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小局歴史探訪-5-1〜専念寺の由緒書『勇猛山堀河院専念寺略縁起』〜


専念寺の由緒書、その1

専念寺の由緒書として、まず寺宝『勇猛山堀河院専念寺略縁起』の口語訳を紹介します。『専念寺史』にある古文を、毛筆原文→活字化(書籍「専念寺史」)→口語訳の順で、ChatGPTを用いて現代語に改めました。
なお、この略縁起の成立年代は不詳ですが、「専念寺史」によれば天正年間(1572〜1591)以降に記されとみられます。
物語のような文書ですね。

口語訳:勇猛山・堀河院・専念寺の略縁起

そもそも当寺の開基である唱導御坊は、大谷本願寺(本願寺)の第八世・蓮如上人の直弟子である。俗世での身分(出家前の家柄)をさかのぼると、人王八十五(もしくは八十六)代・後堀河院の第一皇子、刑部卿・昌仁親王の八代の後裔で、「堀川宮内卿・昌信」と名乗っていたという。

その由来を詳しくたどると、刑部卿・昌仁親王の母君は藤原実雅卿の娘で、「花園の局」と呼ばれた方である。当時、後堀河院の特別なご寵愛を受けて皇子が誕生し、昌仁親王と名付けられた。ところが、中宮・藻壁門院の嫉妬が深く、その父である摂政・藤原道家卿と共に謀り、母子を誅しようとした。そこで害を恐れ、寛喜元年(1229)七月十六日の夜、密かに都(花洛)を抜け出して北陸へ向かわれた。

なんとも痛ましいことに、本来なら「十善の帝位」にもお就きになれたであろうお方が、徒歩で泥土に足を濡らし、九重の宮中の住まいに代えて、北越の頸城郡・板倉郷の山中に身を隠された。そしてついに都へお戻りになることはなく、その地でお亡くなりになったという。その地は「御局村」と呼ばれる(母子がお住まいになったゆえの名である)。今なお親王ゆかりの旧跡が残っている。

その親王から八代を経た後裔である堀川宮内卿は、まさしく後堀河院の末裔としての家柄ながら、北越の山中に埋もれて名もなく朽ちていくことを嘆かれた。ある時、机にもたれてまどろんでいると、枕元に観世音菩薩が現れて言われた――

「妻子や宝物、さらには王位といえども、臨終のときに汝に付き従うものではない、これは仏の金言である。たとえ万世の帝位にのぼり、三槐九棘(最高位の公卿の位列)の交わりをなしたとしても、最期の夕べには何ひとつ身に伴うことはない。移ろう果報を願わず、すみやかに仏道に入れ。幸いにも今、洛陽には蓮如上人という念仏の大導師がおられる。急ぎ上洛して、生死を離れる要の法を聞くがよい。私は汝の家に伝わる観世音である。」

こう告げられる夢を見て目が覚めた。宮内卿は寂しい寝所で両眼に涙を浮かべ、よくよく思い巡らした――「草の露のような命は消えやすく、やがて鳥辺野の煙となるのも遠くはあるまい。そんな折に、観世音菩薩が私を憐れんで霊告を与えてくださった」と。そこでただちに上洛し、大谷本願寺の門を叩いて蓮如上人の教化を受け、深く感じ入って肝に銘じ、上人の弟子となって出家し、法名を「唱導」と賜った。このとき、師弟の証として「六字の名号(南無阿弥陀仏)」も授けられた。

のちに「故郷へ帰りたい」という望みに従い、木曽の険しい山越えを経て、まず信州・静沼の地に至って一宇(小さな堂・寺)を建てた。しかしほどなく一揆が起こったため、本国の御局村へ戻った。そこもまた辺鄙の地であったので、宿縁の導きによるものか、今は吉木村へと移り住んだ。こうして、宮内卿・唱導御坊の法脈は、滴り伝わるように受け継がれている。――まことに畏れ多い略縁起である。
(了)


原文(専念寺史より):勇猛山堀河院専念寺略縁起


原文の一部 「専念寺史」より

抑當寺の開基唱導御坊ハ大谷本願寺第八世蓮如上人の直弟子にて俗性を尋ねれハ人王八十五 (六) 代後堀河院第一の王子刑部卿昌仁親王八代の後胤堀川宮内卿昌信と号す、倩其由来を尋ねハ刑部卿昌仁親王の母公ハ藤原實雅卿の息女にて花園の局と号す当今後堀河院の御覚他に異り皇子誕生在し昌仁親王と号し奉ル、茲ニ中宮藻壁門院御嫉ミ深く摂政藤原道家卿(中宮の父也)と相謀て親王母子を誅せんと也故に其害を恐れて、寛喜元年七月十六日の夜密かに花洛を忍び出て北陸に赴き給う、痛ましき哉、十善の帝位にも登り賜ふべき御身として歩行の御足を泥土に趐て九重の住居に引替て、北越頭(頸) 城郡板倉郷の山中に忍ハせ給ふ、遂に帰洛ましまさずして其所にて失せ給ひしと云云。其地を御局村と号す(御局、母子住給ふ所故ニ名とす) 干今親王の旧跡残れり。彼親王八代の後胤、堀川宮内卿ハ正しく後堀河院の苗裔として王氏を出て久しからず然るに空しく北越の山中に埋れ木と朽なん事を悲み給ふが、或時机に寄て居眠りけハ枕の元に観世音菩薩立せ給ひて日ク妻子珠宝及び王位臨命終時不随者とハ是佛の金言也たとへ万葉の帝位に登り三槐九棘の交りをなすとも臨終の夕べには身に随ふもの有べからず、有為の果報を願ハず、早ク佛道に入へし。今幸二洛陽ニこそ蓮如上人といへる念仏の大導師在ります急ぎ上洛して出離生死の要法を聞べし、我ハ是汝カ家に傳る観世音也と告賜ふと見て夢覚めたとりと云云茲に宮内郷寂寞たる床の上に双眼に涙を浮べて、倩思ひ廻らせハ、草露の命消易けれハ鳥辺野の煙と登らん事は遠からず、然ルに、今観世音菩薩我を哀み霊告をなし給ふと夫より、急ぎ上洛して大谷本願寺の門に入り、蓮如上人の御教化を蒙り感涙肝に銘じ則上人の御弟子となり剃髪染衣の身となり法名を唱導と給ふ其時師弟印の為にとて六字の名号を賜ふ。遂に還国の望みに任せ、木曽の嶮難を越て先信州静沼に来つて一宇を構ひ然る所に一乱蜂起せしむるに付いて本国御局村に還る。是又辺鄙の所なれハとて宿世の因縁にや今ハ吉木村江移転し、宮内卿唱導御坊より滴ゞ相承する者也穴賢略緣記



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