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【出島】遥かなるバタヴィア【行こ行こ#61】長崎小夜曲-7

前回までのあらすじ

端島(軍艦島)と原爆資料館で唐突に修学旅行のやり直しを始めてしまった筆者。
前回の気ままな食レポから、今回一気にお勉強へ逆戻りさ!
↓前回



第1章 修学旅行Ver.2

朝食と段取り

長崎2日目。朝食のトルコライス(長崎名物)をパクりとしながら、今日の工程を頭の中で並べ直していた。

グラバー園と「祈りの三角形」のガイドはネットで手配済み。端島(軍艦島)も、原爆資料館と平和公園も、昨日のうちに回った。

となれば次は——出島、である。


「鎖国」をめぐる自問自答

コロナの頃から、国際情勢がきな臭くなるたびに「日本は鎖国せよ」みたいな極端な論がSNSの地平線から湧いては消える。

さすがに乱暴だとは思うが、では自分は「鎖国」をどれくらい正確に知っているのか、と問うと、心許ない。


「鎖国」と聞けば「出島」。


江戸のはじめ、日本が海の扉をほぼ閉じた時代に、最後に残された不思議な場所。それが、長崎・出島だった。

前回長崎を訪れた修学旅行では行った記憶がない。いや、さすがに行っていたのかもしれない。だって、私の記憶といえば「さだまさし」と「カステラ」くらいなのだ。


洋上に突き出すその島に降り立ったら、きっと記憶も戻るだろう。
トルコライスを食べ終わると、私は席を立った。



出島へ向かう

散歩がてら、ダラダラと歩いて回る。

長崎の街並みは大変立派で、古くから活躍する国際都市としての側面を思わせる。
8月は午前中から暑く、2リットルのペットボトルの水が減るに従ってお湯になっていくのを感じた。

程なくしてGoogleマップが指し示す「出島」へ着いた。

目の前には川があり、対岸に橋がかかっている。


「はて? これは出島博物館的なものなのかな?」私は首を捻った。

確かに対岸には江戸時代っぽい建物があるものの、すぐ後ろにはビルが林立している。さすがにここじゃないだろう。

だって、出島は「島」だから。

社会の教科書にはそう書いてあったはずだ。確か絵だったけど、港があって船が停泊している。そんな感じだ。

一旦通り過ぎ、そしてGoogleに尋ねる。


検索ワード「出島」

やっぱりここらしい。


私は橋を渡り、門の前の案内板を見た。
「世界へつながる出島へようこそ」

どうやら、ここが“本当の出島”らしい。どこかから“移設”してきたのかもしれない。
とりあえず私は、入館料の520円を支払い中へと足を踏み入れた。



第2章 出島の復元

出島とは

サムライのような姿の係員さんに伺うと、ボランティアガイドがあるという。
ありがたい。


「ようこそ出島へ」

看板と同じように挨拶をされるガイドさん。


「ここ、もともとは海の上の人工島だったんですよ」

江戸前期の1636年に築かれ、1859年のオランダ商館閉鎖まで、日本が西洋とつながる唯一の
玄関口だった。

「当時は周り、ぜんぶ海。沖合に大きな船が停まって、小舟で荷を上げ下ろししていました」

島の周囲には護岸と土塁、建物は和風がベース。
扇形の敷地に商館や倉庫、役所の詰所がびっしり詰め込まれていた。



出島の役割

出島は「交易の現場」であると同時に「情報の窓」でもあったようだ。
日本側の役人がオランダ語文書を和訳して幕府に上げる。医学書や器械、香辛料や砂糖がここを通って日本に入り、逆に銅や陶磁が出ていく。

「橋は一本だけ。そこが“日本”とつながる唯一の出入口でした」

島は番所で厳重に管理され、橋は両側から見張られた。ここを越える出入りは、人も物も、記録の対象だった。



さっき渡った橋

「この橋、いったん無くなって、230年間存在しなかったんです。」
明治以降の市街化で海が埋め立てられ、島は陸地に飲み込まれていったそうだ。その過程で橋は失われ、20世紀初頭には扇形の外形も見えなくなった。

