エリック 優雅なる生活 第四話 『浜辺にて』第24章~第27章
・第一話『チョコレート工場にて』(あらすじ含む)第1章~はこちら
・第二話『ビアホール・マインツ』第9章~
・第三話『情熱の鐘』第21章~第23章
第24章 電話
エリックさんは続けた。オーストリアの街並みや年間イベント、過去の歴史からオーストリア人の気質について。ただ肝心な話の中身には関心が持てなかった。自分とは関係ない気がした。だからずっと僕の耳を素通りしていた、つぎのことばを聴くまでは――
「いちばん怖いのはなにかしたいと思って何年も過ぎた後、やっておけばよかったと悔やむんだ、過ぎた時間は取り戻せないからね」
レストラン『ヴァリエッタ』、そこでエリックさんのことばが僕の脳裏にこだました。
そうかも知れない……。あたらしいことにチャレンジするとき、失敗したらどうしようと怖くなる――それって好きな人に近づこうとするときに似ている――怖気づいてしどろもどろになってしまう。当たり障りのないこと言って、その場を取り繕おうとする。
恋愛も、あたらしいことやるときも、ある意味似ているのかも。やったことがないし、はじめての経験。相手の反応が怖い。だからいまの場所にじっといようとする。
レイラと逢って2週間が過ぎた。
“コール・ミー(電話してね。)” もらったメモに書かれた番号に電話できないでいた。何度受話器をにぎっただろう……。タイミングを逸してしまえば、だんだん連絡しづらくなる。
あれからエリックさんはいろんな人に逢わせてくれた。革職人、時計職人、有名デザイナー、トップモデル、建築家、何代も続くレストランオーナー、ワイン造りひと筋の職人……業界の第一人者をはじめ、成功する事業家に逢わせてもらった。聴くと観るのとは大違いだ。肌と匂いで感じるだけで彼らのその世界は浮かんできた。
ビジネスがどうやってかたちづくられ、でき上がっていくのか――商品やサービスの成り立ちからその仕事に携わる喜びや愛着、経営に対する心構えから従業員に対する愛情まで肌で知った。おかげでずいぶんと賢くなったような気がする。目で見、肌で感じる……。やはり実体験に勝るものはない。
その間もずっとレイラのことは気にはなっていた。
どうしているだろう……
そう想ったところで向こうからコールがあるわけではない。自分からするのは負けだ、そう思ってしまうのは彼女の勝気な性格のせいだ。弱音やスキを見せない彼女に苛立たしささえ覚えた。
かといってこちらからかけるのも正直怖い。2週間も空いて“いまさら何?”なんて言われたらどうしよう……。情けない男だ。自分という人間は!
そうだった。今日はパーティーに呼ばれていたっけ。「少しはオシャレしてくるように」とエリックさんに言われていた。そこで一着だけ日本から持ってきていた紺のスーツ、その袖にさっと身を通し、そそくさとパーティー会場へと向かうことにした。少し気分転換というか気晴らしになればいいやと思って。呼ばれた目的は考えずに。
第25章 マダム揚(ヨウ)
その場所はオーストリアの中心街にあった。名前は「華饗(カキョウ)」。外国に住む中国人を華僑というが、華ある宴(うたげ)を意味しているのか、韻を踏んでいるのだろう。華人による宴会を意味するその店は、中華料理をヨーロッパ風に味付けて出すという。
店は円卓を囲むように6つイスが並べてある。中華料理ではあるが、単に中国だけをイメージするものではない。どことなくエキゾチックだ。経済発展を遂げたシンガポールや上海、北京にある垢ぬけた中華料理店、そんなイメージだった。ヨーロッパの伝統家具を使っているせいか、ヨーロッパ風アジアンテイストという感じか。
