エレナ婦人の教え 第二話「見えてきた日常」第15章~第19章
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第15章 本質
沈みかけた夕陽を観ながら、気になっていた質問をエレナさんに投げかけた。
「不思議です。うまくいかせようとしても、状況は悪くなるんです。これってどういうことですか?
自分なりにベストを尽くしても何も変わらない。変わらないどころかますます状況は悪くなる。周りは知らんぷりで、まるで他人事なんです。するといつの間にか窮地に追い込まれる。自分だけが、です。それって不公平だと思うんです」
「そうね」
「周りが困っていれば、僕は、なにかと気にかけてきました。悩んでいたら、助けてきました。なのにこっちが苦しんでも、誰も助けてはくれない。おかまいなしなんです。何なんだこれは――。自分のことしかないのかってこっちは思いますよ。
親切にしたって返ってこない。自己中で適当に合わせ、夜は好き勝手しているヤツがラクをしている。そうじゃないですか?」
「あははは……。たしかにそれはあるわ。あなたの言うとおりね。
そうねぇ……。たとえばほら、行楽シーズンで観光バスとか乗るじゃない? そこで一番元気なのが、昔オバサンって言われていた人たち。言いたいこと言っているからストレスも無いのよ。お酒なんか飲んじゃって、いたって元気でしょう? おとなしいご婦人とかのほうがかえって調子が悪かったりするわ」
「そ、そうそう、そうなんです。職場でも好き放題してうまいこという人のほうが得してる。マジメな人の方が損するんです。世間で一般に言われていることと実際は違う。そうじゃないですか?」
「そうね、そういう傾向はあるわね。理想と現実は違うっていうのが……」
第16章 怒りの意味
「すみません。ついムキになって」
「いいのよ。気持ちを出していないと、苦しくなるわ。がまんばかりしていると、ミスが増えたり体を壊したりする。感情的になるのが悪いわけじゃないのよ。ときには声を上げることも必要、わかる?
たしかに『以心伝心』とか『沈黙は美徳』なんていう面はあるわ。ことを荒立てないほうがいいというのはね。
でもね、言い過ぎるのもよくないけど、言わなさ過ぎはもっとよくないのよ。度を過ぎた沈黙は体に毒よ。
親しみを持って『オバサン』と呼ばれる人たちが元気なのは、自由気ままに生き、言いたいこと言ってるからよ。思ったことをすぐ言って、ふだんから不満をため込まないから元気でいられるのよ。正直なのね、自分に」
「わかる気がします」
「私が聴きたいのはどうしてそこまで黙っているのかってこと」
「もちろん言ったことはありますよ! でもわかってもらえなかった。そのうち諦めたんです。言っても無駄だと思って……」
「でも言わなかったら状況はもっとひどくなるんじゃない?」
「……」
その通りだった。言ってもわかってもらえない――そう思っていた。でも主張しなければますます不利になる。どうすればいいんだ! 答えは見つからなかった。僕は袋小路に入ったネズミになったような気分だ。
なぜ主張しないんだ。なぜなんだ――。彼女のことばが深く胸に突き刺さった。
かつては人が怖く、素の自分を見せなかった。人の反応を伺っていた。でもいまは違う。ひと通りの経験をし、それなりに言っている。なのになぜ、強い口調で責める相手には、こうも弱いのか。
「恐れているのね、何かを」
おもむろにエレナさんは、口を開いた。
「そうかもしれません……」
「ちょっと聴いていいかしら? お父さんって、どんな人だった?」
「え? 父ですか? そうですね。幼少の頃から否定ばかりする人でした。僕のいい所――素直さとか明るさとか友達の多さとか――そんなところはほめてくれず、勉強さえしとけばいいって言う人でした。
勉強できないと、母を使いによこし、応接間に呼ぶんです。そこでネチネチと責めてくる。まるで刑事の尋問です。こちらが根を上げるまで詰め寄るんです。それもすべて理屈で。まだ幼稚園にいるときからですよ。
