エリック 優雅なる生活 第三話 『情熱の鐘』第21章~第23章
・第一話(あらすじ含む)『チョコレート工場にて』第1章はこちら
・第二話『ビアホール・マインツ』第9章~第13章
・第14章~第20章
第21章 怒り
その日の夜はなかなか寝付けなかった。寝返りを打ちながら気づいたときには4時を少し回っていた。まだあたりは薄暗かった。眠れず目が冴えてしまった僕は、重い体のままベッドから起き上がった。ソファに座って日記を書いてみたり、ベッドに戻って本を読んでみたりもした。それでも時間は一向に進んでくれなかった。
6時を過ぎた頃、窓から朝日が射してきた。日差しは伸びて影を長く映し出している。まだ起きたくはなかったが、仕方なく眠い目をこすり、パジャマ姿のままリビングルームに出て行った。
エリックさんはすでに着替えリビングで紅茶を飲んでいた。ちょうど朝食のブレッドを食べ終えたところだった。
「おはよう。よく眠れたかな」
「えぇ、まぁ」
「その顔は眠れなかったって顔だね。昨日はいろいろあったからヒロくんも何かと落ち着かなかっただろう。当然海の向こうとは勝手も違う。だがそれも一時の辛抱だ」
「……というと?」
「ここに来て間もないうちは、やることなすことすべてが新鮮だ。言ってみればそれは結婚したての夫婦みたいなものだ。しかしそんな気持ちも長くは続かない。ここでの暮らしも同じこと。じきに慣れる。
さて今日はお金の話をしよう。私が話すのもいいが、ゲストを呼ぶことにした。主にEUを中心に株や債権の売買の仕事をしているケントくんだ」
「はい……」
小さくうなづいてはみたものの、いまひとつ気乗りしなかった。金を横流しして儲けるヤツの話なんて聴く気がしない。そんなの時間の無駄だ。
ひと通りの身仕度を終え、テーブルに着いた。エリックさんの工場で焼いたというできたてのパンをひとつまみ手に取り、ポンと口に放り投げた。すると次第に口の中は香ばしさで一杯になった。
今日もエリックさんの運転で出かけるという。この日の車はアウディA4カブリオレ。2ドアオープンの車だが4人でも十分に乗れる。頑丈なビニールの電動ほろを外し、外の風を浴びながら走るのは爽快だ。僕たちは待ち合わせの場所、フレンチカフェ『ヴォンヌ』へと向かった。
店に着くと、レイラとスーツ姿の男が並んで座っていた。男はタバコを吹かしながら談笑している。ベージュのスーツをスマートに着こなし、ピカピカに磨かれたブラウンの靴を履いていた。僕にベージュの服は似合わないし靴は薄汚れたスニーカー、こんな格好じゃ肩身が狭い。
店の時計は11時より少し前を指している。お昼にはまだ早い。エリックさんと僕はカプチーノを注文、同じテーブルに彼らを前にして座った。
「おはよう。久しぶりだね、ケント。仕事のほうは順調かね」
「えぇ、なんとかやっています。最近アメリカドルの値動きが激しく、それに連動する形でユーロの動きも激しくなっています。まぁそうは言ってもいつものことですが……。大したことはありません」
驚いた。またしても日本語を話すじゃないか。エリックさんは、日本人の僕に合わせてくれているのか、やけに日本語を話せる人ばかり紹介する。そのあまりの手際の良さにいたく感心した。
エリックさんとケントが堅く握手すると、今度は僕に挨拶の順番が回って来た。
「名前はケント。はじめてかい、オーストリアは? いい所だよ、ここは。存分に楽しんでいくといい」
「ヒロです。よろしく」
僕は作り笑顔をした。イケ好かない雰囲気を彼に感じたからだ。僕よりも年上、年令で言ったら32、3くらいか。ビジネスの経験は豊富そうだ。だがそのエリート然とした立ち振る舞いが鼻に付く。そんなモヤモヤした思いを胸に秘め座っていた。
「いま、どんなビジネスをしているんだい」
のっけからその男は尋ねてくる。こっちは無職だとおおよそ聴いているだろうに……。失礼極まりない奴だ。