現在見ている表門橋(おもてもんばし)は2017年に再建されたもの

案内板には「よみがえる出島」という言葉が掲げられている。

そしてまだまだ復元の真っ最中らしいのだ。



第3章 出島の始まりと東インド会社

なぜオランダだけが許されたのか

“鎖国”と言っても完全密閉ではない。

幕府はキリスト教の布教を最重要警戒として、宣教色の強い国(スペイン・ポルトガル)を排し、布教を行わないことを約束した実利優先のオランダだけにヨーロッパ勢としての貿易を許した。

島原・天草一揆(1637–38、天草四郎)後、幕府の対外警戒はさらに強まり、1639年にポルトガル人を追放。以後、欧州勢で日本と公式に取引できたのはオランダのみとなった。

ガイドさん曰く、

「布教お断り、商い一本でどうぞ。だから“オランダだけ”なんです」。

カトリックとプロテスタントの違いが、まさかここに影響していようとは思わなかった。
(↓私にとってのキリスト教の話)


平戸から出島へ

オランダは当初、平戸に商館を置いていたが、禁教の徹底の中で摩擦が起きる。色々あって管理しやすいように1641年に商館は長崎・出島へ移された。以後、出島がオランダ商館の舞台になる。


秘密の花園

出島は“家”でもある。

倉庫や住居に加えて、敷地内には菜園があり、鶏・牛・豚など家畜の囲いも置かれていた。ときには象を飼ったという記録まである。

厨房や家畜小屋の作業の様子は当時の記録・図像にも見え、牛の屠畜法など具体の描写が残る。

なんか…このままコメディにしたい。

ブドウがなっていた


見張られる暮らし

島外への外出は許可と監督付き。
日本側と接触できるのは役人・通詞・商人・丸山の遊女などに限られ、日常は常に“見られている”緊張感があったそうな。
島への女性の滞在にも厳格な上限が設けられ、管理の網は細かったそうだ。



オランダ東インド会社という“巨大な組織”

ここに出入りするオランダ商人の背後には、オランダ東インド会社(VOC, 1602–1799)という世界規模の“会社”がいた。

VOCは国家からアジア貿易の独占・軍事力行使・条約締結・貨幣鋳造といった準国家的権限を与えられ、本国のアムステルダム/海外本部のバタヴィア(現ジャカルタ)を軸に広域運営した。

江戸の二世紀とVOCの寿命はほぼ重なり、日本にとって唯一のヨーロッパ窓口として出島へ船を送り込み続けた。

ここから世界に繋がってた


アジア経営の“心臓部”

バタヴィア(Batavia)は、現在のインドネシア・ジャカルタに相当する港湾都市で、17世紀以降オランダ東インド会社がアジア経営の中枢を置いた拠点だそうである。

1619年、ジャヤカルタに築いたのが始まりで、1621年に「バタヴィア」と命名された。のちに東インド会社解散(1800)後はオランダ領東インドの首都として機能し続けた。

バタヴィアは純然たる入植都市ではなく、商業と行政の拠点として多民族が交錯した。オランダ人職員のほか、中国系商人、奴隷、混血(メスティーソ)などが居住し、ポルトガル語・マレー語を交えた生活文化が広がった。

一方で城壁内外の居住区分けや通行規制など、統治のための明確な線引きも敷かれていた。

これがバタヴィア



祖父の口癖

現在バタヴィアは、ジャカルタと名前を改めてインドネシアの首都となっている。
私がみているVTuberさんもインドネシア人の方が数人おり、ジャカルタは頻繁に耳にするので、一方的に親しみを感じていた。

また、インドネシアは現在、アジアの大国に上り詰めようとしている最中であり、威勢のいい国なのだという。

祖母と私と祖父


そして、ジャカルタで思い出すのは、亡くなった祖父のことだ。
祖父は戦争でジャワ・スマトラに衛生兵として赴任したと聞いていた。

戦争後、帰国し私の母も生まれ現在につながっているのだが、ごく稀に戦争の話をしてくれた。


特に耳にしたフレーズに、

「菓子はクエ。魚はイカン。飯はナシ。」

祖父のセリフ


子供の頃の話だ、なんのこっちゃわからなかった。
しかしある日、私はアジアン料理屋で稲妻に打たれたような衝撃を受ける。


ナシゴレン。

ナシ…。飯…。飯はナシ…。

どああああああああ!