泣けばますますヒステリーのように怒る。“泣けばいいと思ってるんだろう”と責め立てるんです。“大丈夫かい?”なんてことば、かけられたこともなかった。そのうち諦めたんです。言ってもムダだって……。まるで他人と接しているような感じでした」
「その上司、あなたのお父さんに似てない? 理屈ばかり言って、責めてくる。いいカモにされているのよ。それって『いじめっ子といじめられっ子の関係』。あなたが純粋過ぎるから、まともに攻撃を受けるのよ。
でも感情的になればなるほど向こうの思うツボ。中途半端な言い方じゃ反論され、言いくるめられて終わり。最後は不満を抱えながら、ぐっと飲み込むのね」
「そ、そうです。その通りです」
「それは子どもの頃の記憶からくるの。親からされたことや言われたこと、そのときの環境が影響するのよ。ご両親はどういう人?」
「母はまるで自分がない人でした。父の言いなりなんです。僕が勉強しないと逐一父に報告する。すると父は、取調室の検事のように尋問してくる。逃げ場がなかった。最後はキレて家を飛び出すか、諦めて物思いにふけるしかなかったんです」
「仕方がなかったのね」
そう言われたとき深いところに響いた気がした。初めて自分のことをわかってくれた――そんな気がして涙がこぼれ落ちた。
「話はここまで。後は自分で気づいていくこと。カレン、用意して」
目の前に置かれたのは、青々としたブロッコリーが一杯入ったカレー。スパイスを効かしたカレーのルーが香ばしく、鼻の奥にツンときた。
第17章 離れのテラスにて
「さぁどうぞ。腕によりをかけたから、たくさん食べてね」
カレンは腕まくりをしながら、三人分の皿にライスを盛り、その一つひとつにカレーをかけてくれた。
本来家族の団らんであるはずの食事――その時間を楽しい、と思うことなんて一度もなかった。苦みつぶした父のご機嫌を伺いながら、かき込むように食べていた。味わって食べたことなんて、僕のページにはなかった。
「ありがとう。好き嫌いはないから何でもいただくよ」
真っ赤なロブスターにうす黄色のサフランライス。ブロッコリー、ニンジン、リンゴ、赤ピーマン、トマトなどたっぷり野菜に数種類のスパイスが入ったカレン自慢の地中海カレー。色とりどりの品がテーブルに並べられ、その色と香りは僕の食欲を刺激した。
そこでまずカレーをひと口ほおばり、味わってみた。
「これはうまい!」
思わず叫んだ。
「何とも言えない香り。カレンに初めて逢ったときのことを思い出したよ」
ふつうなら照れ臭くてとても言えない。そんなセリフでも口から自然に出てきてしまう。ようやくこの場にも慣れてきたということか。
心なしかカレンの頬が赤く観えた。
「生まれ故郷のオーストリア産ビールも用意しているからこれも召し上がってね。デザートのキウイ・プディングも私が作ったのよ。オーストリアの家がお菓子屋さんだったから、おじいさんが残してくれたレシピと写真を見て、見よう見真似で作ったの」
カレンの言葉に続けて、エレナさんが言った。
「今日はアルコールも飲むし、遅くなるから泊まっていらっしゃい。離れのテラスを見せておきたいの。ここから歩いて行ける距離よ。ビーチに建ててあるから、波の音が心地いいわ」
エレナさんのありがたい提案に素直に乗ることにした。このところ休みの日も仕事に出ていたが、どうせ辞める身だ。出なくたってどうってことない。
これからどうなっていくのだろう……。あえてその答えは探さなかった。先のことはわからない。いまはこのひとときを楽しむことにした。
第18章 星空のテラス
ディナーを終える頃には、いつしか日は暮れていた。周りには何もない。夜ともなるとあたりは真っ暗で何も観えなくなる。食事の後片づけを簡単に済ますと、遠くに観える、テラスのあるビーチまで下りることにした。
足元を照らす灯りを頼りに、山道を下りて行った。エレナ邸を離れるに連れ、あたりは一層暗くなり、家の灯りも届かなくなった。
空は満天の星たちで、きらきらと輝いていた。流れ星が現れては消え、願いごとを考えるのもままならなかった。そこで思いつくまま、浮かんだ言葉をつぶやいた。
エレナさんありがとう。カレンも僕のことを受け入れてくれますように。
「何か言った?」
カレンが尋ねてきた。