円卓に近づくとテーブルに等間隔で並べられた食器が目に飛び込んできた。日本のものより3割は長い漆塗りの箸、唐草模様で描かれたスープ皿、まばゆいほど磨かれた銅製の茶器が置かれていた。
ふと奥の円卓を見ると目を奪われた。エリックさんから話を聴かされていたマダム揚その人が奥の円卓に座っていたからだ。紫に黄色のししゅうをあしらえたチャイナドレスに身をまとっていた。
アップした髪はピンできれいに束ねてありうなじは長く伸びている。テーブル脇からはドレスのスリットが観え、なまめかしく光る黒ストッキングの脚が覗いた。7センチはあるだろうか、ヒールの高い黒のパンプスがまた妙に似合っている。
まだエリックさんは来ていない。そこでさきに軽く会釈をし、2つ空けて椅子に座った。
「ハイ、あなたがヒロさん」
「はい。マダム楊さんですね。こんにちは」
マダム楊は流ちょうな日本語を使って気さくに話しかけてきた。年令は僕のひと回りちょっと上、37か38くらい。彼女も日本語を話せるらしい。
企業をいくつも経営するふた回り上のご主人と結婚、幸せな生活を送っていた。そんな生活もつかの間、日頃の無理がたたり心筋梗塞でご主人は急逝したという。それは結婚して12年が過ぎたとき。マダム楊もようやく社交界との交流も慣れちょうど脂が乗ってきたときだった。
「なにか飲む? オーストリアビール? それともせっかくだから青島(チンタオ)ビールにしたら?」
「青島(チンタオ)ビールでお願いします」
旅に慣れてきたせいか、エリックさん以外知った人がいないせいか、ここでは少しばかり大胆になる。
オーストリアやドイツビールと違って中国のビールは薄く感じる。泡立ちも少なく水っぽい。悪く言えば雑。だがその雑な感じが逆にここではホッとする。格式ばったヨーロッパに雑然としたアジア、そのふたつが混じり合えば妙な親近感を覚える。
ノドが乾いていたせいか、7分目くらいまで一気に飲み干した。薄い炭酸飲料を飲んでいる感じがして飲みやすい。
「はじめてなのね、オーストリアは」
「はい、3週間目に入ってようやく慣れたところです」
「このお店いいでしょう? オーストリアの感じがしなくて……」
「えぇまぁ。でもなんか不思議な感じがしますね。ヨーロッパなのにアジアそれも中国にいる感じで」
「ずっとヨーロッパに住んでいると、生まれ故郷が恋しくなるの。私が生まれたのは中国の広東(カントン)。小学生のとき父の仕事の都合で上海に移り、そこで台湾の企業にスカウトされ転職してね。
中学生は台湾で過ごし大学生のときに留学でオーストリアに来てそのまま貿易会社に勤めることになったの。そこで夫と出逢ったのが運のツキ。そのときからずっとここに住んでいるわ」
「じゃあかれこれ20年以上住んでいることになりますね」
「そういうことになるわね。だけど私には生まれ故郷の中国の血が流れている気がしていたの。ただそれがどこから来ているのかわからなかった。でもこの店にはじめて来てときわかったの。中国の様式美に包まれた瞬間、私は中国人だってことがね」
マダム楊の話はわかるようでわからない話だった。そりゃあ僕だって外国で日本料理の店を見つけ、そこで日本人が外国語をしゃべりながら日本料理を創っていたらそれだけで純粋にうれしい。
だがマダム楊の話には素直にYESとは賛成できない。どこかことばにトゲがあったからだ。はたしてそれが何なのか? ストレートに聴くわけにもいかず困惑した。彼女にはなにか、かなり思い入れがあると感じたからだ。そこでやんわりと尋ねてみた。
「でも楊さん、どうしてそんなふうに思ったんですか。僕も日本人だけど外国で紹介される日本にはどこかピントがずれている感じがします。なんというのかな、サムライとか寺、江戸、京都とかと古風なものが紹介されたかと思ったら今度はアニメとかシブヤファッションとかオタク文化。伝統ある昔のものかいま都会で流行のもの。
