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小説「チェスの神様」③兄に内緒で、同居中の義姉(あね)と口裏を合わせて「家出」する

夫である路教みちたかに、義父母宅での同居に不安があることを言えずにいた義姉あね。その姿を見た彰博あきひろは、横柄な兄に一泡吹かせようと、二人きりで「家出」をしようと提案する――。




第三話:いけこまとの「プチ家出」

「何も話してないですよね?」
「うん、大丈夫。こういうの、結構得意なのよ」
「なら、OK」

 土曜日の早朝。僕たちの計画はスタートした。両親には、二人で学校に行くと言ってある。同じ学校の先生と生徒だからつける嘘だ。

 結局いけこまは自分の想いを伝えることが出来なかったようだ。兄貴の帰宅後は、母さんが尽きっきりで世話やらおしゃべりやらをしていたと言うから無理もない。それでいて兄貴の方も「全部母さんにやってもらえばいい。こまっちゃんは休んでて」なんて言うから余計に言い出せなかったのだとか。

「みっちゃんにとってあたしって何なんだろう。いなくてもいい存在なのかなって、夕べはずいぶん落ち込んじゃったんだよねぇ。きょう彰博君と出かける予定があって良かったわ」
 いけこまは苦笑いした。

「それで、どこまで行こうか?」
 彼女がそういうのを待っていた。

「川越の街、歩いたことある?」

「実は、ないんだよね。城南高校に赴任してから川越のことを知って、それからは学校とアパートとの往復だったから」

「まじめだねぇ」

「そうかなぁ?」

「じゃあ、案内しますよ。この街を」

「本当? 一回、見てみたかったんだ」

「よかった、決まり。でも、辛くなったらいつでも言ってください」

「うん、ありがとうね。あ、もしかして、あの電車に乗れる?」

「もちろん」

「わーい、楽しみにしてたんだぁ!」
 いけこまは子供みたいに両手を挙げた。


***


 最寄りの西川越駅まで歩き、電車で一駅。この街の中心地に降り立つ。土曜日とはいえ、早朝の川越駅は人が多い。駅舎から、あらゆる方面へ人の流れがのびていく。

「本当は歩いたほうがいろいろ案内できるんですけど、今日はバスに乗りましょう。 観光名所まで一気に行けますよ」

「気を遣ってくれてありがとう。じゃあお言葉に甘えてそうさせてもらうわ」

 市街地はバス網が充実している。メインの観光名所は、巡回バスに乗れば一通り見て回れるようになっている。初めて観光する人にはもってこいだ。バスはほどなくしてやってきた。



「へぇ、このバス、可愛い」

「この、クラシカルなボンネットバスが川越らしいでしょ」

 僕はいけこまと並んで腰かけた。動き出すと、車内アナウンスが川越の名所について丁寧に説明を始めた。しかし、いけこまはそれを聞かないで僕に話しかける。

「彰博君が一番おすすめしたい場所ってどこなの?」

「そりゃあ喜多院きたいんですよ」

「へぇ」

「もちろん、そこに案内するつもり」

「楽しみだわ」

「じゃあ、着くまでに少しうんちく話」
 僕はこれでも歴史は得意だ。

「川越が江戸時代にどんな位置づけにあったかっていうと、徳川家康が川越を重要な拠点とみなしていて、家臣の酒井重忠を置いたんです。三代将軍の家光誕生の間っていうのも、実は喜多院にあるんですよ。川越が大火に見舞われた時、喜多院のほとんどの建物が消失してしまったんですが、それを知った家光が江戸城の別殿を移築させたほど」

「そうなんだ! すごいんだね、川越って。家光なんて、歴史の授業で習ったことくらいしか知らなかったよ」

「でしょう? それだけじゃないですよ。その、家光誕生の間は見ることができるんです」

「え?! 重要文化財なんじゃ……?」

「拝観料を払えば、だれでも見られます。ほかにも、春日局の化粧の間や五百羅漢ごひゃくらかんっていう、お地蔵様みたいな石像も面白いから見てみるといいですよ。いろんな表情があって結構楽しめます」

「京都にある、三十三間堂の観音様みたいな?」

「そうそう、そんなイメージ」

「へぇ。行ってみたいなぁ」

「行きましょ、行きましょ」
 知識を披露できて大満足の僕は、その高揚した気分のままいけこまを喜多院の各名所に案内した。



 久しぶりに足を運んだ境内の荘厳な空気に身が引き締まったり、五百羅漢像のユーモラスな表情に思わず笑ったり。

 なんだかんだで、いけこまが身重だってことをつかの間忘れるくらいには楽しい時間を過ごした。いけこま自身もそうだったみたいだ。



「ねぇ、ほかにも回ろうよ。すっごく楽しくなってきた」

「ほんと? それじゃあね……」
 いけこまがワクワクしている様子だったから、僕もうれしくなって「次は時の鐘だな」なんて考えていた。

 そんな時、いけこまのスマホが鳴った。彼女は、はっとした表情で慌てて電話に出る。僕はすぐ、電話の主が誰だかわかった。観光案内の続きは後日になりそうだ。

「もしもし、みっちゃん……。ごめん、いま喜多院にいる……。ううん、彰博君と一緒」

 ――彰博と一緒?!

