77.セパラデ
画像は以下のサイトから転載。
https://www.eurasiareview.com/01092022-jewish-music-and-singing-in-morocco-analysis/
スペインの伝承
前回からは「ユダヤ人の売春宿」、南フランスのセプティマニアを中心にお伝えしています。

そして同じうんこであるスペインも、オカルト史的には非常に重要な地です。今回はスペインの「歴史」をお伝えします。
ユダヤ人のハスダイ・イブン・シャプルート(九一五年~)は、後ウマイヤ朝のカリフ、アブド・アッラフマーン三世(八八九年~)のかかりつけ医兼外交官でした。
ハスダイはイスラエルの失われた十氏族について知るため、ハザールの王ヨセフに手紙を送りました。このような出だしです。
わたし、イサクの子、エズラの子ハスダイは、セパラデへ流れ着いたエルサレムのユダヤ人に属し、わが主君のしもべとして、王の御前で地にひれ伏し、遠い国から陛下の御住まいに向かってもひれ伏します。
ハスダイは、アラブ人のいうアル・アンダルス、スペインの首都コルドバの生まれです。アル・アンダルスはコルドバを指す言葉でもあります。
ユダヤ人はスペインを、神聖な地としてセパラデと呼んでいました。
セパラデは聖書に登場します。オバデヤ書は預言者オバデヤによるものとされ、一章しかない短い書なのですが、こうあります。
イスラエルの子孫の捕われ人は、カナンびとのものをザレパテに至るまで所有し、セパラデにあるエルサレムの捕われ人は、南の町々を所有する。
そして救い主はシオンの山に登ってエサウの山をさばき、王国は主のものとなる。
スペインはかつては、カスティーリャ、アラゴン、カタルーニャを含む王国の集まりでした。
多くのカバラ派の歴史家によると、スペインにユダヤ人が住み着いたのはバビロン捕囚の時代にまで遡れます。
これまでさんざん「ユダヤ人」についてお伝えしてきましたが、「またはじまった」という感じです。「いや、じつは昔から住んでいたのだ」というわけです。
放浪、寄生が得意なユダヤ人らしいエピソードですが、実際はどうだったのでしょうか。
タルシシという地名は、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、列王記、ヨナ書に登場します。
いくつかの例では、タルシシは地球の最も遠い地域にある海洋国として言及されています。スペインなどがぴったりなように思われます。
ヨナ書の一章にはこうあります。
しかしヨナは主の御前からタルシシに逃れようとして立ち上がり、ヨッパに下っていった。するとタルシシに向かう船を見つけたので、かれは舟賃を払ってその舟に乗り込み、かれらと共に主の御前からタルシシに向かった。
このように、タルシシと海洋船はセットになって出てきます。
スペインのユダヤ人は、フェニキアの商人に同行していた可能性があります。船と地中海といえばフェニキア人です。
タルシシに当たる場所は、スペインの南部です。
そしてスペインのカディスでは、紀元前八世紀から七世紀ごろのフェニキア人の印章が発見されています。
最も重要なカバラの書『ゾーハル』は、スペインのユダヤ人、モーシェ・デ・レオン(一二五〇年ごろ~)が書いたとされています。
モーシェ・デ・レオンは、バビロン捕囚の際にイスラエルを追われたユダヤ人の大多数が、エルサレム第二神殿が第一神殿のように破壊されると予期して帰還を拒んだ、という伝承について触れています。
そしてその大多数の一部が、遠く(スペイン)に行ったというわけです。
十六世紀のラビでカバラ学者のモーシェ・ベン・マキアが伝える別の伝承では、ユダヤ人は第一神殿の破壊以来スペインに住んでいたのだそうです。紀元前六世紀のころの話です。
このユダヤ人たちは、モーシェ・ベン・マキアによるとトゥライチュラの人々、とのことなので、おそらくトレドに住んでいたようです。
トレドもオカルト史的に重要な地です。
十五世紀、スペインで著名なカバラ学者だったドン・イサアク・アブラバネル(一四三七年~)は、スペインに到達した最初のユダヤ人は、エルサレムを包囲したバビロン王の同盟者フィロスによって船で連れていかされた、と伝えています。
このフィロスはギリシャ人だったのですが、バビロン王によってスペインに王国を与えられていました。
そしてフィロスは、同じくスペインで王国を治めていたヘラクレス王の姪エスパンと婚姻関係にありました。
ヘラクレスもギリシャ人で、母国に帰りたくなってのちに王位を放棄し、エスパンに王国を託します。
ピンと来たかもしれませんが、この王国はエスパンにちなんでエスパーニャと名づけられました。
フィロスによってスペインに移住させられたユダヤ人たちは、ユダ、ベニヤミン、シモン、レビの子孫で、アブラバネルによると、スペイン南部の二つの地域に定住しました。
またアブラバネルは、トゥライチュラという名前は最初のユダヤ人がつけたもので、ヘブライ語で「放浪」を意味する言葉から来ている、と推測しています。
さらにアブラバネルによると、聖書の時代にスペインに到着したユダヤ人流浪民は、のちに第二神殿破壊後にローマ皇帝ティトゥス(三九年~)が連れてきた流浪民と合流した、とのことです。
カバラの父
