【二十二世紀から来た猫】扉とプロペラが暴く、『未来の物理学』
【語り部の部屋】
ようこそ……。
今夜も、よくいらっしゃいました。
二十二世紀から来たという、
猫型の機械のことを、ご存じですか。
彼が持っている道具の中には、地球そのものを壊しかねない、とんでもない物まであるそうですね。

……ですが。
今夜お話ししたいのは、
そういう物ではありません。
もっと、ありふれた道具です。
扉を一枚。
そして、頭につける小さなプロペラを一つ。
子どもが遊びに行くために使い。
学校へ急ぐために使い。
少し遠くへ出かけるために、
何気なく取り出す。
……ただ、それだけの道具です。
けれど。
私たちの時代の物理学で、その仕組みを真面目に考えてみると。
この二つは、まるで「便利な道具」には見えなくなってきます。
一方は、
何千キロという距離を一歩で消してしまう。
もう一方は、
人間一人を、頭の上の小さな装置だけで自由に空へ運ぶ。
……どちらも。
今の私たちには、作り方どころか、何をどうすれば実現できるのかさえ、よく分かっていません。
世界を滅ぼすための道具なら、とんでもない技術が使われていても、不思議ではありません。
けれど、子どもが日常的に使う道具にまで同じことが言えるとしたら。
……その文明は、いったい何を発明してしまったのでしょうか。
今夜は、二つの何気ない道具から、その答えを逆算してみることにいたしましょう。
さあ、ページを捲りましょう。
二十二世紀の、当たり前の向こう側へ。
【第一章:一歩で、世界の反対側へ】
まず、あの扉から参りましょう。
見た目は、ただの扉です。
けれど、開けて一歩踏み出すだけで、地球の反対側にでもたどり着けるといいます。
東京からニューヨークまで、
およそ一万キロメートル。
……扉の厚さわずか数センチの間で。
あなたは、その一万キロメートルを移動したことになるのです。
もし、普通の意味で「移動」しているのなら、とんでもない速度が必要です。
けれど、扉をくぐるあなたにそんな加速も衝撃もありません。
……と、なると。
考えられる方式は大きく二つです。
一つは、あなたを移動させるのではなく空間そのものをつなぐ方式。
もう一つは、あなたを一度、情報へ変えてしまう方式です。
前者から見てみましょう。
遠く離れた二地点を、空間の中を進んで結ぶのではなく、空間そのものを折り曲げて隣同士にしてしまう。
……以前の夜にも少し出てきた、
あの抜け道です。「ワームホール」と呼ばれる発想です。
……ただし、
実用品にするのは恐ろしく大変です。
地球は自転し、公転しています。
その上で、地表の建物も、人間も、絶えず位置を変えています。
つまり、この扉は単なる緯度と経度だけではなく、目的地がその瞬間どこにあり、そこに何が存在しているのかまで把握しなければなりません。
安全な出口を、瞬時に生成し続けなければならないのです。
……それこそ数十センチ間違えれば。
扉の向こう側は、壁の中かもしれません。