親近感は湧かないことはないけどそれって日本の一部分。決してそれが日本の本流じゃない。それに外国にきてまで日本文化に触れたいなんて到底思えません」
そう言うとマダム楊はやさしく諭すように答えた。
「なるほどね。言わんとすることはわかるわ、私もそうだったから。オーストリアの企業で働き、ヨーロッパ相手に仕事をしたとき、はじめは感じなかった、私が中国人だということを。
ただね、白人とアジア人の間には明確な線引きがあると感じたの。表向き差別はないとは言っていても裏ではやっぱり待遇に差があった。明らかに私のほうが成績は上なのに後輩の白人の娘のほうが出世は早かった。そういういろんな“差別”と感じる待遇を受けていくうちに自分がアジア人だからだと悟ったの。そんなとき現れたのが夫だった」
「そうだったんですね」
それ以上僕は口をはさまなかった。こちらから観れば、彼女の言う“差別”はそれほどひどいものじゃない。待遇の差なんてどこにでもある。人種に関係なくどの国でもよくある話だ。
だが楊さんが体験したことは彼女にとっての真実。彼女の想いをくみ取ることがいまは大事だ。
しばらく談笑しているとエリックさんがやってきた。
「話は弾んだかい?」
「えぇ、そうですね」
気をつかって話していた分、いまひとつ楽しめなかったのが正直なところだ。気疲れたのだ。ただそれを言うわけにもいかず、YESともNOとも取れないような言い方で言葉を濁した。
「マダム、食事は存分に堪能しましたか」
「いえまだ……。話に熱中してしまって……。ヒロさんと談笑していたとこなの。ユニークな子ね、ヒロさんは」
エリックさんの質問に、楊さんは僕のことをそうコメントした。ほめてもらっているのか軽くあしらわれているのか……。
「じゃ、まとめて頼もう。フカヒレスープにペキンダック、酢豚にかに玉、麻婆豆腐、エビチリ、チンジャオロース……」
「そ、そのくらいにしてください。聴くだけでお腹一杯になりそうです」
「ハハハ。ぜんぶたいらげなくてもいいんだよ、中華料理は。みんなで分け合うから食べられる分だけ少しずつ食べてその味を愉しめばいい」
「それを聴いて安心しました」
「何でもそうだが人は形式にこだわり過ぎる。マナーを重視し過ぎるか、軽視するんだ。中華料理にもマナーはある。だが一番大事なのはそのマナーがどこからきているか理解していることだ。形だけ覚えても意味が無いとまでは言わないが、食を楽しむ余裕が無くなってしまう」
「そう言われればたしかにそうですね。洋食でもテーブルマナー、フォークとナイフの使い方に決まりはあるけど、そこにばかりこだわり過ぎたら楽しめない」
「ただ知識として知っておくことは必要よ。いついかなる相手と食事をするかわからないからね」
「はい」
エリックさんの意見に同意していると今度はマダム楊が途中から口をはさんできた。あっちの意見に同意すれば今度はこっちの意見が気になってしまう。どちらか一方を立てるともう一方は否定するような気がしてしまう。これじゃ自分が無い気もする。なんて自分は優柔不断なんだ。
しばし談笑していて時計の針を観た。21時だ。ここにきて2時間は過ぎている。酔いが回り感覚が鈍ってきた。敬語で話しているつもりだが、ちゃんとしゃべれているか自信は無い。自分では話しているつもりだが……。時計の針が少し揺れて観える。いつの間にかうとうとと眠りこけていた。
僕が眠りこけていた間、ふたりは英語を中心に話していたようだ。時折り中国語を混ぜながら。夢心地のなかで響いてくる音がそう聴こえていた。
「そろそろ帰ろうか」
「は、はい」
