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406 『源氏物語』から見た現代 【第3回】「なりすまし」の先に待つ、プライドの行方

 2024年1月から断続的に読んできた『源氏物語 A・ウェイリー版』(紫式部著、アーサー・ウェイリー訳、毬矢まりえ訳、森山恵訳)は、主人公の光源氏が亡くなったところまで読んだのですが(3巻の「雲隠」)、ここまでに感じたことをAI(Gemini)と会話していたら、現代の私たちの生活や生き方との関係が見えてきました。平安はそんなに遠い昔ではないような気がしますし、現代とかけ離れた別世界でもないような気もしてしまう。そんな話を3回に分けて連載します。今回は3回目。最終回です。
 源氏物語はいまから1000年超前に紫式部によって書かれたフィクションでありファンタジーだと解釈するのが通常でしょう。ただ、生活や心理はその頃の実態を反映しているのではと仮定して考えています。またあくまで私の勝手な読み方の結果ですので、間違い曲解もあるかもしれない点はご容赦ください。


ユートピアか、アイデンティティの崩壊か

 誰もが「なりすませる」時代に、自分は自分でいられるのか。デジタルによる被覆を取り去ったあとに、なにが残るのか。AIがあなた以上にあなたらしく振る舞うとしたら、あなたはどう生きればいいのか。
 そもそも『源氏物語』を読んでいて感じたことからはじまったこの文章なのですが、終わりの回として現代から未来を考えます。
 匿名という「盾」で身を守り、権威という「後ろ盾」に責任を委ねれば、人生をより良く生きられるのではないか。それは伝統的な方法であり、古いようでも形を変えて現代にも通用しているんだなってことを感じます。ある人は古典的後ろ盾を得るし、ある人は金銭を払ってサービスとしての後ろ盾を利用する。
 これは便利だ、と思いつつ、テクノロジーがここまで生活を変えてきた今、私たちは歴史上かつてない「アイデンティティの揺らぎ」にも直面しているのではないでしょうか。

本当の自分なんて無価値?

 幕末の「攘夷」は、物理的に異物を排除することでした。しかし現代のデジタル空間では、AIや翻訳機を使えば外見や出自に関わらず、完璧な「日本人的な振る舞い」を模倣できそうじゃないですか。「私も日本人ですよ」と訴えれば排除されることなく溶け込めるかもしれない。バーチャルな空間では、そもそも国籍や性別を超えて、なりたいキャラになれる。そのバーチャルな世界はどんどんリアルな世界を侵食しています。それでメシを食っている人だっている。
 これは1000年前の平安貴族が見たらどう思うでしょう。『源氏物語』では顔も見えず、交わされる「言葉の美しさ」や「筆跡の美しさ」でその人の価値を見抜こうとします。前提として「どこのだれ」という情報はあり、それは血筋によってある程度の保証があります。加えて後ろ盾がいることがわかれば、なお保証も分厚い。
 それでも、人を見抜くために筆跡や言葉のチョイス、ダンスの巧みさなどを参考にしようとする。
 もし、そこに匿名性が加わったとしたら、血筋や肉体という呪縛から解放されて「純粋な知性のユートピア」が生まれるのか。ま、かなり乱暴な話になっていますけれど。じゃあ、マッチングアプリのアルゴリズムはどこまで繊細なのか。誰にもわからないわけです。AIによって相性を判断されたとして、判断の中身を分析することは難しい。でも「AIが選んだ人」というある種の後ろ盾を得られる。
 マイナンバーによる「個の特定」を厳密化する一方で、日常生活や文化においては、匿名での活動は広く深くなっています。いろいろな名でSNSをやっている人たちがいる。いくつものメアドを持って日々活動している人たちがいる。歴史的にもっと長く続いている匿名は、ペンネーム、芸名、源氏名でしょう。業界によっては匿名が前提になっていたりもする。ちなみに、源氏名は江戸時代の女性(女官や遊女)が『源氏物語』から名を借りて通称とする遊びがはじまりだとか。
 そして、なりすまして楽しさを享受している。あるいは犯罪に走って人の物を奪う。
 ありがちな話とはいえ、ユートピアの裏には、底知れぬ空虚も見えてしまう。
 そのとき「われわれ国民は」とか「日本人ならでは」とか「外国人は出て行け」なんてことをSNSで戦わせている人たちの存在と対比すると、いや、あなたたちはそもそもどういう人なの、という疑問も浮かびます。その発言者の正体は自動化されたシステム、一定の反応を日本語で発信するアルゴリズムかもしれない。
 さらにある種のアルゴリズムの中に、人間が組み込まれてしまっている可能性もあるでしょう。見た目は生身なのに、その言動はアルゴリズムに依存しているかもしれません。こうなるとアルゴリズムも後ろ盾機能を持っていると言えるかもしれないですね。
「おれが悪いなんじゃない。アルゴリズムのせいなんだ」とか言い出す人が出て来てもおかしくない。
 別名で生きるとき、虚構の名前を背負うことに特有のプライドを持っている人はそれでいいかもしれない。代々継承される名とか、憧れの名を得てプライドを持って活動する。あるいは匿名でありたいために、適当な名をつけて活動する。どちらも「自分の代行」「アバター」が成功すればするほど、どこかで「本当の自分(実体)は空っぽなのではないか」と不安にならないでしょうか。本当の自分なんて無価値なんじゃないか、なんて思ってしまわないか。

