98.ガリシアとポルトガル
画像は以下のサイトから転載。
トレド翻訳学派
一〇八五年、レオンとカスティーリャのアルフォンソ六世(一〇四〇年ごろ~)は、トレドを占領し、ムーア人(イスラム教徒)の都市を個人的に支配しました。

トレドはかつて、西ゴート族の首都でした。白人キリスト教徒(蛮人)にとってのトレドの奪還は、歴史的にも象徴的にも重要な事件でした。
ザ・レコンキスタです。
また、トレドはふつうに栄えていたので、もちろん俗な意味でも重要な地です。アルフォンソ六世はこの偉業によってトップスターの座に躍り出ました。
トレドはコルドバと並ぶ学術都市でした。学問といえば図書館ですが、アレクサンドリアのように焼き払われることなく、アラビア語やヘブライ語の書物はユダヤ人学者によってカスティーリャ語に翻訳されるようになりました。
そしてトレドにカスティーリャ語からラテン語に翻訳するための翻訳センターが設立されました。

トレド翻訳学派は、トレドにおいて古典アラビア語の哲学的、科学的な著作を翻訳するために集まった学者たちのグループを指します。十二世紀から十三世紀にかけてのムーブメントです。
トレドのライムンドは、一一二五年から一一五二年までトレドの大司教を務めました。
ライムンドはトレド大聖堂の図書館で、アラビア語学者やユダヤ人学者、クリュニー会の修道士を含む翻訳チームを率い、翻訳作業を開始しました。
そこにグノーシス(叡智)があったからですが、翻訳にあたるのはおなじみの面子です。
洗礼を受けたユダヤ人、セビリアのヨハネスは、重要な翻訳者の一人でした。
もう一人の主要な翻訳者は、ドミニクス・グンディサリヌス(一一一五年ごろ~)です。この二人は学派の初期、アラビア語の書物たちをカスティーリャ語に翻訳しました。
セビリアのヨハネスは、中世ヨーロッパに大きな影響を与えた『セクレトゥム・セクレトルム(秘密の秘伝書)』という書物を翻訳しました。
名前からしてグノーシスです。
またヨハネスは、アブ・マシャール、アル=キンディ、数学者サービト・イブン・クッラの多くの占星術書も翻訳しました。
サービトはハッラーン生まれで、一族はアストラル(星辰)崇拝者の偽サービア教徒でした。
セビリアのヨハネスは、イブン・シーナー、アル=ファーラービー、アル=ガザーリー、イブン・ガビーロールのラテン語訳を出版しました。
イブン・ガビーロールはユダヤ人の新プラトン主義者で、西洋ではアヴィケブロンとして知られていました。
新プラトン主義は、文言だけ見ると「後世プラトンに影響を受けた人」くらいの印象ですが、この主義者たちはプラトンだけでなく新ピュタゴラス主義の影響も受けた神秘主義カルトです。
このイブン・ガビーロールは、女性のゴーレムをこしらえて家事をやらせていたといわれていますが、この人によってユダヤ哲学の中心はスペインに移りました。
そしてアブラハム・イブン・ダウドによるアリストテレス哲学に基づくラビ伝統の擁護、イェフダ(ユダ)・ハレヴィによる哲学批判、モーセ・マイモニデスによるユダヤ教と中世アリストテレス哲学の偉大な統合が、哲学をラビ学問の正当な一分野として確立することになりました。
ちなみに付け加えておくと、ラビ・ユダヤ教は正統派ではありません。新約聖書・キリスト教文献によると、ラビ・ユダヤ教はイエス・キリスト時代に「パリサイ派」と呼ばれていたユダヤ教宗派です。
イエスはエルサレム神殿で暴れまくったあと、パリサイ派と律法学者にこう言いました。
蛇よ、蝮の世代よ。あなたがたはどうして地獄の刑罰を逃れることができようか。
ドミニクス・グンディサリヌスは、一一八〇年にはじまったトレド翻訳学校の最初の責任者と考えられています。
グンディサリヌスは、アブラハム・イブン・ダウドやセビリアのヨハネスと協力し、アラビア語の著作をラテン語に翻訳する作業を二〇冊分ほどつづけました。
アブラハム・イブン・ダウドは、ラビ・マヒルの追放を報告した『セフェル・ハ=カバラ』の著者で、「カバラの父」と見なされている人です。
グンディサリヌスの翻訳には、イブン・ガビーロールの『Fons Vitae(生命の泉)』があります。
新プラトン主義者がプラトンに寄せたのかどうかはわかりませんが、『Fons Vitae』も弟子と師匠の対話形式を取っています。