唐突にことばをかけられたため深く考えず生返事をした。ほんとうはもっと長くいたかった。だが時計の針は22時を回った。そろそろ帰る時間だ。
「あら? まだいいじゃない。もうちょっといたって」
こちらの気持ちを察するかのように、楊さんは引き留めてくれた。それだけではない。驚くようなことを言ってのけた。
「なんなら私の所で飲み直してもいいわ。ちょうどいいワインが入ったところなの。せっかくだから寄ってらっしゃい」
「どうするかね? ヒロくん」
さっきまで眠気まなこだった僕の、心臓の鼓動は波打ってきた。どうしよう……まだ帰りたくはない。けれどあからさまに言うのもどこか気が引ける。初対面であつかましい気がしたからだ。
だがここは異国の地だ。少しくらい恥ずかしい想いをしても一時のことだ。そこで思い切って言ってみた。
「そうですね。もうちょっと楊さんとお話ししたい気がします」
「わかった。じゃあ僕は先に帰っておくよ」
話は決まった。楊さんのご自宅に寄ることになった。
第26章 魅惑の時間
その家は海の近くにあった。
岩に打ち付ける波。その波しぶきがガラス窓や建物の壁にかかるような海岸に近い場所に邸宅は建てられていた。
こんなオシャレなところにあるのか――。運転手付きの車で送られ、邸宅が近づいてくると、外からも中の様子が観えるその邸宅に見惚れた。こんなところで毎日過ごしているのか。そう思うと楊さんがうらやましかった。
「カチャ」。近づくとひとりでに開く電子ロックだ。「お帰りなさいませ」顔認証で解除されるオートキーとボイス。それはお出迎えしてくれるロボットだった。
「ゆっくりしてってちょうだい。バーボン、コニャック、赤白ヴィオ(無農薬)ワイン……何でもあるからお好きなの、飲んでいいわよ」
ご自宅の中に入って行くと、エスキモー犬のような犬がお出迎えしてくれた。舌でペロペロ来客を舐め回し、歓待する。彼がいてくれたら楊さんもさびしくはないだろう。
「汗かいたならシャワー浴びてもいいわ。白のガウンがクローゼットにかかっているから遠慮なく使ってちょうだい」
「は、はい」
あまりにスムーズな歓待にちょっと戸惑った。このガウンはこれまで誰が着たのだろう……。ホテルなら気にしないことでもご自宅だとやたら気になる。自分以外の男性か、亡くなった旦那さんの物なのか。だがそれはさすがに聴けなかった。
ガラス越しに眺める海は黒かった。外のサーチライトが照らす海面は荒々しくもなまめかしい。それはまるでこれからのことを予兆するかのようだった。
シャワーを浴び、バスタオルで体を拭いた後、ガウンに着替えた。続いて楊さんもシャワーを浴びガウンを着て出てきた。ヤバい。何だかドキドキしてきた。年上と言ってもいっぱしの女性だ。まだ30代後半。僕とは年が離れてはいるが十分に恋愛、結婚の対象になる。
窓越しに聴こえる波の音。その波しぶきを眺めながら適温に冷やされたワインを取り出しグラス傾けた。上から吊るされたスクリーンにはモダンジャズの映像が流れている。体がほてっているのか酔いが回ってきた。
「いつもこんなひとときを過ごしているんですか?」
「そうね。だいたいね。いつもとは限らないけどでも、ひとりでもここで飲むわよ。オーストリアに来た頃のこと、夫とのこと、事業のことなんかを考えてね。でもね、それとは別に想いをはせるのは遠い中国の故郷のことね」
「中国はずいぶん発展しましたね。アメリカをしのごうかという勢いです。やっぱり大陸の文化でしょうか。同じ黄色人種なのにずいぶん違う気がします」
「そうね。同じアジア人でも中国、韓国、インド、ベトナム、フィリピン、カンボジアとも違うわね。したたかよね、中国人は。欧米人と違ったドライさがあるわ」