「ううん。エレナさんとカレンに出逢えた喜びに浸っているんだ」
「私たちもそうよ。あなたとは家族以上の関係に感じられるわ」
エレナ邸から歩いて5~6分は過ぎただろうか、ビーチにたどり着くと、白い建物が観えた。潮風で痛んだのか、ところどころペンキがはがれている。
小さなコテージ風テラスで、寝泊りもできる。波打ち際に建ててあるため、満ち潮のときは水の上に浮かぶという。屋根は出っぱっていて、雨の日でも濡れないようになっていた。
パラソルの付いたテーブルを囲むようにイスに腰かけ、押しては引く波の音と潮風を楽しんだ。後ろを振り向くと、ぼんやりと光るエレナ邸が遠くに観えた。水面にはテラスと僕たちの影が映り、揺れていた。
「カレンと話してて。紅茶を入れてくるから」
そう言うと、エレナさんはキッチンに入った。ここには、コンロ、冷蔵庫、シャワー、トイレ、ベッド……と何でも揃っているらしい。
カレンと二人っきりになった。あのビーチでの出来事以来、久しぶりだ。
「ヒロ、あなた変わったわね」
「え? どんなふうに?」
「落ち着いたわ、すごく――。輝いてる……。少し大人びてきた感じ。もちろん子どもっぽさも残ってるけど……。でもそれが落ち着いた光を放っている――そんな感じなの」
「そうなんだ……。そんなふうに言われたの初めて――。なんだかうれしいよ」
第19章 旅立ち
エレナさんはイギリス製磁器のポットに湯を注ぎ、紅茶をひとつまみ入れた。ティー・カップはドイツ製マイセンのもの。ブルーの唐草模様が美しい。
蒸れた頃を見はからって、温めていたカップのお湯を捨てた。色の濃さが揃うよう注意深く紅茶を注いでいく。
まだ冷めてはいないせいか、ポットの注ぎ口からは滝のように紅茶が出てくる。ダージリンの香りが湯気と共にやってきた。
「あそこに船が観えるでしょう。あの船ね、もう長く海に出ていないのよ」
エレナさんが指差す方向を見た。その方向には、こけが付き、潮風で傷んだクルーザー型ヨットが波止場につながれていた。
「あの船にはね、海に出るのに必要なものが揃ってるの。コンパス、海図、食料倉庫……、すべてよ。でも、杭にくくられたまま長い間出ていないの」
何の気なしに聴いていた。エレナさんの次の言葉を聴くまでは――。
「あの船ね、いつでも海に出られるよう準備してあるの。でもカレンの彼が死んでからは、一度も出たことがないの。誰も海に連れ出そうとしないのよ。
船も一人じゃ出て行けないし、いまの場所を離れるのが怖いのね、きっと……。受け入れられなかったらどうしようって……。あなたもあの船と一緒。
怖くても誰かが出て行かないと、誰も着いてこないわ。
海にはね、すべてがあるのよ……」
話の矛先を急に振られ、答えに窮した。
「おっしゃりたいことはなんとなくわかります。だけど僕は海に出たことがない。一応船の免許も持っています。でも近海を走らせただけで、遠くの海に出たことなんて一度もないんです。そんな大それた自分じゃない。
たしかにエレナさんと出逢ってから、状況に振り回されなくなった気はします。でもまだ早いと思うんです」
そう言うとエレナさんは、僕のことばをさえぎるように言った。
「あの船はね、カレンの愛した人が乗っていた船なの。時には、カレンを連れて海に出たわ。彼は旅先での思い出やハプニングを私たちやここに住む人たちに語ったわ。その話が多くの人々に勇気をもたらしたの」
エレナさんの話を聴き、もう一度船を見渡した。ペンキははがれ落ち、荒波を越えた跡がうかがえた。視線をカレンに向けると、やさしげな眼差しが目に入った。
「あなたが生まれてきた意味に気づくときよ。あなたにはまだわからないでしょう。それでも海に出るの。行きたい方向を思い描いて……。道に迷ったらその道の詳しい人に尋ねればいいわ。さあ、勇気を出して」
エレナさんのことばと、カレンの眼差しに導かれ、海に出ることを決めた。窮地に立たされたとき、エレナさんが現れたのも何かの縁だ。単なる偶然ではない。
いま出なければ、一生後悔するだろう。
僕は一人、旅立つ決心をした。
(第二話 見えてきた日常~終わり)
第三話 源三 語らない姿 に続く