ナシゴレン」ご存知の方も多いだろう。
アジア料理屋で出てくる目玉焼きの乗った焼飯である。
別にその時初めて食ったわけではない。何度も食べたことあったし、なんなら数年前から知っていた。
それにマレーシアに行った時は得意げに頼んだりもしていた。


でも、本当に唐突に点と点が繋がった。


これは別の記事にする予定なのだが、思わぬところでバタヴィア(ジャカルタ)が出てきて驚いた。

これはきっと「ジャカルタにいつか行け!」という思し召しなのかもしれない。



第4章 出島での暮らし

医者シーボルトの奮闘

出島の暮らしは原則として“島の中で完結”だが、治療や講義のために医者には特例の外出許可が出たという。

その最たる人物がフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトだ。彼はドイツ人なのに、ここでは“オランダ人”として振る舞う(オランダ東インド会社の籍に連なっていたからだ)。

ルールの網をくぐるには、国籍よりも“どこの組織に属しているか”が重要だったわけである。

「シーボルトは日本中から集まる若い医者に、医学を無料で教えたそうです。ここ長崎で“学びの場”を開いて、診療もやっていたんですよ」

どうりでシーボルトって有名だと思ったら、お医者さんの師匠だったのか。これ確かに大切な人だったようだ。


帆船が来る日

「帆船は年に一回。だいたい七月に来て、十月に帰ります」

入港は沖合い停泊が原則。大きな船は湾に錨を下ろし、小舟で荷を揚げ降ろしする。

もっと盛んに交易していると思ったら、帆船のため季節風に逆らっては動けないらしい。そのため、日本に来ているオランダ人は「凄まじく暇を持て余していた」ようだ。



阿蘭陀冬至オランダとうじ”の食卓

出島で暮らしたオランダ人たちにとって、年に一度の特別なごちそうが並ぶ日があった。
そう“クリスマス”だ。

カピタンの部屋では、その“冬至祝い”の席が再現されている。

テーブルにはクローブを刺した肉料理、牛肉や豚肉のごちそう、魚料理、そして香辛料がふんだんに使われた贅沢な料理が並んでいた。

本来なら「メリークリスマス!」と言いたいところを、キリスト教が禁教だったので「阿蘭陀冬至」と呼んで誤魔化していたらしい。
実に機転が効く。

そして、この“阿蘭陀冬至”の宴でふるまわれた砂糖を使った料理やお菓子は、やがて長崎の地に根づき、砂糖を使った和菓子文化へとつながっていく。

私が高校生の時にお土産に買ったカステーラは、そんな流れの先にあったのだ。



“長崎の遠か”

出島の暮らしを語るうえで欠かせないのが、先ほど出てきた砂糖の話だ。
当時、江戸時代の日本では砂糖はとても貴重な輸入品だった。

日常的な料理に砂糖を使うことはほとんどなく、代わりにみりんで甘さをつけていた時代だ。

そしてここで、私がふと思い出したのが、私がよく聴いている「ゆる言語学ラジオ」の話だ。

※「ゆる言語学ラジオ」について簡単に説明すると、言語学を楽しくゆるく解説するYouTubeラジオ番組で、雑談形式で言語にまつわる面白いトピックを取り上げているチャンネルである。

そのラジオで聞いた話だが、長崎には「長崎の遠か(長崎が遠い)」という方言があるらしい。

一見すると「長崎にいるのに長崎が遠い」とは奇妙な感じがするが、これは実は「甘さが薄い」という意味なのだという。

つまり、砂糖が貴重だった時代。
砂糖を「長崎」と呼び換え、「長崎が遠い」といえば「甘さが足りないね」というニュアンスになるわけだ。

出島を通じて砂糖が運ばれ、長崎で砂糖文化が花開いたからこそ、こうした言葉が生まれたのだろう。

ちょうど聞き直したばかりのエピソードが、実際の体験と重なったので、すこぶるテンションが上がった。



海を眺める窓

私は基本的に空想に浸っている人間だ。
博物館や遺跡では、過去に思いを馳せるあまり、まるで自分が見てきたかのように記事を書いてしまう。
説明や解説を読むと、脳内で情景が勝手に立ち上がってくるからだ。