「そうですね。でも、こうしてオーストリアの地で一緒に過ごしていると何だか不思議な気がします。楊さんが中国の人という気がしません」
「そうかもしれないわね。少しそこは距離を置いているから。でないと欧米人とは結婚しないわ」
しばし談笑していると、酔いが回り、睡魔が襲ってきた。うとうととしていると、厚めのタオルケットをかけてくれた。疲れが出たせいか、いつの間にかベッドの縁に寄りかかっていた。
ふと目が覚めるとベッドの中だった。どのくらい寝ただろう。時計の針を観ると午前2時だった。横に目をやると楊さんもベッドに入っていた。
「ずいぶん疲れていたようね」
彼女はこちらを観ながら微笑んだ。
「そ、そうですね。いろいろ目まぐるしく回ったから、ですね」
まさか同じベッドに寝ているとは! 慣れない地ではじめての場所ばかり。旅の疲れと酔いも回ったのだろう。夢見心地で眠りこけてしまった。
だがまさかこんなところに一緒にいるなんて! まるで映画か小説に出てくるような展開じゃないか。
「あっ」
僕の中からその声が出るが早いか、キスされるのが早かったのかわからない。いずれにしても楊さんは唇を重ねてきた。
最初は戸惑った。だが燃えたぎる情熱が吹き出した。ブレーキ外れたように彼女を抱いた。
「楊さん、どうしていいか……。僕、あんまり経験ないんです。こういうのって。正直……」
「心配要らないわ。流れに身を任せるのよ。そのままの気持ちで。素直に」
「はい」
だんだんと楊さんの呼吸が荒くなった。僕も体が火照ってきた。経験豊富なわけではないが、まがりなりにも少し女性経験はある。ただ、外国人相手というのはなかったが。
楊さんがベッドカバーの下にもぐったかと思うと、生温かな感触が伝わってきた。やわらかい何かが自分の体をまさぐった。抑えきれない衝動が自分の脊髄を伝わった。
「楊さん……」
ベッドの中で覆いかぶさると、彼女の中へ入って行った。生暖かい何かと一緒になった。つながった感じだ。好きなのか、愛しているのかはわからない。ただ、いまは彼女に身を任せ、こころのおもむくまま、流れに身を任せよう。
…………
どれくらい時間が経っただろうか。1時間? 2時間? 眠りに入ったかと思えばまたハグした。うとうととしながらそのまま眠ってしまった。
第27章 ブレイク・ファースト
目が覚めると彼女は白のガウンを背にポットに湯を沸かしていた。ホワイトにゴールドのラインが入ったカップに、英国式ポットで紅茶を入れていた。
「ヒロさんも何か飲む?」
「え、あ、はい」
外が明るく白けてきたせいか、シラフに戻っていたせいか、気恥ずかしさで一杯だった。余韻に浸りつつもすぐに気持ちを変えられる女性とは違う。男性は一気に醒めてしまうが、いつまでも引きずるものなのだ。ベッドでそのままいたいという気持ちがぬぐえなかった。
英国式朝食を、とばかりトーストに山盛りサラダ、紅茶にミルク、フライドポテトにソーセージ、目玉焼きを用意してくれた。ダイニングに置かれた広めのテーブル、そこにふたりで対角線上に座り談笑した。僕の心を解きほぐしてくれるかのように――。
「ヒロさんには恋人(スウィート・ハート)はいるの?」
唐突に質問してきた。戸惑いながらも絞り出すように答えた。
「え? まぁそうですね、いるような、いないような……。日本にカレンという好きになった女性がいます。彼女もたぶん僕のことは気に入ってくれているとは思います」
「そう……。ヒロさんが選ぶ人だからいい娘でしょう。けどあなたは少し物足りなさも感じているんじゃない? 女性としての色気やワガママさがないところに」
イチイチうるさいな! そう想った。なんで楊さんは僕のプライベートなことに土足で踏み込んでくるんだろう。なんにも知らないくせに!