 スピーカーから荒々しい声が聞こえた。兄貴が眉をつり上げている様が目に浮かぶ。しかし、いけこまは動じなかった。

「すぐには帰らない。あたし、もう少しこの街のことを知りたいの。彰博君、とっても詳しいのよ、川越のこと。知ってた? 話も上手だし、一緒にいてすごく楽しいの。そう、今のみっちゃんといるよりずっと。だから、もう少しだけ二人でいさせて」

 ――何言ってんだよ! 彰博と代わってくれ。直接話がしたい。 電話の向こうの兄貴が、今にも掴みかかって来るんじゃないかと思わせるほどの声量で訴えている。

「代わろうか?」

「ううん、いい。あたしが何とかする」
 たまりかねてそう言ったが、いけこまは拒んだ。

 そして、
「みっちゃん、あたし、ここで待ってる。喜多院で待ってるから」
 兄の返事も待たずに電話を切ってしまった。

「いけこま、やるね」

「……こんなふうに言ったの、初めて。なんだか怖い」
 いけこまの手は震えていた。

「大丈夫。口は悪いけど、いいやつだから。いけこまだって、そう思ったから結婚したんでしょ?」

「そうだね。うん、きっとわかり合えるよね。……みっちゃんが来るまで、一緒にいてくれる?」

「もちろん。あっ、そこの和菓子屋さんで和菓子買って食べませんか? 兄貴が来るまで三十分くらい待つだろうから」

「……そうね」
 和菓子を買った僕らは、境内にあるベンチに座った。

「いただきます」

 小さな和菓子を一つだけ静かに頬張るいけこまは今、何を思っているんだろう。そして、ここにいる僕にいったい何が出来るだろう? 僕には、いけこまにかける言葉すら見つけられない。一緒にいることしか出来ない僕は、あまりにも無力だった。


***


 永遠にも思えるほど、長い沈黙の時が流れた。

「あっ、兄貴」
 遠くに、僕の自転車に乗った兄の姿が見えた。必死の形相だ。

「僕、外したほうがいいかな」
 二人だけのほうが話しやすいかもしれないと思って立ち上がる。

「いかないで。一緒にいてくれないかな」
 だが、いけこまに服の端をつかまれたので、座りなおした。

 本音を言えば、逃げたかった。が、どうやら僕も覚悟を決めなければいけないようだ。

「駒っちゃん! 駒っちゃん!」

 自転車を放り投げ、兄貴はいけこまの前で平謝りした。僕が隣にいることに気づかない様子で、いけこまだけを見ている。


「ごめん。いろいろ、ごめんなさい!」

「いろいろって?」

「いや、だからその、かまってあげられなくて」

「他には?」

「おればっかり仕事の愚痴言ってることとか」

「他には?」

「休日、早起きできないこととか」

「他には?」

「え、まだある?」

 兄貴は少し考えて、
「ごめん。おれ鈍いから、気付いてないことがきっと一杯あると思う。だから、ちゃんと教えて。言ってくれたら、今度から直すようにするから」
 と言った。

「……じゃあ、言います」
 いけこまはまっすぐに兄貴を見る。

「あたし、みっちゃんと過ごす時間を大切にしたいの。だって結婚したんですもの。一緒にいるときは、いつも同じものを見ていたい。それが、あたしの本音」

「うん……」

「……お義母さんがみっちゃんのこと、大事に思ってるのは分かる。だから何でもやってあげたいって気持ちも理解できる。でも、でもね……。あたしだってそれは同じなのよ。みっちゃんの力になりたいって気持ちは。だから……妊娠していることを理由にあたしの存在を無視しないで欲しい。……なんてね。今のはあたしのわがまま。ごめん、やっぱり、今のは忘れて」

 いけこまの消え入りそうな声を、兄貴は黙って聞いていた。そして小さく息を吐く。

「駒っちゃんがそんなふうに思ってたなんて知らなかった……。おれ、無視してるどころか、むしろ大事にしてるつもりだったんだよ。……母さんに食事の支度や身の回りの世話をやって欲しいって頼んだのはおれなんだ。そのことで駒っちゃんを傷つけてしまったのなら謝るよ。本当に、ごめんなさい」