【第二章:扉を抜けたのは、誰なのか】
もう一つの方式も、見てみましょう。
空間を曲げるのが難しいなら、あなたを原子レベルまで読み取り、その情報を目的地へ送り、向こう側でまったく同じあなたを作り直す。
……先ほどのワームホール方式と違い、こちらではあなた自身が、一度分解されることになります。
……この部屋へ、長くお越しの方なら。
少し、聞き覚えのある問いかもしれません。
以前、この部屋で、古い船の話をしたことがありました。
傷んだ板を、一枚ずつ新しい板へ交換していったとき、それはいつまで「同じ船」なのか。
建造当初からある部品が一つも無くなっても、それは「同じ船」なのか。
……テセウスの船、と呼ばれる問いです。
あの船は、少しずつ時間をかけて、部品を入れ替えていきました。
今夜の話も、少し似ています。
ただし、今回は少しずつではありません。
あなたを構成するものを、一度にすべて交換してしまいます。
ゆっくりと問われた問いを、一瞬に圧縮してしまったら、答えは変わるのでしょうか。
……向こう側の人物は、あなたの記憶を持っています。
好きな食べ物も。
子どもの頃の恥ずかしい失敗も。
扉へ入った瞬間の記憶さえ持っています。
そして当然、「私は無事に移動した」と答えるでしょう。
……ですが。
こちら側にいたあなたの意識が本当にその人物へ移ったことを。
いったい誰が確認できるのでしょうか。
向こう側のあなたは、必ず「転送に成功した」と証言します。
……そしてこちら側で消えたあなたは、失敗したわけではありません。
装置は、正しく動作しました。
読み取り、送信し、そして役目を終えた元の身体を予定通り消去する。
それが、この装置の正常な手順です。
証言できないのは、何かの事故に遭ったからではありません。
そもそも、証言する役目を最初から与えられていなかっただけなのです。
……もし、装置に不具合があり、元の身体が消えずに残ってしまったら、どうでしょう。
東京にも、あなた。
ニューヨークにも、あなた。
両方とも、完全に同じ記憶を持っています。
二人は同時に、「私が本物です」と答えるでしょう。
……もしかすると。
あの扉がこの方式なのだとしたら。
元の身体を消す理由は、移動そのものに必要だからではないのかもしれません。
同じ人間が二人いると、私たちが困るからなのかもしれません。
……そう考えると。
あの扉が、空間をつなぐ方式であることを少しだけ願いたくなりますね。

【第三章:頭の上の、小さなプロペラ】
さて、少し外の空気を吸いましょう。
今度は、頭に小さなプロペラをつけて。
まず普通のプロペラとして考えてみます。
人間一人を宙に浮かせるには、体重と同じあるいはそれ以上の上向きの力が必要です。
ところが、このプロペラは驚くほど小さい。
本物のヘリコプターの巨大なプロペラと比べれば、その小ささは一目瞭然です。
小さなプロペラ面積で人間一人を支えるには、限られた空気をかなりの速度で下へ加速しなければなりません。
……では、その空気は、
一体どこへ向かうのでしょう。
そう、真下です。
つまり、使用者本人が、その暴風をまともに浴びることになります。
砂埃。轟音。高速で回転する羽根。
そして、もう一つ。
プロペラを回せば、必ず反作用が生まれます。
プロペラを右へ回せば、
あなたの本体は左へ回ろうとする。
普通のヘリコプターなら、これを打ち消すために尾に別のテイルローターをつけたり、二枚の羽根を逆向きに回したりします。
……ですが、あの小さな道具にはそういう仕組みは見当たりません。
だとすれば、当然。
空を飛ぶ前に、使用者のほうがくるくると回り始めるはずです。
さらに、もう一つ。
体重数十キログラム分の力を頭のてっぺんの小さな接点だけで支えることになります。
……普通なら、空を飛ぶ以前に首の心配をしたほうがよさそうです。

【第四章:あれは、プロペラではない】
ここまでの問題を、すべて一度に解決する単純な仮説があります。
……あの羽根は、風圧によって人間を持ち上げているのではない。
もし、あの装置が、重力そのものを局所的に制御しているのだとしたら。
使用者と装置に働く見かけの重さそのものを小さくしているのだとしたら。
力を身体全体へ均等に分散させ、慣性まで一緒に制御しているのだとしたら。
……暴風も、反トルクも、首への負担も、まとめて説明がついてしまいます。
あのプロペラ部分は飛ぶための道具ではなく。
制御用のセンサーか。
姿勢を調整するための部品か。
あるいは、単に作動状態を示しているだけなのかもしれません。
人間を空へ持ち上げているのではなく、その人間にとっての「下」を書き換えているのだとしたら……。
ここで、あの扉のことを思い出してください。
一方は、離れた二つの場所を一枚の扉でつなぐ技術でした。
もう一方は、人間一人に働く重力と慣性を小さな装置で制御する技術です。
……この二つは、
本当に別々の発明なのでしょうか。
重力と時空の形は、もともと切り離せない関係にあると、この宇宙の物理学は教えてくれます。
だとすれば、空間をつなぐ技術と重力を操る技術は、根っこの部分で同じ原理を使っているのかもしれません。