「そんなことないですよ! 彼女はいい娘だし、彼女のことをちゃんと考えてますよ」
「そう。ならいいわ。ただムキになるところがね、当たっているんじゃない?」
そう言われてハっとした。カレンのことを彼女だと言いつつこっちではレイラに気を取られている。そんな優柔不断さを見透かされたからだ。いや、いまは目の前のマダム楊さんに翻弄されている。完全にやられている。
「あなたはね、女心がわかってないわ。そういう理屈で割り切ろうとするところがね、女をイラっとさせるのよ」
「そうかもしれません。たしかに僕は自分の考えと違うことを言われると、ムカっとすることがあります。否定された気がするんです。何というのかな、男としての存在をねじ伏せられた気が……」
「そうね、そういうところがあるわね、あなたには。でもね、素直に言えばいいのよ。正直に」
「えっ? どんな?」
「なんかいまの言葉ムっとしましたとか、してほしいことがあれば〇〇してほしいと言えば」
「え、そんなこと言えませんよ。そんなこと言って相手を怒らせたり、機嫌悪くさせてしまったら収拾が付きませんから。それにしてほしいことを言ってNOと言われたら目も当てられません。逃げ場がない」
「それに僕はバカ正直なところがあるんです。元気がなさそうに観えるときに“やつれているね”、怒って観えるときに“顔が険しいよ”って言ってしまう。それで怒らせてしまう……」
「怒らせること自体は悪くはないのよ、それ自体は。ただあなたは自分がどう感じるかに気持ちが行き過ぎて、相手の気持ちに寄り添えてないとこがある。正直に言うだけで、相手がいまどう感じているか、そこには想いをはせていないのよ」
「そうかなぁ……」
楊さんからそう指摘されてピンとはこなかった。というのも実感が湧かなかったからだ。どう言えば相手が不機嫌にならないだろうか、怒らせないだろうかとばかり考え、ほぐしたりほめたりした後、ドストレートなことをボスと言ってしまって結局怒らせる。その原因が何か、わかっていなかった。
「あなたはね、相手との距離感がわかってないのよ。話ができたらすぐ仲良くなったとカン違いする。友だちになった気がするのよ」
「でもみんな言ってくれますよ。きょうから友だちだねって。その言葉を信じてどこが悪いんですか?」
「社交辞令って言葉あるでしょう? いいように言っているだけ。でも踏み越えてほしくない領域って誰にでもあるのよ。あなたにだってない? 付き合っている女性のことを根掘り葉掘り聴かれたりして嫌な気がしてない?」
「んまあ、そう言われりゃそうですけど……。うーん何ていうのかな、うまく説明できないんですけど」
「でもいまはそれでいいのよ。だんだんいい方向になっていくから。アメリカにF・スコット・フィッツジェラルドっていう小説家がいたの。知ってる? 純文学の大家よ」
「え、音楽界にいる人とかじゃないんですか?」
「それはエラ・フィッツジェラルドというジャズシンガー、女性ね。彼女ではなく、同時代に活躍していた人ではあるけど、スコット・フィッツジェラルドは男性。いまではヘミングウェイと並ぶアメリカ純文学界のスターよ。
と言っても生きている間は不運が続き、美人の奥さんとともに短命でなくなったんだけどね」
「それがどう僕と関係しているんですか?」
「あなたと似てるところがあるの。詳しくはまた次の機会にとっておきましょう。楽しみに取っておいて」
窓越しに観える波しぶきを目にしながら僕は、考えていた。何がどうつながっているんだろう……。予想もしない展開に戸惑いを覚えつつ、ちょっとした冒険心が刺激された。まるで見知らぬ地に出かける旅のように。
<答えはいま知らなくてもいい……。いずれ時がくれば明らかになる>
エレナ婦人から言われたひと言。彼女の言葉を思い出し、いまは流れに乗って行こう――そうひとり想うのだった。
