机で整え、事務的に言い放った。
「遺言どおり、奥様と息子さんの口座へ、数週間内に振り込まれます。」
麗華は、隣で股をだらしなく開いて座っている陽を軽く突き、立ち上がる。促されるままエレベーターまで向かうと、弁護士はうやうやしく頭を下げた。
「じゃ、俺、リハがあるから」
陽は気だるそうに言い放つと、ギターケースを背負い直し、駅の方へと小走りに消えていった。
血は争えないものだ。人混みに消えていく陽のひょろっとした背中を見ながら、ふと、あの男の笑顔が脳裏をよぎる。
やだわ、忘れていたのに。その記憶をかき消すかのように、麗華は軽く頭をふった。
麗華に気づいた黒塗りの車が、すーっと目の前に止まった。運転手が降りてきてドアを開ける。そっと乗り込むと、ドアが静かに閉まり、車は都心の喧騒へと滑り出した。
あれから二十年。長かった…..。
あの夜、俊介が逝ってから二十年。ようやく義父も鬼籍に入り、とうとう麗華と陽に遺産が渡ることになった。窓越しに街の景色を眺めていた麗華の目に、ふと、ある看板が飛び込んできた。
――渋谷ウィメンズクリニック
まだやっていたのね。
麗華は喉の奥で小さく笑った。そして、あの日を思い出す。
20年前、診察室に入った麗華に、医師は当惑した表情を向けた。
「奥様お一人ですか? ご主人もご一緒に、とお伝えしていたはずですが」
「……すみません。主人はどうしても仕事の都合がつかなくて。今日は私だけで結果の方を…」
麗華の鼓動が、一段と激しく打った。
医師はPCの画面と手元の書類を交互に見比べ、言い淀んだ。その沈黙が、まるで鈍器のように麗華の心臓を締め付け、喉元まで吐き気がせり上がってくる。
(やっぱり、私は妊娠できないんだわ)
「……そうですか。結論から申し上げますと、奥様の方には何も問題はありません。妊娠に支障をきたすような要因は見当たりません」
「え?」
身体から一気に力が抜け、天にも昇るような安堵が全身を駆け巡った。よかった、私は妊娠できる。十代の頃からのひどい生理不順ゆえに、てっきり自分に欠陥があると思い込んでいた。麗華が安堵の笑みを浮かべたのも束の間、医師は、その小さな期待の芽を根こそぎ刈り取らねばならないかのように、追い立てられるような様子で続けた。
「――ただ、問題は、ご主人の方でして……」
診察室を出た後の記憶は曖昧だ。ただぼんやりと、夕暮れの忙しない街中を、気の向くままに歩き続けた。ふと、右足のヒールが折れてバランスを崩し、麗華はその場に座り込んだ。診察室で聞かされた医師の言葉が、頭の中で何度も何度も再生されている。
「ご主人、精子が見当たりません。無精子症ですね」
結婚して五年。俊介が外に女を作っていることには、ずっと前から気づいていた。夜中を回って帰宅する彼のシャツには、決まって甘ったるい、安い香水の匂いが染み付いていた。
子どもを産まなければ、私は捨てられる。
もうすぐ議員の妻になれるというのに。
誰もが羨む高級マンション。
政治家一族の新米議員を支える、美しく健気な妻という立場。
――その座だけは、絶対に手放したくない。
俊介を必死に説得し、ようやく始めた不妊治療だった。
私の身体が悪いのだと、そう信じ切っていた。俊介も、冷ややかにそう思っているはずだと。それが、無精子症……。
涙が頬を伝い、嗚咽が漏れる。行き交う人々は、その姿を横目で値踏みするように眺めながらも、足早に通り過ぎていった。
「大丈夫ですか?」
若くて瑞々しい、甘い声が麗華の頭の上から降ってきた。
麗華の視界の端に、薄汚れた若い男もののスニーカーが映る。
顔を上げると、背中に黒いギターケースを担いだ青年が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。
麗華と目が合うと、若い男は躊躇うことなく麗華の目線までしゃがみ込み、ギターケースを道に下ろした。そして、水色の色褪せたハンドタオルを無造作に差し出してくる。
俊介さんに、驚くほどよく似ている。
見るからに、かなり貧しそうではあるけれど……。
麗華は、涙で霞む瞳でその若い男の顔を見つめながら、ある考えが思いつく。
ああ….神様っているんだわ…..。
「大丈夫? 何か辛いことでもあったの? 僕でよかったら話、聞きますよ。こう見えて僕、聞き上手なんです」
屈託なく笑う青年の視線が、頬の涙を拭う麗華の左手――その薬指へ一瞬だけ動いたのを、麗華は見逃さなかった。
麗華は儚げに微笑み、差し出されたタオルを受け取った。汗のにおいがしたが、グッとこらえて目尻の涙をそっと拭い、可憐な声を作る。
「ありがとう……。それじゃあ、お茶に……付き合っていただけますか?」
青年はニコッと笑い、麗華の華奢な手を受け止めるように掌を差し出した。
その手を、麗華はすがるように掴み、ゆっくりと立ち上がった。
ワンピースについたほこりを軽く叩き、二人は並んで歩き出した。
麗華はカバンの中に手を入れて、無造作に入れられた診断書をぐしゃりと握りつぶした。
…..ほんと、長い20年だったわ。あの沙耶とかいう女、妊娠していたそうだけど。結局、誰の子だったのかしら。まあ、どうでもいいことだけれど….。
麗華は、流れる窓外の景色から視線を戻すと、満足げに小さく笑みをこぼして瞼を閉じた。車は地獄の記憶を置き去るかのように、トンネルの暗がりの中へ静かに加速していく。
「世の中には二種類の悲劇がある。一つは、望みが叶わぬこと。もう一つは、望みが叶ってしまうこと。」— —オスカー・ワイルド『ウィンダミア卿夫人の扇』より
完
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