ぶしつけな質問をよそに、僕はほかに思いを巡らせていた。レイラを目の前にして昨日のできごとを思い出していたのだ。夜だとロマンチックに感じるが、昼だと照れる。その気持ちをレイラも察したのか横目で僕を見つめていた。
「答えてあげたまえ、ヒロくん」
しばらく口をつぐんでいると、エリックさんがうながした。
「これと言って何もしていないんですよ。以前はIT関係の会社に勤めていたんですけど、じきにそこも辞めちゃって……」
ケントの話など、どうでもいいように思えた僕は、まるで気のない返事をした。
「ということはリストラかい?」
会ったばかりなのにケントという男は、僕が一番気にしていることを情け容赦なくえぐってくる。この男にはデリカシーという言葉もないのか。レイラには“次のビジネスをはじめるまでの猶予期間――”なんてうそぶいていたが、ケントの容赦ない質問に、うまくことばを返せない自分がそこにいた。
「うん。まぁそういうことだね」
彼とは話したくなかった。比較されている気がしたからだ。たしかにいまは何の職にも就いてはいない――そんな自分がみじめだった。
「ヒロくん。今日ケントに来てもらったのには意味がある。お金がいかに人を支配し、振り回すのか、その見えざる力を知ってもらうためだ」
「……」
「それからレイラに来てもらったのは、女性の視点でも意見してもらおうと思ってね。ビジネススクールで経営学を学び、株の投資から経営コンサルティングの仕事を手がける彼女ならユニークな意見をくれるはずだ。二人とも日本語はたん能だから安心して話してくれたまえ」
「こういう場を作ってくださって光栄です」
自分の気持ちとは裏腹なことを言った。ウソをつくのは嫌だった。だが仕方ない。かつてサラリーマン社会にいたときは、建前ばかり言う彼らをバカにしていた。しかしいまはどうだ。自分が建前ばかり言っているじゃないか。そんな自分が恥ずかしかった。
ほとんど上の空でしか聴けない。手持ち無沙汰で仕方なかったので色鮮やかな建物群を見つけては眺めていた。
ん? またしても何かが脚に当たっている。それは生温かくて柔らかなレイラの脚だった。イスの背もたれにもたれかかると、ワインレッドのミニスカートからほどよく肉の付いた脚がこちらまで伸びてきているのが観えた。彼女はその長い脚で僕をつついてきたのだ。
会話に乗り気でない僕を見透かしたのか、レイラはたたみかけるような言い方をしてきた。
「日本じゃどうなの? ヒロ」
無理に話題を振ってきた。話について来れるよう気をつかってくれたのだ。その心配りに彼女なりの優しさを感じた。
ただ、その後もケントは気に障ることをイチイチ言っては来たが……。
第22章 魅惑
話は経営や投資をはじめとするお金の議論に集中した。仕方なく適当にあいづちを打つしかなかった。ピンと来なかったからだ。話に付いていけない僕は、屋久島でのひとときをボンヤリと思い出していた。
源三さんはいま、どうしているのだろう……。彼と過ごした日々が懐かしい。あのときの話題に比べ、今日は何てややこしい話なんだ。時折り絡んでくるレイラも僕のことをどう思っているのか。
ふと、彼女の気持ちを確かめたくなった。じかに触れてみたくなったのだ。彼女の両手はヒザの上にチョコンと添えられている。その手に僕の手を重ねると、柔らかく温かな感触がじんわり伝わってきた。すると彼女も手を裏返し、こちらの手をギュッと握ってきた。
「……だと思うが――。どうだね、ヒロくん」
「えっ」
今度はエリックさんが話を振ってきた。チラリと横目でレイラの顔をのぞいた。僕の気持ちを察してか、彼女も微笑み、いたずらっぽくこちらを見ている。
「ごめんなさい。ちょっとほかのことを考えていて……。オーストリアという国の居心地が余りにもいいもので……。ここに住んでいる人は恵まれているな、なんて思っていました」
