朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』─視野を狭め、自分を使い切るということ
前編で、僕はこう書いた。視野を狭める人も、広げる人も、安全な場所には立っていない。だからもう、誰かに「やめなよ」とは言えなくなった、と。
その続きを書く。今度は、のめり込むこと、視野を狭めて何かに自分を注ぎ込むことが、本当にただ危ういだけのことなのか、という話だ。
滑稽さは、愛嬌になる
視野を狭めて何かに本気になる人は、たいてい滑稽だ。
この本の久保田も、そうだった。アイドルを売り出す「物語を作る側」として冷静に振る舞っていた彼が、担当の青年に思い入れを募らせ、組織の制止を振り切って、勝手に本人のもとへ押しかけてしまう。俯瞰しろ、管理しろ、と言われていた側の人間が、いちばん視野を狭めて、暴走する。傍から見れば、なんでそんなこと、と笑ってしまう。
でも、その滑稽さこそが、人間が何かに本気でのめり込んでいる証拠なんだと思う。
僕の身近にも、そういう人がいる。ちゃんとした立場のある、賢いはずの人なのに、傍から見ると「なんでそんなことを」と思うようなことに、子どもみたいに本気で取り組んでいる。普通ならその立場でやらないだろう、というようなことを、平気でやってしまう。
そして不思議なことに、その不格好さは、欠点にならない。むしろ愛嬌になって、人を引き寄せる。完璧に取り澄ました人のまわりより、急所をさらして何かに使い切っている人のまわりに、なぜか人は集まってくる。
去る人と、笑ってくれる人
もちろん、何かに本気でのめり込んで不格好をさらした瞬間、人は去っていく。馬鹿にする人、失望する人、黙って離れていく人が、必ず出る。
でも経験上、そこで去る人とのつながりは、もともとその程度のものだった。去るやつは、去る。それでいいんだと思う。
むしろ、その不格好を見て笑ってくれる人と、人はずっと強く結びつく。差し引きすれば、使い切って急所をさらすことは、人を失う行為じゃない。残るべき人だけが残っていく作業なんだ。
ただし「笑う」と言っても、見下して嘲笑する笑いではない。「こいつ面白いな、ついていこう」「気の置けないやつだな、かわいがってやろう」と、懐に引き入れてくれる笑いのことだ。
彼らが差し出すのは、お金じゃない。精神的なカンパだ。面白がって寄ってくる気持ち、黙って見守ってくれる視線、ついていこうと思ってくれる心。
「使い切る」は、誰のものか
この本を読んでいて、僕はドキッとした。
ファンダムを設計する側の人間が、自分たちのやっていることを、こう正当化するのだ。俺たちは推しから搾り取っているんじゃない、むしろ推しに「自分自身を使い切らせてあげている」んだ、と。そして信者の側も、自分を余らせたくないから、使い切らせてくれる物語に対価を払う、と。
誰かの物語に乗せられて、誰かの利益のために使い切らされるなら、それは危うい。でも、自分の物語で、自分の意志で使い切るなら、それは買い難い幸福になる。
同じ「使い切る」でも、主語が自分かそれ以外かで、まるで違う。
狭くても、いい
狭めて熱狂し続けると、面白いことが起きる。最初は下手で不格好だ。でも、狭い一点に注ぎ込み続けると、その分野に詳しくなる。10年も経つと、形になる。気づいたら、それが仕事になり、武器になっている。
僕の9年も、最初は落ち続けて不格好で、でも狭めて続けて、今ようやく形になりつつある。
でも、ここが大事なところで。武器になるかどうかは、結果でしかない。たとえ武器にならなくても、使い切ったこと自体に、変え難い幸せがある。やり切らなかった人生のほうが、僕はずっと微妙だと思う。
操る物語と、つなぐ物語
朝井リョウは、人を「操る」物語の怖さを描いた。プロに依頼して物語を作らせ、信者に能動的に拡大解釈させ、絶好のタイミングで撃ち込む。そういう物語が、人を狭めて、財布を開かせる。
でも僕は、人を「つなぐ」物語のほうを信じたい。不格好に自分を使い切る人が放つ、その人自身の物語。そこに語るに値する何かがあるから、人が面白がって寄ってきて、お金じゃなく、心が集まる。
本が「人を操る物語」を描いたのに対して、僕は「人とつながる物語」を、こうして書くことそのものでやってみたかったのかもしれない。
そもそもこの本を、僕がどう読み始めたのか。視野の話から書いた前編はこちらです。
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自分で編んだ物語の中で、胸を張って生きていく。その続きは、これからもここで書きます。フォローして、またみにきてください。
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