【読むVoicy:新刊解説(その1)】 「自然」は取引できるのか、最近の豪雨による水害から考えること (新刊『「二つの人生」を生きるための経済学再入門』第10章)
8月5日に慶應義塾大学出版会より、新著『「二つの人生」を生きるための経済学再入門――人生100年時代の新戦略』を上梓いたしました。https://amzn.asia/d/01iFC6sV
これから何回かに分けて、この本について解説していきたいと思いますが、単純な内容紹介ではなくて、この本の視角に基づいて、現代社会のさまざまな問題をどう捉え直すことができるのか、と言ったことについてお話ししていきたいと考えております。
本来ならば初回は書籍全体の狙いや骨子をまずお話しすべきかもしれませんが、先日、千葉県の広いエリアで非常に激しい豪雨があり、甚大な被害が発生しました。お亡くなりになられた方々をはじめ、被災された方々に心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます。
この痛ましい自然災害を目の当たりにし、本書で扱ったテーマ――とりわけ「自然と市場経済」の関係について深く考えさせられるところがありました。そこで本日は、この問題についてお話しいたします。
人生100年時代と「二つの現役時代」
まず、本書の根底にある問題意識を簡単にお話ししておきます。
寿命が大きく延びた「人生百年時代」において、一人ひとりの人生を考えたときにも、従来の典型的なライフプランは成り立ちにくくなっています。
かつては20代から60代前半頃まで会社勤めや自営業などで一生懸命働き、引退した後は数年からせいぜい10年ほどの「余生」をのんびり過ごして生涯を閉じる、という単一の人生サイクルが標準的でした。
この時代は「一つの人生」の時代ということもできるでしょう。
しかし、「人生百年時代」の今日、定年退職を迎えても、その先には何十年もの歳月が待っています。これを単なる「余り」や「おまけ」としての「余生」と呼ぶことはできません。
年金や社会保障の持続可能性が問われるなかで、私たちは最初の現役生活を終えた後、もう一つの人生を主体的に構築していく必要があります。私はこれを、最初の人生である「第一の現役時代」に対して、「第二の現役時代」と呼んでいます。
この「二つの人生」を、生活の質を保ちつつどう戦略的に生き抜いたらいいのか?それを解き明かすためには、教科書的な伝統的経済学――需要と供給の曲線があり、消費者は効用の最大化を、企業は利潤の最大化を目指すという閉じた枠組みに基づく経済学――だけでは不十分です。
そこで本書では、経済人類学者カール・ポランニーの理論や行動経済学の成果、あるいはアダム・スミスやJ.S.ミルなどのイギリスの古典派経済学者の洞察力に富んだ考え方などを積極的に活用しながら、現代の私たちが直面している課題の解決のための方向性を示したいと思っています。
近代市場経済システムの特質――「匿名性」と「無制限な拡大」
ポランニーは、近代の市場経済システム(資本主義経済)を「自己調整的市場」と呼び、その本質を鋭く抉り出しました。
歴史を振り返れば、財を交換する場としての「市場(いち)」は、古代ギリシャ・ローマや日本の奈良・平安時代等でも、存在していました。しかし、伝統的な「市」や共同体における資源配分は、現代の市場システムとは決定的に異なります。
伝統社会の交換は、「顔の見える関係」を前提としていました。漁師が魚を、農家が野菜を持ち寄って交換する際にも、互いの素性や信頼関係が重視されます。
あるいは、かつての日本でも日常的に見られた「お裾分け」の文化も典型的な「顔の見える」関係です。これは市場的な交換ではありませんが、社会における資源配分の一つのあり方です。
例えば、客人からのお土産にもらった山形のさくらんぼを隣家の人がお裾分けしてくれれば、すぐにお返しができなくても、後日別の珍しい食物をお返しする、といった「互酬性」に基づくやり取りは、見ず知らずの他人間では成立しない、具体的な人間関係に根ざした非匿名の資源配分でした。
一方、近代の市場経済システムを支配しているのは「匿名性」です。
朝コンビニエンスストアでペットボトルの水を買う際、店員は買い手が誰であるかを詮索しませんし、買い手も店員が誰であるかを問いません。媒介となる「貨幣」さえ支払えば、誰であっても瞬時に取引が完結します。
この貨幣を媒介とした匿名的な市場メカニズムは、人間関係の制約を受けないため、際限なく自己拡大していく性質を持っています。地域を越え、国境を越えて拡大した帰結が、現代のグローバル経済や急速なテクノロジーの発展です。それ自体は人類に多大な利便性をもたらしました。
しかし、その一方で、このシステムには重大な陥穽が存在します。
「擬制商品」の落とし穴
市場経済が限界なく拡大していく過程で、市場は本来「商品ではないもの」までも取引の対象として飲み込んでいきました。ポランニーは、これを「擬制商品」と呼びました。「擬制」というのはfictitious、つまり「架空の」ということです。
本来、市場で取引される「商品」とは、市場で売買されることを目的に人間の労働によって生産された財のはずです。 ところが、近代の自己調整的市場は、その成立の前提条件として、本来は売買のために生産されたわけではないモノを、あたかも商品であるかのように見立てて市場に組み込んでしまいました。つまり、それは本来の商品でない、という意味で「架空の」商品(=擬制商品)なのです。
ポランニーは擬制商品の典型例として、次の三つをあげました。
①労働:本質は時間であり、人間の生命活動そのもの
②土地:人間が作り出したものではなく、自然環境そのもの