すかさずケントがわかったような物言いをして来た。
「まぁ仕方ないさ。初めて訪れた地なんだから。僕たちには珍しくも何ともないけどね。毎日こんな感じだから。そうだよな、レイラ」
「そうね」
レイラはまるで素っ気なかった。彼女を取り囲むように、周りには赤ワインやオレンジ色の屋根の建物が観える。色の暖かさは彼女の表情の冷たさとは対照的だ。一方、壁はブラウンやアイボリーなど、落ち着いた色を基調としている。
通りには春物のカジュアルな服を着こなし、品よく歩く人たちが観えた。その光景を見ていると、なんとなく心が落ち着いた。
しばらくすると店のスタッフがやってきた。グラスを手にし、水をつぎ足してくれた。その男性はアイロンがかかった白のシャツとタック入りパンツを履き、蝶ネクタイを締めていた。ここではすべてがサマになる。
エリックさんは、退屈そうな僕のことを気にかけてくれたのか、話題のほこ先を変えてくれた。
「美しい光景も、見慣れるとそれが当たり前になる。私は世界を旅して来たが、日本、なかでも京都や奈良はほかとは違う。何かがそこにある。ワビサビといった日本古来の伝統と文化を感じさせてくれた。いつもと違う場所に身を置くのもいいものだ。
忘れないうち紹介しておこう。ケントはレイラのボーイフレンドなんだ。付き合って3ヶ月になる」
何だって! 付き合っているなんて知らなかった。じゃ、いままでの態度は何だ! 僕をからかっているのか。
エリックさんの話は続いた。
「今日の話は少し専門的過ぎるかも知れない。しかし知っておいて損はない話だ。がんばって着いてきてほしい。
一見、投資の世界は理詰めで動いているように観える。業績に応じて企業の将来が予想され、株や債券が買われたり売られたりするからだ。ところがそうした動きとは別に、市場は感情的な反応もする。トップのちょっとした発言が引き金となり、好感されたり悲感されたり……。言わばそれは女性的反応とも言える」
「どういうことですか」
「市場と女性は感情的に動くものだ。例で示そう。多くの女性は放って置かれると、落ち着かず不安になる。愛されていないと感じる。男は心の隙間を仕事でごまかすこともできるが、女性はそういうわけにもいかない。誰かといたい。愛が欲しいんだ。放って置かれるといつしか気持ちも冷めてくる」
「そんなものですかね」
女性の気持ちはいまひとつわからない。レイラが続けた。
「ヒロにはわからないかもね。ただいくら愛を示されてもこっちの気持ちをくみ取ってくれなかったら、それも不満よ。そんなの一方的な愛だから」
レイラはそう言い、ケントをにらんだ。
「おいおい、話をこっちに振るなよ」
ケントは困ったような顔をし、エリックさんに軽く目配せした。
「話が少し脱線した。元に戻すとしよう。市場は敏感だ。株価も市場に合わせて動く。将来性ある企業には市場もラブコールをする。ところがひとつでもほころびが出ると、すぐにニュースとなり株価は揺れる。そのうち次々スキャンダルが出て一気につぶれることもある。
アナリスト経験の長いケントにこの続きは話してもらおう」
「わかりました。最初は私も、企業は実績を上げさえすれば市場が評価してくれる。それに連れて株価も上がる。そう単純に思っていました。ですが一概にそう言い切れない面もあるとわかりました。
実績という『事実』より公表されるニュースに市場は敏感に反応するのです。仮にそれが脚色された、事実とは異なるものであっても――。大衆はちょっとしたニュースにも影響されるものなんです。
これはある大手老舗鉄鋼メーカーの例です。その会社は創業100年を経たのち、業績を上げる策として、オーナーが創業者からやり手の投資ファンド会社に代わりました。その後、企業の吸収・合併を繰り返すようになりました。いわゆるM&Aというヤツです。その際、収益を上げる為たび重なるリストラをし、効率化を極限まで推し進めました。
