【長崎観光】大浦天主堂とグラバー園と“祈りの三角ゾーン”【行こ行こ#62】長崎小夜曲-8
これまでのあらすじ。
初日、戦前・戦中・戦後の歴史に触れた私は、もっと長崎を知りたくなった。そこで長崎2日目は、さらに時代をさかのぼり江戸期の長崎を歩くことにした。出島の見学を終え、いよいよ「祈りの三角ゾーン」と呼ばれるエリアへ向かう。
↓前回
修学旅行をやり直す
祈りの三角ゾーン」という言葉は、長崎駅近くの観光案内所で耳にした。
これはガイドさんに案内してもらったほうが断然おもしろい、そう直感し、予約のために駅へ向かった。
料金はネット予約で3,600円。いつもは「ボランティアガイド」さんにお願いしている私にとっては、少々値が張るのが正直なところだ。
しかも当日は「ネット予約限定」とある。
注意文言で手が止まる。
「お一人の場合は、2人分の料金になります」
…うーむ。7,200円か。
これは相当ためらった。さすがに値が張る。
しかし、この機を逃せば明日の早朝、飛行機の中できっと後悔するだろう。
「航空料金は無料(マイル消費をしただけ)なんだから、ここは支払おう」
私は九州に居るのに、清水の舞台からジャンプした。
昼下がりの石橋停留所にて
指定された集合場所は、昼下がりの石橋停留所。
盛夏の快晴。蟻も這わない炎天下。じりじりと照りつける。人の気配はほとんどない。

ベンチに腰をかけ、昨日聞いた話を反芻してメモを取りながら、ガイドさんを待つ。
辺りには、路面電車を待っているであろう年配の男性が一人。
帽子を被り、汗をかきながら座っている。
「ああー、誰かもう一人来ないかなぁ。そうすれば3,600円なんだよな。」
骨の髄まで庶民の私は、そんなことを考えていた。
路面電車が来る。誰も降りてこない。そして、年配男性も乗らない。
「まさか…。」
私は恐る恐る声をかけた。
「あのー…ツアーの…」
「あ!まるのすけさんですか?!声かければよかった!」
そう、我々は隣に座りながら、無意味に10分ほど、熱中症へのカウントダウンの針を進めていたことになる。
「(…7,200円!)」
声には出さなかったが、真っ先に頭をよぎったのは“2人分の料金だ…”という現実だった。情けないやら恥ずかしいやら。
ガイドさんはにこやかで、私は内心で電卓を閉じ、いよいよ“祈りの三角ゾーン”のツアーが始まる。
果物を手に
「では、行きましょうか」
ガイドさんがにっこり笑って先に歩き出す。昼下がりの長崎は、容赦ない日差しが我々を焼いていた。
私はタオルで首筋を押さえながら、その背中を追った。
道端に並ぶ古い石垣と、港町特有の湿った風が、熱を帯びた街を通り抜けていく。

途中、小さな果物屋があった。
「ここでよく、フルーツを買うんですよ」
ガイドさんは常連らしく、私もつられてスイカと梨を買った。気さくな街の風景に参加できた感じがなんともよかった。
宗教が同居する丘
長崎の急な坂を上がると、まるで宗教の交差点のような光景が目の前に広がった。それこそが、「祈りの三角ゾーン」と呼ばれるエリアだ。

ここでは、同じ丘の上に
キリスト教の教会(大浦天主堂)
神道の神社(大浦諏訪神社)
仏教の寺院(妙行寺)
これら3施設が、ちょうど三角形を描くように並んでいる。1枚の写真に収めると、異なる宗教施設が同時に写り込む、かなり珍しい風景になる。
大浦天主堂は1864年創建の、日本に現存する最古級のキリスト教会堂であり、翌1865年3月17日の「信徒発見」の舞台となった。
一方、大浦諏訪神社や妙行寺は、もともとこの地域の信仰を支えてきた神社仏閣として、長崎の人々の日常に根付いてきたそうだ。
このように、仏様も神様もキリスト様も、同じ丘で「同居」するかのように共存しているこの風景は、長崎がいかに異文化を受け入れ、重ね合わせてきたかを象徴している。
白い聖堂
祈りの三角ゾーンを後にし、私たちはいよいよ長崎の象徴とも言える大浦天主堂へと足を運んだ。
急な坂を降り、柵の向こうにその姿が見えてくると、胸が高鳴るのを感じる。