紀元後七〇年のエルサレム第二神殿破壊から、いわゆる「ユダヤ人」は古代の叡智を失った状態でした。かの地やバビロンやアレクサンドリアで醸成された、カバラの元となった神秘主義的叡智です。
それが十字軍ののち、唐突に登場しました。詳細は場をあらためてお伝えしますが、十二世紀、主にセプティマニアの地に最初のカバラ主義者が登場し、その弟子たちはカバラの伝統をスペインに伝え、トレドなどに根づき、その後ほかの地のユダヤ人社会に広がっていきました。
「偉大」な書物のアラビア語からカスティーリャ語、ラテン語への翻訳は、地味に一大事件といえます。
ブルゴーニュ
スペイン王の中で最も偉大とされたアルフォンソ六世(一〇四〇年ごろ~)は、ユダヤ人を厚遇し、レコンキスタしたトレドはアラビア語やヘブライ語の書物をカスティーリャ語、ラテン語に翻訳するための翻訳センターが設立されることになりました。
そして中世ヨーロッパ、いわゆる西洋にカバラの思想が広まっていくことになります。
アルフォンソ六世の娘ウラカとテレサはそれぞれ、コンスタンス・ド・ブルゴーニュの甥、レーモン・ド・ブルゴーニュ(一〇七〇年~)と従兄弟のアンリ・ド・ブルゴーニュ(一〇六六年)と結婚しました。
これらの結婚たちは、ブルゴーニュとレオンを結びつける政策としての婚姻でした。そしてブルゴーニュはクリュニー修道院のお膝元です。

ブルゴーニュはかつてのブルグント王国の一部で、五三四年、フランク王国に編入されました。
八四三年に神聖ローマ帝国がヴェルダン条約によって分割された際、ソーヌ川以西の地域は西フランク王国に割り当てられ、南部と東部は中部フランク王国に属しました。
中部フランク王国は、八七九年に南部ブルゴーニュ、八八八年にルドルフ一世(八五九年~)の下で北部ブルゴーニュとして独立しました。
九三三年、カロリング朝の崩壊に伴い、今度は息子のルドルフ二世(八八〇年ごろ~)の下、北ブルゴーニュと南ブルゴーニュが再統合され、アルル王国になりました。

その後アルル王国は神聖ローマ帝国に移り、サーリアー朝の皇帝コンラート二世(九九〇年ごろ~)が継承し、ブルゴーニュ公国はフランスのカペー朝の分家によって再建されました。
九八二年、イタリア王アダルベルト二世(九三一年~)の息子オットー=ギヨーム(九五五年ごろ~)は、ディジョンのジェルベルガからブルゴーニュ伯領を譲り受けました。
一〇〇二年、オットー=ギヨームは、大公と呼ばれた継父のブルゴーニュ公アンリ一世(九四六年~)の死後、ブルゴーニュ公国の領有権も主張しました。
ですがブルゴーニュ公国は、二年後にフランス王ロベール二世(九七二年~)によって返還領として没収されてしまいました。
オットー=ギヨームの息子、ブルゴーニュ伯ルノー一世(九八六年~)は、アデライード・ド・ノルマンディーと結婚しました。
アデライードはノルマンディー公国の創始者ロロの男系直系子孫(曾孫)です。ロロの妻はギヨーム・ド・ジェローヌの曾孫、ポッパ・ド・バイユーで、ダビデの血統です。
ルノー一世の息子のギヨーム一世(一〇二〇年~)は大王と呼ばれた人で、一〇五七年から一〇八七年までブルゴーニュ伯を務めました。
サグラハスの戦いのあと、アルフォンソ六世はヨーロッパのキリスト教諸国に、ムラービト朝に対する十字軍を組織するよう要請しました。
この十字軍は結局実現しませんでしたが、この呼びかけによって多くの外国人騎士がイベリア半島を訪れることになりました。
騎士たちの中には、レーモン・ド・ブルゴーニュや、レーモンの従兄弟のアンリ・ド・ブルゴーニュも含まれていました。
この二人はお伝えしたように、アルフォンソ六世の娘ウラカとテレサとそれぞれ結婚しました。
この結婚によって、イベリア半島にアンスカリ家とカペー朝が成立するきっかけになりました。
大王の息子たち
しつこいようですが、レーモン・ド・ブルゴーニュは、大王ブルゴーニュ伯ギヨーム一世の息子です。
レーモンの妻ウラカは、アルフォンソ六世の二番目の妻コンスタンス・ド・ブルゴーニュのあいだに産まれた長女で、コンスタンスの子供の中で唯一生き残った人です。
コンスタンスの父は、フランス王アンリ一世の弟ブルゴーニュ公ロベール一世(一〇一一年~)です。
ロベール一世は先に出てきたフランス王ロベール二世の息子で、ロベール二世はユーグ・カペーとアデライード・ダキテーヌの息子です。
アデライード・ダキテーヌは、アキテーヌ公ギヨーム三世とノルマンディーのロロの娘アデルとのあいだに産まれた娘です。つまりウラカはダビデの血統です。
