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117.叙任権闘争

画像は以下のサイトから転載。

ギヨーム一世の子供たち

ブルゴーニュ伯ギヨーム一世(一〇五七年~)は、数々の興味深い子供たちをもうけました。

ブルゴーニュ伯ギヨーム一世

レーモン・ド・ブルゴーニュ(一〇七〇年ごろ~)は、有名なアルフォンソ六世の娘ウラカと結婚し、アルフォンソ七世をもうけました。

このレーモンと周辺については以前、やや詳しくお伝えしました。

弟のギーは、のちのローマ教皇カリストゥス二世(一〇六五年~)です。

カリストゥス二世

このカリストゥス二世の選挙はクリュニー修道院で行われました。

クリュニー修道院と十字軍、ならびにテンプル騎士団との関係については、これまた以前お伝えしたとおりです。

カリストゥス二世の選挙の参加者は、次代教皇ホノリウス二世となるランベルト・スカナベッキ枢機卿(一〇六〇年~)など九人です。

一一二四年、カリストゥス二世が死んだあと、ランベルトは教皇に選出されました。

教皇選挙ではテオバルト(対立教皇ケレスティヌス二世)が選出されたのですが、貴族のフランジパニ家が異議を唱え、ランベルトに教皇の祭服を着せて選出を強行し、ホノリウス二世と称させました。

このホノリウス二世は、トロワ公会議でテンプル騎士団を承認した人です。

ホノリウス二世は、クリュニーや十字軍の一族とつながりのあるカリストゥス二世とともに、いわゆる叙任権闘争に深く関わりました。

オットー大帝(九一二年~)の妹ゲルベルガ・フォン・ザクセンは、ロートリンゲン公ギゼルベルトという男と結婚しました。

ゲルベルガの長女アルベラダはルシー伯ルノーと結婚し、娘の一人エルマントルド・ド・ルシーはブルゴーニュ伯オットー=ギヨーム(九五五年~)と結婚しました。

アルベラダの息子ルノー一世はアデライード・ド・ノルマンディーと結婚し、ブルゴーニュ伯ギヨーム一世をもうけました。

アデライード・ド・ノルマンディー

オットー大帝はザクセン人で、ザクセン人の祖リウドルフの嫁オーダ・ビルングはダビデの血統です。

レーモンとカリストゥスの父親、ブルゴーニュ伯ギヨーム一世は、繰り返しになりますがアデライード・ド・ノルマンディーの息子です。

アデライード・ド・ノルマンディーは、ノルマンディー公リシャール二世(九六三年~)とジュディット・ド・ブルターニュの娘で、ウイリアム征服王の叔母にあたります。

ノルマンディー公国の創始者、ヴァイキングのロロは、ギヨーム・ド・ジェローヌの曾孫ポッパ・ド・バイユーと結婚しました。これもダビデの血統です。

レーモンとカリストゥスの兄弟には、エティエンヌ一世(一〇六五年~)がいます。

エティエンヌ一世は、兄のブルゴーニュ伯ルノー二世(一〇六一年~)が第一回十字軍で死んだあと、ブルゴーニュ伯位を継承しました。

エティエンヌ一世は一一〇一年の十字軍(臆病者の十字軍)に、ブロワ伯エティエンヌ二世(一〇四五年~)の軍の司令官として参加しました。

エティエンヌ一世の娘のイザベルは、シャンパーニュ伯ユーグ(一〇七四年~)と結婚しました。

シャンパーニュ伯ユーグはテンプル騎士団の創設メンバーの一人で、高名なユダヤ人ラビ、ラシ・ド・トロワと交流がありました。

ラシ・ド・トロワについてもすでにお伝えしています。

十字軍とテンプル騎士団の創設については、聖俗双方の権力が一体となっている印象です。

ヴェルフ家

カリストゥス二世(当時ヴィエンヌ大司教ギー・ド・ブルゴーニュ)は、クリュニーで教皇に選出され、その後叙任権闘争に巻き込まれました。

叙任権闘争は、とくにローマ皇帝(俗界)とローマ教皇(聖界)が、司教や修道院長の任命権を巡って行った争いを指します。

この争いは当然、教皇と皇帝の対立を生み、北イタリアが教皇派と皇帝派とに分かれて争ったすえに神聖ローマ帝国から完全に離脱するまでつづきました。

教皇派と皇帝派というのは、もともとは神聖ローマ帝国での帝位争いにおいて、ヴェルフ派をヴェルフ、ホーエンシュタウフェン派をヴィーベリンと呼んでいたことに端を発します。