その結果、それまでパッとしなかった業績が急に上向きとなり、一気に黒字化しました。銀行や市場からは、より有利な条件で資金調達でき、新たなM&Aを実施していきました。調和を重んじる企業からドライなアメリカ企業型経営へと変わっていったのです。ところが決算発表後、株価が一気に下がりました」
「どういうことか話してくれ」
エリックさんは話を続けるよう促した。
「はい。この企業は水増し決算といった不誠実なことは一切やっていなかったんです。実に健全で透明な決算をやっていた。ところがある点を見落としていたのです。それが致命的だった。
従業員のことを考えていなかったんです。株価や業績を上げることばかり考えていて、従業員の不満は置きざりにしていたんです。
これが後で響いた。あるとき従業員の不満が爆発した。集団で提訴し始めたのです。それも最初は誰かのマスコミへの投書がきっかけでした」
「興味深いね」
「マスコミはその企業の広告も請け負っています。ですからいい加減な情報では記事にできません。スキャンダルを柱とする雑誌とかは別として。
ところが投書は一人だけじゃなかった。何人もの投書によって企業の内部事情が暴露されました。インターネット匿名掲示板にも書き込まれました。上司との激しいやりとりも一部始終録音され公開されました。プライバシーの問題もあるので、そのサイトは即刻削除されましたが。すると今度はほかのサイトで次々とアップされていったんです。
ですが不当労働行為というのは表向きの話で、本当の問題は別の所にあったと観ています」
「……というと?」
「つまりはこういうことです。人は、誰かに認められたり、ねぎらってもらえれば、きつい仕事でも結構やれるものです。給与が少々低くても」
「なるほど」
「けれども不満を聴いてもらえなかったり、ロボットのように扱われ、簡単にリストラされる状況が続くと、従業員の不満は溜まっていく。どこかにはけ口がないと、いつしかそれは爆発するんです。
こうした働かされる側のネガティブな心情を見ず、一方的に自分スタイルの改革を推し進める経営者は実に多い。中には“自分が認められたい”という欲求だけで企業を成長させようとする。そのヒズミが破たんの原因となるんです。
元々それは経営者の“怒りや悲しみ”を成長のエネルギー源とし、従業員をないがしろにした結果引き起こされるのです」
「それなら僕も同じです! 両親に理解されなかった怒りや悲しみをバネにしていますから」
どこかフテくされていた僕は、つっかかりつっかかりしながら、投げやりな言葉を吐いた。
「内なる想いをうまく外に出せているならいいんだ。きれいに昇華できているわけだから。だけどそれにフタをしたり見て見ないフリをしていると、後で痛いしっぺ返しがくる」
「じゃあどうしたらいいんですか? 過去の痛みを持った経営者は」
「その想いを家族や友人、時に従業員と語り合う場を持つことだよ。精神的に落ち着き、飾らない自分でいること。そうすれば身近な人たちとつながることができ、ひいては市場とつながることになる。
まれにだが大企業にもそういうところがある。アメリカのスターバックスやブラジルのセムコといった企業だ。こうした企業は大きな割に従業員の意志をとても尊重するというユニークな面を持つ」
「ふうん」
ケントの一連の話はエリックさんからも聴かされていた。だから言っていることはわからなくもなかった。ただスンナリ同調するのも何だかシャクだ。そこで適当に相づちを打つことにした。
「偉そうに言うけどケントだってまるでできていないじゃない」
レイラが話に割り込んで来た。
「おいおい、いきなり突っ込むなよ。言うは易くおこないは難(かた)しさ。自分の弱みを吐露するなんて真っぴらゴメンさ。正直負けた気がするからね。さてと、そろそろ行こうかレイラ。エリックさん、この辺で失礼します」