レーモン・ド・ブルゴーニュは、ウラカとの結婚によってポルトガルとコインブラを含むガリシア王国の統治権を持参金として得ることができました。
その直後の一〇九五年、アルフォンソ六世はこれらの地域をコンスタンス・ド・ブルゴーニュの甥のアンリ・ド・ブルゴーニュに与え、アンリはテレサと結婚しました。
クレルヴォーのベルナール(聖ベルナール)の父、騎士テセランは、アンリ・ド・ブルゴーニュの家臣でした。
アンリ・ド・ブルゴーニュは、ブルゴーニュ公ウード一世(一〇六〇年~)の弟でもあります。
ウード一世は、モレーム修道院を後援し、ステファン・ハーディングや聖ベルナールがシトー修道会を設立する前にモレーム修道院を設立しました。
このウード一世は、レーモン・ド・ブルゴーニュの娘シビーユと結婚しました。シビーユもダビデの血統です。
レーモンとアンリが最初にイベリア半島に到着したのは、おそらく一〇八六年、ウード一世の軍に混じってのことと思われます。
そしてアルフォンソ六世の娘ウラカとの結婚を取り持ったのは、ウード一世である可能性があるといわれています。
レーモンの兄エティエンヌ一世(一〇六五年~)は、兄のルノー二世が十字軍で戦死したため、一〇九七年にブルゴーニュを引き継ぎました。
エティエンヌ一世の娘イザベルは、テンプル騎士団の創始者であるシャンパーニュ伯ユーグと結婚しました。
エティエンヌ一世自身は、ブロワ伯エティエンヌの軍の指揮官として一一〇一年の十字軍に参加しました。
レーモンとエティエンヌの兄弟に、ギー(一〇六五年~)という男がいます。
ギーは一一一九年、クリュニー修道院でカリクストゥス二世として教皇に選出されました。
カリクストゥス二世は巡礼の強力な推進者の一人で、コンポステラの聖年をはじめたのもこの人です。
聖年というのは、カトリックにおいて「巡礼者に特別の赦しを与える」とした年のことです。
当時の公式ガイドは『カリクストゥス写本』で、聖ヤコブとホタテ貝の関連性についてはじめて言及されていました。
第一巻の有名な説教『ヴェネランダ・ディエス(祝福された日)』は、ホタテ貝の象徴性をこう説明しています。
聖ヤコブの海には、人々がヴェラス(ホタテ)と呼ぶ魚がいる。両側に盾を一つずつ持ち、そのあいだに身を隠している。……これらの貝殻は手の指のように刻まれており……[そして]持ち主が真に自らの命を守るべき二つの愛の戒めをあらわす。すなわち、なによりも神を愛し、隣人を己の如く愛することである。
一方、ホタテ貝といえばヴィーナスです。
ヴィーナスは金星、ルシファーで、ヨハネの黙示録の大淫婦バビロンです。
フリギアの大地母神キュベレーは、ローマではマグナ・マーテルとして知られ、ヴィーナスと同一視されていました。
一一二〇年、カリクストゥス二世はクリュニーのユーグを列聖し、四月二十九日をユーグの祝日と定めました。
レーモンとアンリは密約を結びました。アルフォンソ六世の死後、レーモンがレオン=カスティーリャの王位を掌握するのをアンリが助ける、という約束です。
一〇九三年から一一〇七年にかけて、レーモンとアンリはクリュニーのユーグと「聖ペトロの全信徒」に手紙を送りました。
その後ユーグの公使ダルマティウス・ゲレに会い、互いの生命と安全を尊重することを約束しました。
レーモンはさらに、レオンとカスティーリャの全土の獲得に協力する見返りとして、トレドまたはガリシアをアンリに与えることをダルマティウスに誓いました。
この密約はその後、クリュニー修道院に伝えられました。
ブルゴーニュの修道院がスペインの地に影響を及ぼす存在でなかったのであれば、勝手に約束を交わせばいいだけの話です。
これまで見てきたように、クリュニー修道院は宗教的政治ツールとして絶大な力を持っていました。
キリスト教対イスラム教というイデオロギーの対決は、レコンキスタを正当化するためにあえて持ち出されたものです。
そしてレコンキスタの流れの中で、古代の叡智が翻訳され、西洋社会に広まっていきました。
中世ヨーロッパが経済的発展を遂げたのもこの時期です。貢納は貨幣が中心となり、複式簿記が発展し、各地で大市がひらかれました。
大市、貨幣(銀行)といえば、テンプル騎士団です。
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