私がXを居場所じゃないと思う理由と、Xアカウントが先鋭化しやすい構造:結局UI・UXに人格は操作される【ひとりごと】
少し前、noteユーザーの知人が集まるDiscordにて、「“狙って、いい感じに”炎上させるにはどんな記事を書けばいいか」という話になった。
「もっと雑に暴れるしかないんじゃないか」
「いや、X(旧Twitter)みたいな断言調の短文を持ち込んでる人ってnoteでも炎上してない?」
そんな他愛もない雑談をしていて、ふと思った。
……あれ、もしかして暴れているのって、人間・人格じゃなくてUI・UXのほうなんじゃないか?
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■ Xは仕組み的に「主語デカ結論の殴り合い」が起きやすい
私だってXは情報収集のため普通に見るし、ニュースも流れてくるし、面白い、または優れた人もたくさんいると思っている。
だからこの記事は「X批判」をしたいのではない。ただ、あのプラットフォームには、どう考えても人をある方向へ誘導する力がある。
Xで伸びやすい文章を雑にまとめると、
●強い
●短い
●敵が明確
●感情が尖っている
●即時反応できる
という特徴を持っている。
「○○は終わっている」
「△△は理解できない」
「□□は全員頭おかしい」
そういった断言は、短い文字数の中でも意味が通じる(ように見える)し、引用リポストで切り取られても強度が落ちない。
むしろ、切り取られたほうが強くなる。アルゴリズム的にもそっちを優先している節がある。
一方で、
「もちろん例外はあるのだが」
「構造的な問題として考えると」
「私自身も完全にそう思っているわけではないのは留意いただきたいが」
みたいな逡巡や留保は、どうしてもノイズになりやすい。つまりXは、善悪はともかくとして、「断言」が有利なインターフェースなのだ。
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■ noteは仕組み的に「思考のプロセス」を見せやすい
逆にnoteはどうか。
こちらは長文前提で、見出しがあり、記事単位でまとまっていて、コメント欄にたどり着く人も基本的には最後まで読んでいる。
だから多少過激なことを書いても、
「この人はこういう順番で考えたのか」
「論旨としてはそういう話なのね」
というフィルターが先に働きやすい。
Xは「結論の殴り合い」。
noteは「思考過程の開示」。
もちろんnoteにもラディカルな人はいる。
何事にも例外はあるのは大前提。
ただ、長文を書いていると、不思議と自分で自分にツッコミを入れる瞬間がある。
「あれ、このままだと主語が大きすぎるな」
「いや、例外もあるよな」
「こっちの立場から見ると違うか」
三千字、四千字と文字が積み重なる間に、単純化しすぎるとロジックが壊れることに自分で気付いてしまう。これはもはや「仕様」だ。
単純化したほうが勝ちやすいXとは真逆の仕様。
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■ 主語が大きいほど炎上は起きやすい
で、Discordにてこんな話にもなった。
「一部の男性には、加害性を助長する文化的傾向があるかもしれない」
という文章と、
「男はみんな性犯罪者」
という文章なら、どちらが炎上しやすいか。
答えは考えるまでもない。後者だ。
情報量を削って、感情量を増やしているからである。言い換えると、典型的な主語デカ構文。
私が生業にしている広告のコピーでもそうだが、人間は情報が少なければ少ないほど、物語の余白を自己補完してしまう。圧倒的な主観で。
ただ、ここで面白かったのは、Discordにいた知人の反応だった。
その人は後者(男はみんな性犯罪者)を見て、
「何かフラれて自暴自棄になってる人にしか見えないかも。その人に怒る理由が分かんない」
と言ったのである。
私は思わず唸ってしまった。ある種の納得感と共に。恐らく上記の感覚こそが「炎上を起こせない人」の思考回路なのだ。
文字面だけだとラベリングにも感じるかもしれないが、その実、発言を見ているようでいて、本質的には背後にいる「人間」に重心が向いている。
また「その発言に怒る理由が分からない」には「私は結論だけの殴り合いには乗らない」という意志も感じる。客観性の産物だ。まあ、「その知人が普段からnoteで丁寧に文章を書く人と知っていたからこそそう見えた」部分もあるが。
敵か味方かではなく、「この人、何かがあったんだろう」と先に物語を想像してしまう。背景を読んでいる。もしかすると、こういう読み方自体が「noteのUIに馴染んだ」人格なのかもしれない。
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■ 人格は「環境との接続面」なのかもしれない
ここまで考えて、少しだけ怖くなった。
「人格」が、固定された本質ではなく、「環境との接続面」で立ち上がるものだとしたら。
会社での自分。
地元での自分。
東京での自分。
恋愛している時の自分。
居酒屋で友人と話している時の自分。
そして、Xで短文を打ち込んでいる時の自分。
私たちは各々のUI・UXに応じて、少しずつ違う人格を運用している。
そう考えると、UI・UXというものは、単なる画面デザインではなく、「どの人格モードを召喚するか」を決める装置なのではないか。
国家や宗教や学校や会社が人格形成に影響を与える、というのは昔から言われてきた。
つまり、「人間関係や雰囲気のいい会社」というのは決して「たまたまいい人たちが集まったから」ではない。その会社のシステムというUIに、個々人が合わせに行っている。
そして現代においては、それがアプリのUIにまで降りてきている。通知。文字数制限。いいね。引用リポスト。アルゴリズム。
そういう細かな設計が、少しずつ私たちの思考や感情の癖をチューニングしているのだ。たぶん。
そして示唆的なのは、その「UI人格」を自身が「これが本当の自分だ」と思い込めてしまう、または周囲もその人格を「本質」と見ることだ。
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■ だからたぶん私はXが居場所じゃない
私はXが嫌いなわけではない。
あそこには速報性があるし、偶然面白いものに出会える力もある。実際、毎日見ている。あまり発信はしていないけど。
ただ、心地よく息を吸える居場所ではない。
私はひとつの発言を見ると、つい「この人は何を考えているんだろう」と、その背景を想像してしまう。断言するより、「いや、もちろん単純な話じゃないんだけど」と補足したくなる。
都会論の記事もそう。
AIを恐れる西洋の記事もそう。
結局いつも、「どちらにも理由があるよね」という地点へ戻ってきてしまう。
たぶん私は、勝ちたい人間ではなく、考えたい人間なのだ。なので、狙って炎上はできない。
だから三百字で断言するより、三千字かけて「いや、前提はあるよ?」と前置きをしてしまう。
もしかすると私が居場所だと感じているのは、「ゆっくり文脈を置いて考えられる場所」そのものなのかもしれない。だから(以前の記事でも書いたように)比較的「記号化」をされやすい地方より、多様な文脈が許容される東京のほうが水が合う側面もあるのか……? 分からんが。
でも、何かのきっかけでXでの論争にハマってしまったら。note人格とは異なる「主語デカな俺」が世界に拡散してしまうかもしれない。
あのプラットフォームで「noteにおける人格」を保ち続けられる!と断言できるほど、私は私の自制心と客観性に信用を持てない。
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