そう言うと、ケントはレイラの手を引いた。もう一方の彼女の手はテーブルの下で僕の手を握っている。キュッとレイラは僕の手を強く握り締め、何かを手渡した。
「じゃ、またね」
彼女は立ちあがり、別れを告げると、その場をそそくさと立ち去った。名残惜しい気持ちをかき消すように、ケントの車の排気音が僕の耳にうるさくこだました。
レイラから渡されたのは紙ナプキンだった。エリックさんに感づかれぬようこっそり見ると、そこには“call me(コールミー)”と書かれてあり、その横には電話番号が添えられていた。
「場所を変えようか」
エリックさんはそう言うと、極上のパスタを食べさせてくれる店に連れて行ってくれた。店は10分くらい山手に走ったライン川の上流、小高い丘の上にあった。見晴らしが良く、シンプルに造られた外観は格式ばったヨーロッパ調ではなく、イタリアやスペインを思わせるラテンのノリだった。
そこでふと、僕はある映画を思い出した。素潜り世界チャンピオンを競う、美しい海を舞台にした映画『グラン・ブルー』(※)だ。その中で主人公のエンゾが、ライバルのジャック・マイヨールとうまそうにスパゲティーを食べるシーンがある。開放感いっぱいの店の雰囲気が映画のワンシーンを思い出させたのだ。
(※『グラン・ブルー』:「レオン」「タクシー」「フィフスエレメント」「トランスポーター」で有名なフランスの監督、リュック・ベッソンの映画。シチリアなど美しい海とエリックセラの音楽が印象的でロングヒットした。)
第23章 情熱の鐘
レストランの名は『ヴァリエッタ』。ここのパスタは地元ではピカ一、絶品の味だという。そんなイタリアンレストランがオーストリアにあるなんて。
ライン川が真下に観えるその場所は最高に心地よく、さきほどの議論の息苦しさを解き放ってくれた。時間になったのか外では“ゴーン、ゴーン”とお昼を告げる鐘が鳴り響いている。
店はオーストリアの建物にしてはざっくりとした造り。オープンテラスに白いイスとテーブルのみ。それらが雑然と置かれ、屋根は竹であしらわれただけ。
床はコンクリートの打ちっ放しで少し傾斜があるうえ、わずかに波を打っている。どちらかというとブラジルや地中海の店の雰囲気。ここならリラックスして話せそうだ。
「どれにするかい? 私は地中海サラダに海の幸のパスタで行くとしよう。ヒロくんは?」
「そうですね。サラダはMでお願いします。パスタはシンプルなペペロンチーノで。パスタも分けて食べたいんですがよろしいですか」
「もちろんだ」
エリックさんはボーイを呼び、注文を終えた後、口を開いた。
「どうだね。ここにきた感想は? ここの雰囲気にも少しは慣れたかな」「ムリですそんな。まだ3日目ですよ! ただ心配していたほどでもなかったです。来てみた印象は、日本ではじめて訪れる場所とさほど変わりません。新しい土地に行けば慣れないことばかりですから。
日本にいたときは、逆に日本語が通じるぶんかえってやりにくいこともありました。わかって当然―― みたいに扱われるのがオチですから。ただエリックさんは最初から極端な所ばかり連れて行くからすごく戸惑いましたけど……」
「ははは。少しやり過ぎたかな。まぁそれにも何がしかの意味はある。きみは観光をしにきたのではないからね。経営やお金の話もしているが、これからの人生をどう生き、どんなことを伝えていきたいのか、ということを基本に考えてもらっている」
「その話なんですが、エリックさん。言っておきたいことがあるんです。正直、息が詰まりそうです。話自体はなんとなくわかります。ですがここにきて戸惑っているんです。そんな面倒臭いことをしてまで成功したいのかなって。そう思えてきました。何か責任重大って感じがして……」
「……と言うと」