その後ヴェルフ家が教皇と手を結び、帝位についていたホーエンシュタウフェン朝と対抗しました。

この対立構造がイタリアに伝わり、教皇派と皇帝派という新たな構造が生み出されたわけです。

ヴェルフ家は、エステ家につづく古い分家で、知られている最古の成員は九世紀末から十世紀にかけてロンバルディアに居住していました。

エステ家はヴェルフ=エステ家とも呼ばれ、ギヨーム・ド・ジェローヌの子孫にあたります。

ギヨーム・ド・ジェローヌの母はカール・マルテルの娘で、ギヨームは有名なカール大帝の(七四二年ごろ~)従兄弟にあたります。

https://supercurioso.com/quien-fue-carlomagno/より転載。カール大帝。

ギヨーム・ド・ジェローヌのユダヤ名はイサク・カロニモスです。カール大帝のユダヤ名はダヴィド・カロニモス・ベン・アッバです。

ということで以前お伝えしたとおり、カロリング朝はユダ族のダビデ家の男系直系子孫でした。

古ヴェルフ家は、このカロリング朝と密接な関係にありました。

古ヴェルフ家は、ブルゴーニュ系とシュヴァーベン系の二グループから構成されていました。

ブルゴーニュ系にはブルグント王コンラート一世(九二五年~)がいます。ちなみにブルグントは、フランス語のブルゴーニュです。

このコンラートの妹アーデルハイト・フォン・ブルグントは、オットー大帝の妻になりました。

オットー大帝とアーデルハイトの像、マイセン大聖堂の壁面。

コンラート一世自身は、フランス王ルイ四世の娘マティルド・ド・フランスと再婚しました。

マティルド・ド・フランス

コンラートの娘、ギーゼラ・フォン・ブルグントは、神聖ローマ皇帝ハインリヒ二世(九七三年~)の母です。

ギーゼラ(右)と夫ハインリヒ2世(バイエルン公のほう)(ルーカス・クラナッハ画、1564年)

もう一人の娘ベルト・ド・ブルゴーニュは、第一回十字軍を率いたブロワ伯エティエンヌ二世と、テンプル騎士団の創設メンバーの一人、シャンパーニュ伯ユーグの祖母にあたります。

コンラート一世の息子ルドルフ三世(九七一年~)は、最後のブルグント王で、ブルグント系古ヴェルフ家の最後の男系子孫になりました。

ルドルフ三世は、子孫を残さずに一〇三二年に死にました。

そしてブルグント(ブルゴーニュ)王国の主権は、ルドルフ三世の甥のコンラート二世(九九〇年~)に封土または遺産として継承されました。

権力争い

コンラート二世の戴冠は歴史の節目と呼ぶべき出来事ですが、戴冠させた教皇ベネディクトゥス八世の弟の教皇ヨハネス十九世は、教皇セルギウス三世の愛人、娼婦マロツィアの子孫です。

https://alchetron.com/Maroziaより転載。マロツィア。

コンラート二世の息子、ハインリヒ三世(一〇一六年~)は、アグネス・フォン・ポワトゥーと結婚しました。

シュパイアーのアウレウス(黄金)写本のハインリヒ3世とアグネス(左右)

このアグネスは、アキテーヌ公ギヨーム五世(九六九年~)とアニェス・ド・ブルゴーニュの娘です。

アニェスはブルゴーニュ伯オットー=ギヨームとエルマントルド・ド・ルシーの娘で、オットー大帝の妹ゲルベルガ・フォン・ザクセンの孫娘です。

そしてアニェスの甥は、興味深い子供たちを持つブルゴーニュ伯ギヨーム一世です。

ハインリヒ三世の息子は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世(一〇五〇年~)です。ハインリヒ四世はアニェスの代父でもありました。