とりわけ出島で“見えた”のは、一枚の窓の向こうの風景である。商館長(カピタン)の部屋の奥、二階の窓。ここからは、かつて海が見えたのだという。

いまでは大きな道路と路面電車が行き交う賑やかな街角だが、ここはかつて海だった。埋め立てが重ねられ、島は街に飲み込まれたのだ。

「それだけ長崎の人びとは、街を広げてきたのだな」

幾たびもの困難や試練があったことを私は知っている。だからこそ、この街をつくってきた人びとに、心底、敬意を抱いた。



卓上の戦い

「船がいない季節は、とにかく暇でしてね」
もし当時の商館員が語るなら、そうこぼしたに違いない。

出島ではビリヤード(玉突き)やボードゲーム、サイコロ遊び、音楽などが“日常の気晴らし”としてたびたび記録や絵図に残っている。
川原慶賀の図様にも、玉突き台に集うオランダ人の姿が描かれたものがある。

(ウィキペディアに画像があるよ)


また、東南アジアから連れて来られた召使、料理人や医師らが居住した。
航海のない時期、彼らは“バドミントン的な羽根突き”で暇を潰したという記述も残る。

それは、私が抱いていた当時の召使像とは違う印象だった。

ラケットを持てば、言葉が少なくても一緒に笑える。遊びは上下を越えるのかもしれない。

昔はよく家族とカードゲームや双六をして遊んだものだ。それは度々白熱し、私は妹と取っ組み合いの喧嘩をするほどだった。

私は以前、「負味」というチームで、いくつかボードゲームを作った事があった。

デザインとイラストを担当したのだが、ボードゲームそのものの魅力を再確認したのは、そんなきっかけだった。

この出島の資料室には「バックギャモン」が飾られていた。そして「阿蘭陀遊び(ハンセンボード)」なるものもあった。

ハンセンボードは一目瞭然で『双六』である。

ハンセンボード

バックギャモンは現在の形そのままで、昨日Amazonから届いたようなみたいな感じすらした。

バックギャモン


バックギャモンだって双六だって、今日近くのヨドバシカメラへ足を運べば、おそらく売っているだろう。


「名作ボードゲームって時を超えるんだ…。」


別に私が作った作品でもないのに、なんだか胸が熱くなった。
私は主にデジタル作品を手掛けることが多い。
これはこれで素敵だとは思うのだが、デバイスやフォーマットの関係で見られなくなる事も多い。
名作のアニメもVHSでしか存在してないものも多く、観る事すら難しい。

しかし、これらのボードゲームは電気も無く作動し、江戸時代の東インド会社職員も、令和を生きる僕らも等しく楽しませてくれるのだ。



第5章 遥かなるバタヴィア

橋の向こう

思えば、私の修学旅行の記憶も出島と同じだったのかもしれない。

「さだまさし」と「カステラ」だけが島のようにぽつんと残っていて、そのまわりは埋め立てられたみたいに曖昧だった。

今日、ガイドさんの話を伺い、知識の小島に橋を掛け直している、そんな感覚があった。


『平和ボケ』という言葉は、やっぱり好きになれない。

余裕があるから、私たちは「面白がる」ことができる。面白がれるから、新しい遊びや表現が生まれる。

そして、その遊びがまた見知らぬ誰かをつなげて、次の橋になる。

出島のゲーム卓に置かれたサイコロは、単なる暇つぶしの道具かもしれない。しかし私には、何か希望のようにも感じた。
それは「遊び」が育む文化の可能性なのかもしれない。


足取り

私はガイドさんへ礼を言って出島を後にする。
江戸時代とは違い、見張りはいない。

考えてみれば現代は、実に恵まれている。

鎖国じゃないから海外にもいける(もちろんジャカルタにも)。
健康を度外視すれば、好きなだけ砂糖を摂取できる。
そして、ボードゲームで遊ぶ自由もある。

これは全て先人たちの功績と、平和ボケと言われるほどの穏やかな時代の賜物だ。

私が感じたのは、歴史の重みというよりは、今を生きる感謝だった。

橋を渡りながら横を見ると、川面の光が美しく煌めいている。
これから「祈りの三角ゾーン」を巡って、大浦天主堂へ向かう予定だ。
修学旅行のやり直しは上々に捗っている。

風が通り抜ける。胸のどこかに、カステーラの端っこみたいな甘さが立ち上がる。

「次はどんな長崎に出会えるだろう。」

そう思いながら、私は足取りも軽く、橋を渡った。


↓つづく


記事:まるのすけ

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