「まず自由がかなり制限されるじゃないですか、事業家や経営者は。時間的にもしがらみ的にも。たとえば一般的なサラリーマンだったら自分のことだけすればいいでしょう。内容にもよりますが、適当に暇をつぶすように仕事をしていても、さしておとがめはない。完璧さは求められないし、できる分だけこなせばいいので気が楽でした。
ですが経営者ともなればそういうわけにはいきません。発言ひとつ取ってもイチイチ責任が伴う。品質から雇用環境を含め、すべての責任を負わなければならない。責任ばかり負わされる気がして到底僕には務まりません」
「なるほど」
「部門ごとのチームをまとめ、束ねる器がないといけない。ほかのことに気を取られたりして感情的に揺れていると、きちんとした指示が出せない。そんな大役とてもムリです。完璧じゃないですよ、僕という人間は。
たとえばチームの誰かから文句を言われたら傷付きます。基本ナイーブなんです。何かあるとすぐ悪いほうに考える。ひとりでも自己主張の強い人がいたりすると気にしてしまい、反論できません。それに……」
「それに何だい?」
「こんなことエリックさんに言うのは恥ずかしいんですが、好きな女性が現れると気になって仕事どころじゃなくなるんです。だから僕には一人何役もの仕事なんて絶対ムリ、できません。
カレンに逢ったときまでは、この世にはカレンしかいないって思っていました。でも日本を出てオーストリアにきてみると、こっちもこっちでいい。少しでも魅力的な女性を見かけると、すぐそっちに気持ちが行ってしまう。
特にレイラみたいに芯のしっかりした子なんかは、自分にないものを持っている気がして心惹かれるんです」
「ハハハ。きみも男だね。正直に言ってくれてうれしいよ」
「そうですか? 僕自身自分のことはよくわからないんです。付き合っている子がいるとします。彼女のことはとても愛している。ところが何年も一緒にいると、空気みたいな存在になる。いて当り前、みたいな感じで。しばらくすると何か別の刺激が欲しくなってくる。
もちろん彼女のことも忘れたわけじゃない。大切に思ってはいる。そんなときでもふと、ほかの女性にも触れてみたい……。そう思ってしまうんです。特にレイラみたいに魅力的な女性が目の前に現れたりすると、そっちに惹かれてしまうんです」
「男ならそれがふつうだろう」
「だから僕、結婚とかできない気がします。ずっと愛し続けるなんて考えられない。そんな責任重大な約束をするなんて僕にはムリです。お話を伺っていると経営って結婚とどこか似ているなって……。飽きずに続けることも大切とわかってはいるんです。でもその一方ですごく大変に思えるんです」
「なるほど。面白い視点だね。たしかに大変な面はあるだろう。経営と女性の扱いはある種似ている。自分の力じゃコントロールできないところがあるからね。いや、もっと言えば女性を扱うほうが経営よりはるかに難しいかも知れないがね」
「えぇ。ですから女性一人にここまで振り回されてしまう僕に、経営なんてとてもできないって思うんです。そんな状態だったからケントの話に着いていけなかったんです。上の空になってしまった」
「いいかい、少し誤解を解いておこう。経営者とか社長というと、さもすごい人だと感じるだろう。まるで聖人君主みたいに思えて。だけど実際にはそんなにすごい人じゃないんだよ。それどころか逆にお金とか女性とかに結構ズボラだったりする。
歴史に残る偉大な成功者を見てごらん。彼らには女性の影が必ずある。最悪な女性がつくと、男を振り回すだけ振り回し、自ら身を滅ぼしてしまう。言ってみればスズムシやカマキリのオスが求愛後、食べられてしまうのに似ている。
逆に唯一無二の同志のように応援し、支えてくれる女性が付いた場合、少々男に欠点があろうとも見事にそれを補ってくれる」
「そんなもんですかね」
「ああそうだよ。人生最高のパートナーは結婚とか恋愛といった枠にはとらわれない。共に何かを創る運命共同体、同志なんだ。芸術家ではピカソや日本の岡本太郎、科学者ではアインシュタイン、音楽家や皇帝、殿様など歴史に名を残した人には常に女性の姿があった。ファッションデザイナーのシャネルなんかも事業を始めるときには支援する男性がいてくれた」