ちなみに代父母とは、洗礼式に立会って神に対する契約の証人となる役割を果たす人を指します。

ハインリヒ四世の代父を務めたのは、クリュニー修道院のユーグでした。このユーグはクリュニーのユーグです。

左のねずみ男がクリュニーのユーグ。

ハインリヒ四世はいわゆる「カノッサの屈辱」で有名な人で、教皇カリストゥス二世とともに、いわゆる叙任権闘争に巻き込まれることになります。

中世の時代、教皇の権力が拡大するにつれ、教皇と皇帝は教会の運営を巡って対立しはじめました。

十一世紀から十二世紀にかけての歴代教皇は、神聖ローマ皇帝やほかのヨーロッパ君主の権力を弱体化させていきました。

この対立が、ドイツで五十年近くの内戦を引き起こすことになります。

一〇五九年以前の教皇選出の多くは、ヨーロッパ諸国の政治的、軍事的影響を受けていました。

だいたいは国王やローマ皇帝が候補者を発表し、教会の選挙人の形式的な承認を受ける、という流れでした。

オットー朝時代の神聖ローマ皇帝たちは、教皇の任命権は自分たちが持つべきだと考えていました。

これは単に権利の話だけではなく、教会の財産の管理権の話でもあります。教会は金づるだったということです。

一〇四五年に教皇ベネディクトゥス九世が教皇職を売ったと非難されたことで、聖職売買(シモニア)の問題はとくに世間の反感を買うことになりました。

ハインリヒ三世は教会内部の醜い権力闘争を解決し、数人の教皇を任命しました。

ハインリヒ三世

このハインリヒ三世が、教皇選出の過程を支配した最初の皇帝です。

一〇五六年、息子のハインリヒ四世がドイツ王になりました。ですがハインリヒ四世は当時六歳でした。

一〇五九年、教皇ニコラウス二世(九九〇年ごろ~)は、教皇勅書「イン・ノミネ・ドミニ(主の名において)」を発布しました。

ニコラウス二世はこれによって、将来の教皇選挙人を枢機卿に限定することに成功し、標準化された教皇選挙を制定しました。

これはのちのコンクラーベに発展します。コンクラーベは歴史の授業でおなじみですが、「教皇選挙」を意味する言葉で、枢機卿たちが投票でローマ教皇を選出する手つづきのことです。

このコンクラーベは、さらに枢機卿団に発展していくことになります。

https://mainichi.jp/graphs/20250508/mpj/00m/030/008000f/20250508mpj00m030001000pより転載。コンクラーベを前にシスティーナ礼拝堂で祈りを捧げる枢機卿たち=バチカンで2025年5月7日、バチカンメディア・ロイター

教皇アレクサンデル二世とグレゴリウス七世は、皇帝の関与なしに教会の規則に従って選出されました。

クリュニー修道院改革ののち、皇帝の関与はますます不適切と見なされるようになりました。

改革志向の教皇グレゴリウス七世は、従来の慣行に反対することを決意し、これがハインリヒ四世との叙任権闘争につながりました。

ハインリヒ四世は教皇の干渉を拒否し、司教たちにグレゴリウス七世を破門するように説得しました。

これに対してグレゴリウス七世は、ハインリヒ四世を逆破門し、廃位を宣言し、教会との忠誠の誓いを無効としました。

結果ハインリヒ四世は政治的な支持をほとんど失い、一〇七七年に有名なカノッサの道を行くことを余儀なくされました。

カノッサの屈辱

そしてカノッサでの屈辱の代わりに破門を解いてもらえました。

聖界と俗界の争いは、つまるところ坊主と騎士の争いなのですが、どう考えても騎士のほうが強いだろう、と思いがちです。

ですが昔の連中も政治を行います。お局様ににらまれて会社で孤立する、というくだらない社内政治と同じことで、女なら脅せば済むとは昨今だれも考えないでしょう。

ハインリヒ四世の死後、次男ハインリヒ五世(一〇八一年~)と教皇カリストゥス二世は、一一二二年、ドイツのヴォルムス近郊で交渉を行いました。

結果、皇帝は教会に手を出さないという決定が成されました。有名なヴォルムス協約です。

これによって事実上、叙任権闘争は終わりました。

つまり世俗による叙任権は廃止されたわけですが、やはりそこは政治です。任命過程においては非公式ながら皇帝が影響力を行使する余地が残されていました。

ヴォルムス協約は、一一二三年の第一ラテラノ公会議で承認されました。

教皇庁と神聖ローマ帝国の権力闘争は、一〇七五年にはじまった叙任権闘争によって勃発し、一一二二年のヴォルムス協約でもって集結したわけですが、叙任権闘争の勃発はほぼ、カリストゥス二世の側近、ランベルト・スカナベッキ枢機卿の働きかけによるものでした。

ランベルトは一一二四年、教皇ホノリウス二世となりました。

そして一一二八年のトロワ公会議において、テンプル騎士団の創設を承認しました。

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謎の賢人 この記事はリサーチにかなりの時間を費やしています。有料にはしたくないので無料で公開していますが、チップをいただけましたら精神的にも励みになります。