《葬送のフリーレン》「人」の方へ共に(第7巻64話「剣の魔族」)
原作のネタバレがあります。
はじめに
第7巻64話(EP30B)「剣の魔族」では「何が人を人にしているのか?」という問いが立てられています。

これはおそらく作品を通してずっと考えることになる問いです。フリーレンの「人間を知る旅」は、この問いの答えを見つける旅だとさえ言えるでしょう。
答えはどこかの本に書いてあると思いますが、『フリーレン』を読みながら考えます。(『フリーレン』と国語辞典だけで読める文章を書きたいと思っています)
フリーレンの「人/化け物論」
フリーレンは「人はこうでなければならない」という何かしらの考えを持っていて、それに当てはまらない者は「化け物」だと考えています。そして魔族は化け物だと言います。
そのフリーレンの考え方はソリテールの言葉から推測できます。(第11巻100話)

ソリテールはこう言っています。魔族も人である。だから人として扱うべきである。人を人として扱わない者はもはや人ではなく化け物である。
ということはおそらく、人を人として扱う存在が人であって、人を物として扱う存在は化け物なのです。(フリーレンの「人/化け物論」)
この考え方に私は直感的には納得できます。
ソリテールの「どっちもどっち論」
しかし、これでは「では、そもそも人として扱うべき存在と物として扱っても構わない存在をどう区別するのか?」という問いには答えられません。
フリーレンの「人/化け物論」は、人を定義するために人の概念を利用しているため、参照の循環を解決できないからです。(循環参照、循環定義)
結局どこかに前提として、エルフ、ドワーフ、人間は人(人類)で魔族は化け物であるという決めつけがあるわけです。
だから、ソリテールから、なぜ人と同じ姿をして同じ言葉を使う存在を人として扱わないのか?それでは君のやっていることは化け物と同じではないか?それが君の考える「人」なのか?と問われると説明がつかなくなります。(第11巻100話)
ソリテールは「もうどちらが化け物なんだかわからないわね」と言いますが、実際そうなのです。魔族から見ればフリーレンは「葬送のフリーレン」ですし、人類は人類を沢山、もしかすると魔族以上に、殺しています。しかも大した理由もなく非人道的に。『フリーレン』の序盤では人類=善、魔族=悪のイメージがありました。が、帝国編までくると全くそんな感じはありません。仮に第15巻147話のこの描写を『フリーレン』の序盤で見たら、魔族に滅ぼされた町だとしか思えませんが、これは人類が人類に対して行ったことなわけです。

フリーレンの「人/化け物論」に対してソリテールは「どっちもどっち論」をぶつけることで、「お前は化け物だ」「君の方こそ化け物だ」という論争に引きずり込みます。
そして、フリーレンは「人類は人食いの化け物である魔族と戦わなければならない。しかし、戦うためには自らも化け物にならざるを得ない」という対立構造(からくり)に囚われてしまいます。
すると、フリーレンの心は二つに裂けてしまいます。「お前達魔族は化け物だ」(第3巻18話)と感じている心と、魔族を殺すことに躊躇いや痛みを感じている心にです。一方の心は何かに気付いてフリーレンに訴えています。
心の矛盾をそのままにしておくことができないために、フリーレンは心を殺してから魔族との戦いに臨みます。(第3巻18話、第11巻100話)


(余談)人の子は人
ちなみに、私達の社会では「人から生まれた存在は人である」ということになっていて、これは単純な循環参照・循環定義です。子が人であることの証明は親が人であることを根拠にしています。
理屈を言えば、では親の親は?さらにその親は?と遡ることになってキリがないのですが、今のところそれで不都合はありません。
いや、不都合がないどころかありがたいことです。誰からも自分が人であることの証明を求められないのですから。
フィクションの世界ではここを疑うことで面白いお話を作りますね。人間とそっくりなアンドロイドが存在したらどうなる?といったお話です。
ヒンメルの「勇者論」
フリーレンとソリテールの「お前は化け物だ」「君の方こそ化け物だ」という論争から、私はヒンメルにとっての「勇者」を思い起こします。
ヒンメルは「本物の勇者か?偽物の勇者か?」といった議論には決して踏み込みませんでした。

勇者の剣を抜くことのできない偽物の勇者であるという事実を突きつけられたヒンメルは、そんなことは「関係ない」、「いいじゃないか偽物の勇者で」と返しました。むしろ偽物だからこそ本物を目指すのだというのです。(第3巻25話)
そこが先程のフリーレン・ソリテールとのちがいです。そしてここが「鍵」だと思いました。