白亜の壁に緑青の屋根が映え、尖塔が天へと伸びる姿は、まさにゴシック様式の優美さを湛えている。

1864年に建立され、日本最古の現存する木造教会として知られるこの大浦天主堂は、街を見下ろす高台に立っていた。

正面に立つと、まず目に入るのが聖母マリア像だ。
急な勾配の階段を上り終えると、その姿に一礼して教会内に入る。
内部は撮影禁止なのでここからは写真はない。
正面にはステンドグラスと祭壇があり、天井は高い。
右手には聖母子像が置かれ、振り返るとはるか上にバラ窓も見える。
灼熱の外と違い、教会内は涼しく静かな空気が漂っていた。
ステンドグラスから差し込む柔らかな光が、教会内を幻想的に彩る。
沈黙を破る告白
大浦天主堂の中では、時を遡るようなガイド音声が流れる。
私は耳を傾け、物語は始まった。
1865年、フランス人司祭プティジャン神父がこの教会にいた。
ある日、何人かの日本人がそっと教会の中に入ってきた。
そしてプティジャン神父に話しかけた。
「われらのむね、あなたのむねと同じ」
1865年3月17日。
それは浦上村から来たキリシタンたちだった。彼らは見学客を装ってやってきたのだ。
後に“信徒発見”として知られることになるこの瞬間に、プティジャン神父はきっと息をのんだに違いない。
さらに彼らは続ける。
「私達は皆、浦上の者でございます。浦上では殆どみな私達と同じ心を持っております」
「サンタ・マリアの御像はどこ?」
神父は確信する。彼らはキリスト教徒であると。
すでにこの極東の地では、キリスト教が禁じられて数百年経っていたことは知っていたはずだ。
まさか、ここで自分たちと同じ信仰を秘めて生きてきた人々がいるとは思わなかったと思う。
神父は聖母子像の祭壇に信徒らを案内する。祈りを捧げる彼らの姿を見て、神父にはそれが、神の奇跡に思えたことだろう。
私は音声を聞きながら、その歴史的な再会のドラマに思わず胸が熱くなった。数百年の宿願が叶う瞬間とは、一体どんな風景なのだろう。
音声ガイドが終わっても私は立ち上がれずにいた。
250年の祈りと光
大浦天主堂の木製の椅子に腰を下ろし、ステンドグラスを見つめながら、私は思いを巡らせていた。
昔習った「信徒発見」。
そして「潜伏キリシタン」という言葉は、私にとって歴史書のただの記述でしかなかった。しかし、ここに来て初めて生々しい現実として私の胸に迫ってきた。
250年もの間、信仰を胸に秘めて生き抜いた浦上の人々。
「サンタ・マリアの御像はどこ?」
この言葉を発するために、どれほど勇気が必要だったろう。
彼らはこの天主堂という白い建物を遠くに見つけた時、喜んだのだろうか、それとも困惑したのだろうか。
教科書で習った知識の点が、線を描いてゆく。
島原の乱。
天草四郎の名で知られるキリシタン一揆は、ここ長崎で起こった。それらをきっかけにキリスト教はより一層激しい迫害と弾圧の歴史を辿る。
アジアやアフリカ、アメリカ大陸にも目を向けてみよう。
イエズス会が布教とともに行ったのは、植民地支配の足がかりを築いていたのだと思う。
信仰を広めた後に、植民地化する。
「Divide and Conquer」=『分割して統治せよ』はコンピューターサイエンスでよく用いられる言葉だが、これの元になっている「Divide et impera」は統治者が被支配者同士を分断・対立させて結束を弱め、支配を容易にするための統治手法だ。
キリスト教は、このヨーロッパ社会の植民地拡大に利用された側面もある。
豊臣秀吉や徳川幕府など、時の為政者がキリスト教を弾圧した理由も理解はできる。
振り返ってみれば、日本以外のアジア諸国は長いヨーロッパからの植民地支配を受けることになったのもまた事実だ。
午前中に訪れた、出島で知ったバタヴィア(現在のジャカルタ)を中心とする東南アジアが良い例だろう。
しかしその理由が、何世代にもわたる人々の苦しみや葛藤を正当化するわけではない。
イエズス会、幕府、潜伏キリシタン。それぞれの人々が、それぞれの立場、正義、そして国家や宗教を背負って生きている。誰が正しいというわけではないと思う。
ましてや現代を生きる私が断罪してよいことではない。
信徒発見以降、浦上の人々は、徐々にキリスト教徒としての迫害から解き放たれていったのだろう。
浦上にはその後、浦上天主堂という東洋一を誇るレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として献堂式があげられる。
正面双塔にフランス製のアンジェラスの鐘が備えられた。
しかし、その完成からわずか20年後。
彼らの救いであるこの教会のほぼ真上で、原子爆弾が炸裂する。
浦上天主堂は爆心地から約500メートルの至近距離で被災し、わずかな壁を残して全壊した。
昨日、長崎原爆資料館で見たあの被爆した浦上天主堂の側壁(再現模型)はこれだったのだ。
そしてあの「浦上の人々は諏訪神社に参拝しなかった罰があたった」という流説の流布につながっていく。
幾世代にもわたり耐え忍んだ祈りの先に、ようやく訪れた光が再び打ち砕かれる絶望は想像を遥かに超えていただろう。
私が教会の椅子から立ち上がれなかったのは、彼らが歩んだ苦難の250年と、その先に訪れる残酷な未来を知っているからにほかならない。
原爆資料館で知った「浦上」という地名が、ここでつながりあまりの運命の残酷さに言葉を失ったのだ。
呆然とステンドグラスを眺めている私に、ガイドさんが声をかける。
私は椅子から立ちあがろうとした。
その時。
雲が動いたのだろうか、強烈な日光がステンドグラスを通過し、極彩色の光が辺りを包んだ。
私は目を見開いた。
地面と壁に落ちた影は色とりどりに輝き、それはまるで天の国を表現しているようだった。
彼らもこの光を見たのだろうか?
それは束の間の慰めになっただろうか。
この光は長い迫害の歴史の先に見た、本当の「光」だったのかもしれない。
私は、この空間に来れたことを、神に感謝し、大浦天主堂を後にした。