 兄貴は深々と頭を下げた。そして肩を落とし、ため息をついた。

「……おれ、駒っちゃんからの信頼度ゼロになっちゃったかな。たった一週間同居しただけの弟といる方が楽しいって言われちゃうくらいだもんな」

「彰博君、とっても気遣ってくれるのよ」
 いけこまが答える。

「先日もね、彰博君がチェス一緒にやろうって誘ってくれたの。晩御飯のしたくはお義母さんがしてくれちゃって……。あたし、出番がなくて落ち込んでたのよね」

「彰博とチェスを? 駒っちゃん、チェスできるの?」

「ううん。ルールを知ってるくらいで全然。だけど、彰博君が手加減してくれたから、何とか形にはなったかな」

「なるほど。そうやって駒っちゃんの気を引いたってわけか……」
 面白くないと思ってるのが伝わってくる返事だった。

「僕はいけこまに好かれたくてチェスに誘ったんじゃない。いけこまがどんな気持ちでこの家に来たかを知ろうともしない兄貴と一緒にしないで欲しいね」

 心の声が表に出ていた。マズイと思ったがもう遅い。僕はもちろん、兄貴も口をあんぐりと開けている。

「お前も言うようになったな。いつまでもちび助だと思ってたのに」

「僕だってもうすぐ十八になる。人並みに意見くらい言える」



 兄貴がこぶしを握ったのが分かった。殴られるかもしれない。一瞬、体がこわばった。だが、こぶしは飛んでこなかった。

「気に入らないんだよ。何にも考えてないくせに。おれは毎日働いて稼いでる。チェスばっかしてるお前が、遊び惚けてるやつが、わかったような口利くなよ!」

 遊び惚けている……。ぐうの音も出なかった。

 でも……。
 でも……。

 いけこまとの家出を決行した時から僕の闘いは始まっている。ここで逃げたらいつもと同じ。いけこまだって勇気を出したんだ、僕も今更引けない。

「あぁ、確かにチェスばっかりしてるさ。この先の人生なんてろくに考えてないのも事実だ。でも僕は、いけこまの気持ちに気づくことが出来た。笑顔にすることが出来た。自分の価値観を押しつけることしか出来ない兄貴より、よっぽど役に立てたと思ってる」

「おれだって役に立ってる……! おれが実家に戻ったことで、母さんは喜んでくれてるんだ……!」

「へぇ。じゃあいけこまが悩んでても、母さんさえ喜んでくれればいいってわけ。それでもいけこまの夫だって言える? 子どもだって無計画に作っといてさ、無責任だと思わないの?」

「こいつ……!」

「ちょっと、みっちゃんやめて!」
 今度こそ手が出かかって、いけこまが慌てて止めに入る。

「反論したくなるってことは、暗にそれを認めてるってことよ」

「けどこいつ、子供のこと無計画だって……」

「仕方がないよ。本当のことだもの」

「……じゃあ、おれはどうすればいいんだよ?」

 兄貴はいけこまの両腕をつかみ、真正面から見据えて答えを求めている。 いけこまは年上らしく、落ち着いた声で言う。

「見栄なんか張らなくたっていいのよ。少なくともあたしの前では、男らしくとか、父親にならなきゃとか、そんなに気負わなくっていい。ずっとそんなんじゃ、疲れちゃうもん。あたしたち、よく見せあうために結婚したんじゃないでしょ? 心から安心したいから一緒に暮らすんでしょう?」

「駒っちゃん……」

「あたしだって、結婚したからには野上家の一員として認められたいと思ってる。だけど、婚姻届を出したからって、あたしと野上家の距離が一気に縮まったりはしない。あたしにもあたしのペースがあることを、みっちゃんには知ってもらいたいの。だから同居のことはもう一度、あたしたちだけじゃなくて野上家全員できちんと話し合って決めた方がいいとあたしは思う。……どうかな?」

 兄貴は何度もうなずきながら聞いていた。

「……ごめん。本音を言えば、おれは親に認めて欲しかっただけなんだ。子どもが出来ちゃったこと、心のどこかではやっぱり恥じてて、同居して親の面倒を見るってことにしちゃえば許してもらえるんじゃないかって、安直な考えでいたんだ。駒っちゃんの考えも聞かずに突っ走っちゃって本当に悪かったと思う。これからはちゃんと、駒っちゃんの意見も聞くようにする。だから……嫌いにならないで。おれには駒っちゃんが必要なんだ……」

 うつむく兄貴をいけこまはそっと抱きしめた。

「みっちゃんがあたしのことをずっと守ろうとしてくれてるの、知ってるよ。でもね、もっと甘えてほしいな。みっちゃんはとっても頑張り屋さんだから、ときどき心配になるんだ」

「ううっ……」 兄貴がいけこまの肩に目を押し当てたのが分かった。

「おれ、もう充分甘えちゃってるよ。甘えていいのは駒っちゃんの方。これからは何でもすぐに言って。 おれだって、駒っちゃんの力になりたいんだ」

「うん。そうするね」

 二人は穏やかな表情で見つめ合い、うなずきあった。


第四話はこちら


「チェスの神様」について

本作品は、2020年からnoteで連載していた、いろうたの長編小説です。このたび、紹介動画の作成を機に、章立てを再編成し、再掲するものです。

【物語・概要】
チェスを通じて友愛を育む高校生の男女が、家族の複雑な問題や自身の身体的な悩み、また恋敵との葛藤を乗り越えながら「今ここ」を懸命に生きていく愛と成長の物語です。いろうたの出身地、埼玉県川越市が舞台。

全12話(連載期間・約1ヶ月)でお届け予定です。

いろうた作品には、本作主人公の彰博あきひろ映璃えり悠斗ゆうと路教みちたかが度々登場します。彼らの原点がここにあります。ぜひ、本作を読んで彼らの魅力を再発見してください!


【三分でわかる】「チェスの神様」紹介動画はこちら

動画制作:いろうた/ピアノ演奏:京泉


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