匿名社会の果てのプライド

 誰もが誰かになりすまし、誰もが責任を回避し続けるディストピア。信頼という言葉さえもアルゴリズムに、あるいは金銭に置き換わってしまうかも……。なんて暗く考える必要はないのかもしれません。
 日々、私たちは匿名の記事やつぶやきを見て、感動したり日々のヒントを得ます。匿名の誰かに感謝することもある。それは仮面をつけた正義の味方みたいなものでしょうか。あるいは私たちを罠にかけるショッカーのような連中でしょうか。
 『源氏物語』の登場人物たちは、「呼び名」に命を吹き込んで読者の中に生きています。紫の上は「紫の上」としての誇りを持って、その名から得る役割を演じきっています。もはや本名は知らなくてもいい。もし知ったとしても、そこに私たちの知っている「紫の上」はいないからです。
 私たちが手に入れた匿名性や、誰かに責任を委ねる知恵。それは自分を消すための手段ではなく、むしろ「多層的な自分」を豊かに生きるための武器、表現の幅を広げる勇気としたい。いい面に目を向ければ。

クラウドの中の「私」

 物理的な境界線が消え、誰もが匿名でつながる社会は、本名や肉体という「実体」を隠すことで、むしろ自分の発する「言葉」や「振る舞い」に対して、これまで以上に繊細な矜持を持たないといけないのかもしれません。自分ではない自分なので、いつもより勇気を持って発言できるとしても、そこには自分らしい線引きも求められるのでは? 「この一線は越えない」と決めなければ、アバターの命を危険に晒すかもしれません。
 人形をよりよく生きているように見せるために、操る技術を身につける。それもまた現代を生きるスペックとなり得ます。
 さまざまなデータがクラウドに保存されるように、自分の分身たちもそこで自分の延長として生き続けます。
 「なりすまし」が可能な世界で、それでも「あなた」にしか紡げない言葉がある。もしかすると、それを発見できれば、よりよい人生を生きられる。誰かを救えるかもしれないし、助けるかもしれない。なにより自分自身を助けてくれるかもしれない。アバターに命が吹き込まれ、現代の新しいアイデンティティが宿るなら、その匿名の「私」も、やっぱり私。どちらがこの世で花を咲かせるのか。誰にもわからないのです。
 終わりに印象的な「源氏物語」の和歌を添えます。四十帖「御法」にある亡くなりそうな紫の上に直面した光源氏の歌です。
「ややもせば、消えをあらそふ露の世に、おくれ先だつ程経ずもがな」


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