グラバー園への旅路
近くの休憩所で、ガイドさんと座って、冷たいお茶を飲む。
石橋停留所で購入した冷たいスイカを味わいながら、久しぶりに味わう涼しさの中、大浦天主堂での衝撃的な信徒発見の話を、私はガイドさんと共に、長崎の歴史と文化についてさらに語り合った。

私の質問の多さにも、彼は誠心誠意答えてくださった。
原爆投下の話、軍港の話、豪華客船の話、そしてキリスト教徒の話。
私のメモはどんどん膨れ上がっていった。
汗も引いたので、我々はグラバー園を目指す。
高校生のときにも来たはずなのだが、グラバー園の中身はまったく記憶にない。オランダ坂を通った記憶はあるし、その近くでカステラを買った覚えもあるのに、だ。
食べ物に紐づけられた記憶しかないことに我ながら情けなくなる。

グラバー園へ続く急坂には、斜行(斜め進行)エレベーターも設けられており、日々の生活を支えている。
横浜など他の港町と同様、坂の街・長崎もアップダウンの激しい地形で、その急勾配を登るのは一筋縄ではない。

しかし、その先に待っている景色は、まさに絶景だった。
長崎の美しい街並みを一望できる。

遠くには洋館や中華風の建物も見える。


頂上に到達すると、眼下には大浦天主堂の荘厳な佇まいが広がり、そしてグラバー園の歴史的な建物群が見下ろせる。

遠くには、原爆の被害を受けた浦上地区の痕跡も視界に入り、長崎の歴史の重みを感じることができる。
グラバー園内では、グラバー氏やリンガー氏の物語も教えてもらった。
紙面の関係で割愛するが、この丘は当時としては別世界だったと思う。


長崎ちゃんぽんでお馴染みの『リンガー・ハット』は、英国商人フレデリック・リンガーの姓に由来し、Hutは「小屋」を意味する(“帽子”ではない)。それは昔ノルウェーで泊まった「ヒュッテ」と同じ語源の単語だろうと気づき、興奮した。
こういう、日常に潜む豆知識的なものも収集していて楽しい。

邸宅はどこもきれいに整備されている。ビデオなどで歴史などの案内もあるので、見学には良さそうだ。
とりわけ私はこのガラスの天井を備えたサンルームが気に入った。
ここでコーヒーを飲みながら書き物をしたら、さぞかし捗るだろう。
長崎の歴史と共に
数時間にわたり炎天下で、途切れることなく質問を続ける東京から来た大男に、ガイドさんは終始真摯に向き合ってくれた。
もともと学校の先生をされていたという彼の説明はとても分かりやすかった。
「観光のお客さんと話していると、私も勉強になるんです」
そう微笑む彼の姿勢は見習いたい。
別れ際、私は彼に歴史とは関係ない、二つのことを尋ねた。
そう、「飯」と「湯」だ。
私の旅を彩るメインピース。
まず、良い温泉施設を尋ねると、ガイドさんは「ふくの湯」を教えてくれた。たまに行くスーパー銭湯らしく、特に特徴がある訳ではないが、ゆっくりできるのだそう。
そして、長崎の地元の味について尋ねる。
ちゃんぽん、皿うどん、トルコライスは既に食べたと伝えると、彼は「白鉄火」を勧めてくれた。
これで今夜の風呂と晩飯が決まった。
最後に、彼に心からの感謝を伝え、別れた。
この二日間でめぐった場所と、そこで出会った人たちのことを思い返す。
長崎は、江戸時代から現代に至るまで、何度も困難を乗り越えてきたにもかかわらず、今もなお活気のある“生きている街”だと感じた。
この大人の修学旅行が実り多いものになったことを、ひそかに神に感謝する。
そして私は、教えてもらった温泉『ふくの湯』へと向かうのであった。
↓つづく
記事:まるのすけ
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