③貨幣:本来は購買力を制度的に示す手段・交換の媒介物にすぎないもの
これらを商品として市場の価格メカニズムに全面的に委ねてしまうと、人間は生活の基盤である共同体から引き離され、自然環境は荒廃し、社会は激しい不安定化に晒されます。
本書の第10章で詳しく述べていますが、近年の水害をはじめとする災害の構図には、この「自然(土地)を擬制商品として売買してきた近代システム」の歪みが色濃く反映されているように思えてなりません。
人工的に曲げられた川の話
土地と治水のリスクに関して、私が信州大学の学生だった頃に教養課程の農学の先生から伺った、非常に示興味深い話を思い出します。
松本城の城下町だった長野県松本市には、「女鳥羽川(めとばがわ)」という川が流れています。この川の流れを地図で見ると、上流から城の近くまで流れてきたところで、不自然に折れ曲がっています。
これは江戸時代初期、松本城の南側の外堀および防御ラインとして利用するために、当時の武将が人工的に流路を屈曲(クランク状に改修)させた歴史的経緯によるものなのだそうです。
城を守る軍事上の観点からは極めて合理的な改修でしたが、河川工学・自然地形の観点から見れば、水かさが増した際、屈曲部の外側(水衝部)に強烈な水圧が集中し、氾濫の危険性が極めて高くなります。
その先生の話によれば、かつてはその危険な屈曲部の外側一帯は誰も買い手がつかず、居住にも適さないため国有地になっていたのだそうです。ところが後年、都市化が進んで土地が不足してくると、その敷地に大学の教職員宿舎(官舎)が建設されたといいます。
古くからその土地の性質を知る人々から見れば、明白にリスクの高い場所だったわけです。
(*)調べてみると、1959年の台風襲来時には、女鳥羽川のそのあたりが氾濫して約4000戸が被災したそうです。
かつての社会では、経験的な知見から「危険な場所には住まない」という共通理解が働き、危険な土地が安易に売買されることはありませんでした。
しかし市場経済が浸透するにつれ、堤防の建設や盛り土といった人工的な安全基準を形式的に整えることで、本来は自然の脅威に晒されやすい土地であっても「宅地」という擬制商品に仕立て上げられ、市場で盛んに売買されるようになっていったわけです。

「異常気象の時代」における不動産売買
もちろん、近年の水害で被災された地域すべてが過去に危険視されていた土地だったと言うつもりはありません。過去には多摩川水害訴訟(1974年の台風水害を巡り、河川管理の瑕疵が争われた裁判)などの教訓を経て、国や自治体も一定の治水安全基準を設けて造成を許可してきたはずです。
しかし、現在私たちが直面している異常気象や線状降水帯による豪雨は、従来の治水基準や人間の設計上の想定をはるかに凌駕する規模で現実化しています。
先日の千葉の豪雨災害の被災地の報道を見るにつけ、胸を痛める事例が少なくありません。たとえば、念願叶って最近新築マイホームを構えたばかりの若い世帯が、購入後わずか数か月で浸水に見舞われてしまうようなケースです。
ここには、不動産の市場取引が抱える深刻な責任の非対称性が横たわっているように思えます。
売り手(業者):公的な安全基準を満たして造成・販売している以上、格別な法的瑕疵や不正がない限り、利潤を得て取引を完了させています。
買い手(生活者):想定外の自然災害によって資産価値が激減し、再度の被災リスクに怯えながらも、数千万円に及ぶ住宅ローンを長期にわたって返済し続けなければなりません。
自然という、人間の完全なコントロールが及ばない対象を「商品」として売買する仕組みを作った結果、その想定を超えた危険(不確実性)のしわ寄せが、最も弱い立場にある個々の生活者にすべて偏ってしまう。この構造には、少なくとも社会における常識的目線では見過ごすことのできない理不尽さが潜んでいます。
土地を市場で自由に取引できる「擬制商品」として制度化し、容認してきたのが近代国家であるならば、想定を大幅に超える激甚災害に直面した被災者に対し、単なる自己責任論で片付けるのではなく、住宅負債の公的救済や抜本的な治水・移転補償など、市場の失敗を補う踏み込んだ制度的手当てを真剣に検討すべき段階に来ているのではないでしょうか。
有限な人間の知恵と、無限の自然の力
市場経済システムや人間の知恵はどこまでいっても「有限」なものです。それに対して、土地の背後にある自然環境は「無限」の力を秘めており、人間の都合に合わせて完全に飼いならすことはできません。
例えば、近年の豪雨などの自然変動は人間のコントロールを超えています。海や川で人が溺れ死ぬことは、悲しい出来事とはいえ、我々の想像力の範囲内の出来事です。しかし、都会の道路で普通に自動車を運転していた人が冠水によって溺れ死ぬという事態は、人間の想像力をはるかに超えています。
これこそが「自然」の恐ろしさです。自然の怒りは留まるところがありません。その意味で自然の力は無限なのです。
有限なシステムの中に、無限の脅威を孕む自然を無理やり「商品」として押し込めようとするところに、近代社会の構造的な無理が生じています。
私たちは市場経済システムの利便性を享受する一方で、市場原理だけにすべてを委ねる危うさを自覚しなければなりません。市場経済と、それを支える地域や伝統社会・共同体の知恵をどのように調和させていくべきなのか。これからの時代を生き抜くために、私たちは社会のあり方を根本から問い直す必要があります。
擬制商品のもう一つの柱である「労働」や「共同体」の再構築については、別の放送でお話ししたいと思います。
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