ヒンメルは「自分は偽物の勇者だ」と理解していました。その上で、「では本物の勇者ならどうするか?」を考えて行動していました。だからヒンメルは勇者だったのです。
ヒンメルは「勇者になろうとしている勇者」であり、ヒンメルにとって勇者とは矛盾した存在でした。
「勇者」というものを静的(スタティック)な「状態」として捉えれば矛盾を起こしてしまう。だから、動的(ダイナミック)な「姿勢」として捉える必要がある。これがヒンメルの勇者論でしょう。
ヒンメルにとって「勇者」とは目的地であって現在地ではありませんでした。そして、重要なのは現在地ではなく、目的地そのものでもなく、「目的地に向かって進むこと」でした。
「人」についても「勇者」と同じことが言えると思います。
「人」になろうとする「人」未満の存在
つまり、私達が通常「人」だと考えている存在は、正確には「人になろうとしている、まだ人にはなっていない存在」のことです。ただ、そういった存在を結果を先取りして便宜的に「人」と呼んでいます。
ですから、私が思うに「人」の定義を精緻化したところで実益はありません。「人か?化け物か?」の論争にも意味はないでしょう。
なぜなら、「人」は現在地ではなく、遠くにある目指すべき目的地だからです。
大切なのは、これからどこへ向かうのか、その大まかな方向、「人」の方向に向かって進む姿勢です。
ヒンメルも勇者かどうかにはこだわりません。ヒンメルにとって「勇者」は行動のための「目標」や「理由」なのであって、「本物の勇者」を目指して行動すること、「自分は勇者なのだから」という理由で行動することの方が重要だったのだと思います。(第3巻25話、第12巻110話)


「人」の方へ共に
ですから、「人類は人食いの化け物である魔族と戦わなければならない。しかし、戦うためには自らも化け物にならざるを得ない」という対立構造(からくり)から脱出する(止揚する)方法の一つは「人類も魔族も「人」に向かって共に歩もう」という「呼びかけ」です。
私達は化け物なのかもしれない。そうであればいずれかが滅びるまで化け物として相争うことになる。しかし、「人」を目指すという一点を共有できるなら、時に争うことはあろうとも、私達は共に歩むことができる。私は「人」を目指す。では、お前はどうか?
そういう呼びかけです。
殺されているフリーレンの心は人類と魔族が目指す地点を共有して新たな地平が開かれる可能性を直感しているのではないでしょうか。
魔族との融和エンド
これが物語としてどのような形になるのかは私には想像できないのですけれども、『フリーレン』の結末として「人類と魔族の融和エンド」というものがあるとすれば、最終的な「メッセージ」はこういった内容ではないかと想像しています。
もう一つありそうだと思うのは「魔族(とエルフやドワーフ)の消滅エンド」言い換えれば「人間の時代エンド」ですが、それは別の機会に。
共存のための戦争
もしかすると魔王は、人類と魔族がこのことを理解するためには、双方が滅びの淵に至るまで徹底的に殺し合う必要があると考えて「共存のための戦争」を始めたのかもしれないですね。
私は「共存のための戦争」とは人類への隷属から解放されるための「独立戦争」ではないかとも考えています。
このあたりは魔族の起源とも関わってくるので、まだ何とも言えないところです。
おわりに
ちなみに、別作品の話になりますが、『ジークアクス』の「本物のニュータイプとは?」でも似た議論があります。「強いニュータイプ」を目指してたたかい続けるのが「本物のニュータイプ」で、たたかいをやめてしまったら「本物のニュータイプ」ではないというのです(私見)。
「勇者を目指す存在が勇者」、「人を目指す存在が人」ですから、お話として「良くあるパターン」ではあります。
最後にもう一つ。
「人とは?」の問いから思い出すのはマハトのことです。人にあって魔族にない感情をマハトは探していました。そのためなら「死んでもいいとさえ考えていた」のです。(第9巻87話、第11巻103話)
ですから、マハトとフリーレンと私達はこの問いを共有していると思います。
マハトが探していた感情はなんだったのでしょう?本当に「悪意」や「罪悪感」なのでしょうか?マハトが名前を知らないままに探し求めていた感情、それは「愛」なのではないか?と私は考えてみました。
《葬送のフリーレン》に関することでしたら、感想・質問・疑問などコメントを頂けると嬉しいです。おもしろかった記事には「スキ」していただけると励みになります。
最近の記事でお勧めなのはこちらです。ただし、これを読んだ後では『フリーレン』はまったく別の物語になると思いますので、取扱注意です。
《葬送のフリーレン》に関する記事は下記のマガジンにまとめています。