「それは結婚相手によらず、ですか?」
「そうだよ。結婚という形にとらわれるから話がややこしくなる。こうするのがスジとか当たり前だとか言って責任を相手に求める。だからうまくいくものもいかなくなるんだ。そういった縛られた関係ではなく、まずは自分が楽しむ。そのうえで周り人の力やパートナーの協力を得る。余裕が出れば人のことも考える。そうすれば創造性が発揮されていく。
多くの人を魅了する芸術家や音楽家、経営者には何かしらの魅力、オーラのようなものがある。だから人が惚れるんだ。男女関係も安っぽい色恋沙汰とは違う、もっと深遠で奥深いものだ。きみの揺れ動く心情もごく自然なものなんだよ」
「そうですか。僕はそういう風にはとても思えないなぁ。他に適任者がいるんじゃないですか。奥さんと子どもと仲良く、まさしくマイホームパパって人が。あぁいう人こそ真の経営者だと言えませんか。とは言え僕にはとてもムリな気がしますけど」
「たしかに人間的にも仕事的にもできた経営者はいる。すべてが平和で幸せに満ちている人だ。だがそういう人は実は珍しい。ほとんどいないんだよ。
エドさんを覚えているだろう。彼は毎日遊んでいるんだよ。第一線を退いてからは、いつもバーにきては遊んでいる。女の子をからかったり、たまにちょっかいを出したりするんだよ、あの歳で」
「いい歳して何やっているんだって思いましたよ。レイラのお尻を触っていたんですからね。あれなんかセクハラじゃないですか」
「エドさんは昔からあのノリだったんだ。女性に対してはいつもそう。だが嫌がる人にはしないんだ。ちゃんとわきまえてはいる。それにレイラもまんざらじゃなさそうだったじゃないか」
「えぇ、まぁ……、でもイヤって言えなかったのかも」
「そうじゃないと思うがね。レイラは笑っていたし、喜んでもいた。表情を見ればわかるはずだ。それよりヒロくん、実はうらやましいんじゃないかな」
「そ、そんなことないです! あの歳になってまで女性の体を触るなんて、単なるエロじじいじゃないですか!」
「そのムキになるところがおかしいね。気にならないなら放っておけばいいし、レイラが本当にイヤがっているならきみが止めてもよかった。だけどそれはしなかった、ということはだね」
「止めてください、もういいです」
「ハハハ、ジョークだよ。私は人生も恋愛も同じだと言いたいだけだ。
会社にいた頃、毎日毎日同じことの繰り返しだった。上司の言いなり。いい加減イヤ気がさしていたんじゃないかな? 当時はそれで意味はあったし、それなりにやりがいもあった。しかしどこか、くすぶっていた」
「おっしゃるとおりです」
「しかしそこから抜け出すことができなかった。新しいことにもチャレンジできなかった。それは慣れ親しんだ場所、親しくなった仲間と離れるのが怖かったから。どうなるかわからないから足がすくむんだ」
「そうですね」
「だがそこを離れる決心をし、足を踏み出した。すると光がさして来て、新たな出逢いがあった。新たな道ができたんだ。
うまくいかないとき、自分が拒絶されたような気持ちになる。絶望の淵に立たされた気分になることもあるだろう。だが本当はもっと恐れなきゃいけないことがあるんだ。そのことを聴きたいかい」
「何です、それは。失敗するよりももっと怖いことって……」
「それはパスタを食べてから話そう」
そう言うと、エリックさんはたっぷりと盛られたサラダをフォークとナイフで上手に取り、口にほおばり始めた。話の続きはお預けになったのだが、本格パスタの味と美しい風景に見とれて、しばし時を忘れた。
その日の夜、レイラには電話しなかった。食事後もエリックさんは街を案内してくれることになり、電話をする暇がなかったのだ。