【第五章:二十二世紀に何が起きたのか】
もし、これらの道具が、本当に存在するのだとしたら。
あの世界の二十二世紀には、空間と重力と慣性をまとめて操ることのできる、何らかの技術体系が成立していることになります。
……もちろん、これは仮定の話です。
現在の物理学に、そのような装置を作る道筋は、到底まだ見えていません。
けれど、あの道具が本当に存在すると仮定したときに、逆算して見えてくるものがこれなのです。
……二十二世紀という言葉には、遥かな未来という響きがあります。
けれど、西暦2100年までなら、今からもう100年もない未来です。
二十世紀の初めから今まで、およそ120年の間に、人類は、
空を飛び。
原子核の力を使い。
宇宙へ出て。
半導体を作り。
世界中を通信網でつなぎました。
百年前の人間に、手のひらの板一枚で世界中の知識にたどり着けると話しても、きっと信じてはもらえなかったでしょう。
……次の百年に、同じ規模の飛躍が絶対に起きない、とは言い切れません。
新しい材料が見つかったのか。
新しい粒子が見つかったのか。
それとも。
私たちが今、時間や空間について何か重大な勘違いをしているのか……。
◇
そして。
……あの猫型の機械については、混乱すると惑星を壊しかねない道具まで取り出すことが恐ろしい、と語られることがあります。
一つの星を、跡形もなく壊すために必要なエネルギーは、確かに途方もない量です。
けれど、それは一度力を解き放ってしまえば、それで済む話です。
爆弾は、乱暴です。
けれど、単純でもあります。
……では、あの扉は、どうでしょうか。
空間そのものを瞬時に、しかも寸分違わず正確な形で、安全に折り曲げる。
理論上、そのような通路を開いたまま保つためには、途方もない規模の特殊なエネルギーが必要だとされています。
その規模を、もし真面目に見積もるなら。
星ひとつを壊す量どころか、恒星をいくつも生み出せるほどのエネルギーになる、という試算さえあります。
……そして、あの扉は一度きりの道具ではありません。
毎朝、毎晩、世界中の家庭で、何千回、何万回と静かに開いては閉じています。
あの扉は。
星を壊すよりもはるかに大きな力を毎日、何事もなかったかのように御しているのです。
本当に恐ろしい文明というものは、とんでもない兵器を持っている文明ではなく……。
とんでもない兵器よりも、はるかに大きな力をとんでもないとも思わず、日用品として使っている文明なのかも、しれないのです。

【語り部の部屋:最後に】
さて……。
今夜は、一枚の扉と、小さなプロペラについてお話ししました。
どちらも、見慣れてしまえばとてもかわいらしい道具です。
扉を開けば、行きたい場所へ行ける。
頭につければ、空を飛べる。
子どもの頃なら、「あったらいいな」と、それだけで済んだかもしれません。
……けれど。
大人になってから、少しだけ物理学を覚えてもう一度同じ道具を眺めてみると。
そこには、
空間を曲げ。重力を操り。慣性を制御し。
場合によっては、人間そのものを単に情報として扱っているかもしれない文明の姿が、見えてきます。
二十二世紀。
物語の中では、未来と呼ばれる時代です。
けれど、私たちから見れば、それほど遠い未来でもありません。
あの世界で、何が起きたのか。
新しい物理法則が見つかったのか。
それとも、今ある物理法則を、私たちには想像もできない方法で使いこなせるようになっただけなのか。
……それは、分かりません。
ただ、一つだけ確かなことがあります。
あの文明にとって、私たちが驚いているその技術は、もう驚くようなものではないのです。
扉です。そして、子どもが空を飛ぶための小さな道具です。
……未来というものは。
とんでもない発明が生まれた瞬間ではなく、その発明を誰もとんでもないと思わなくなったときに。
本当に、やって来るのかもしれません。
さて。
今夜のお話は、ここまでにいたしましょう。
お帰りの際は、
いつもの扉からお願いいたします。
空間を折り畳んだり、皆さまを原子へ分解したりするような仕掛けは。
……たぶん。
入っていないはずです。

そして、お急ぎでも、頭に小さなプロペラをつけて帰ろうとはなさらないように。
今のところ、
ニュートン先生はまだ現役ですので。
それでは。
どうぞ、お気をつけてお帰りください。
良い、夢を……。
「タイムマシン」編です! ⇧⇧⇧
単話完結のお話を纏めました ⇧⇧⇧
こちらもご覧頂ければ幸いです。⇧⇧⇧