イスパニアは、第二次ポエニ戦争(紀元前二一八年~紀元前二〇一年)のあと、カルタゴの滅亡とともにローマの支配下に入りました。
ポエニはフェニキアのことです。カルタゴはフェニキア人の都市だったからです。
ヨセフスは『ユダヤ古代史』の中でこう書いています。
アジアとヨーロッパには、ローマ人に服属する二氏族があるだけで、十氏族は現在までユーフラテス川の彼方にあり、膨大な数であって、数で推し量ることはできない。
スペインに関する最も古い記述は、先にお伝えしたオバテヤ書にあるとされています。
セプティマニアの首都ナルボンヌ生まれのラビ、ダヴィド・キムキ(一一六〇年~)は、オバデヤ書の注解の中で、ザレパテとセパラデという名前をそれぞれフランスとスペインと同一視しています。
そしてオバデヤ書の中で捕囚に遭っているユダヤ人たちは、ティトスとの戦争で追放されたユダヤ人を指す、としています。
キムキは、著名なカバラ学者のアブラハム・イブン・エズラ(一〇九〇年~)や新プラトン主義者のマイモニデス(一一三五年)から多大な影響を受けた人です。
キムキの一族の著作は、リスボンの有名なイブン・ヤヒヤ(七六七年~)の一族によって支援されていました。
コルドバ出身のラビ、アブラハム・イブン・ダウド(一一二五年ごろ~)は、一一六一年にこのように記しています。
グラナダの(ユダヤ人)共同体には、かれらが(パレスチナの)辺境の村や町の出身ではなく、ユダとベニヤミンの子孫であるエルサレムの出身であるという伝統が存在する。
創世記四十九章にはこうあります。
ユダは、獅子の子。わが子よ、あなたは獲物をもって上って来る。かれは獅子のようにうずくまり、獅子のように身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。
杖はユダを離れず、立法者の杖はその足のあいだを離れることなく、シロの来るときまでに及ぶであろう。そしてもろもろの民はかれに従う。
杖は、王の笏、つまり支配者の権利をあらわしています。ダビデはユダ族から出たので、ユダ族はメシアの血を引いています。世界の王はユダ族から出るのです。
ユリウス・クラウディウス朝の初代皇帝アウグストゥス(紀元前六三年~)は、ローマの詩人ウェルギリウス(紀元前七〇年~)に叙事詩『アエネーイス』の執筆させました。
理由は、ユリウス・クラウディウス家をトロイ人の子孫とするためです。そして以前お伝えしましたが、トロイ人はユダの子孫です。
アブラハム・イブン・ダウドは、カバラの父とみなされている人です。
またアブラハム・イブン・ダウドは、重要なユダヤ神秘思想家の「盲目のイサク」の父でもあります。
盲目のイサクは新プラトン主義者で、中世カバラの最初の作『セフェル・ハ=バヒール(輝きの書)』の著者とされています。
アブラハム・イブン・ダウドは、母方の祖父の一族はティトスがエルサレムを征服した際にスペインに移住した、と記しています。
ティトスはイスパニアの将校たちに、エルサレムの貴族から成るユダヤ人捕虜を送るよう要請しました。その後捕虜たちはメリダに定住しました。
カトリック教会の支配
はやい時期からユダヤ人がスペインと接触していたという実質的な証拠は、紀元後三世紀にあらわれました。
四世紀初頭、カトリック教会はローマ帝国のイスパニアでエルビラ公会議を招集しました。エルビラは現在のグラナダ南部です。
エルビラ公会議ではいくつかの決定がなされました。スペインのユダヤ人に対するキリスト教徒の適切な振る舞いについて述べられ、とくにユダヤ人との結婚を禁止としました。
イベリア半島の大部分は、四世紀初頭までに、蛮族の侵入によって西ゴート族の支配下に置かれていました。
五八七年、西ゴートの王家がアリウス派からカトリックに改宗したあと、西ゴート族はユダヤ人に対して攻撃的な政策を採りました。
五八九年のトレド公会議では、ユダヤ人とキリスト教徒の混血児に対し、強制的に洗礼を授けさせることが決定されました。
また、ユダヤ人は公職に就くことが禁じられました。
状況はじょじょに悪化し、六一三年にはユダヤ人はキリスト教に改宗しなければ追放されることになりました。
ユダヤ人の多くは改宗よりも追放を選びましたが、残ったユダヤ人もこっそりとユダヤ教を信仰し、その伝統は何世紀にも渡って存続しました。有名な偽装改宗者、マラーノたちです。
六三三年には第四回トレド公会議が開かれ、そこで隠れユダヤ教徒の問題が取り組まれました。バレバレだったのです。
自称キリスト教徒がユダヤ教徒だと判明した際は、子供が取り上げられ、修道院や信頼できるキリスト教徒の家庭で育てられることになりました。
この事実だけを見ると、カトリック教会は完全に悪です。そしてほとんどの人がそのように認識しています。
ですがカバラに代表されるユダヤ人の仕事ぶりを見ると、世界平和のためには致し方なかった、という見方もできます。
とにかく世を乱す存在だからです。そしてオカルトは、ただ空想して終わりではありません。そこには「実践」が含まれます。
実践の結果として現在では、ダーウィンの進化論すら真顔で受け止められています。
念のためお伝えしておきますが、「みんな仲良くしていれば」という可能性はあり得ません。信仰というものはそういうものだからです。
ウマイヤ朝の征服
ウマイヤ朝の軍人、ターリク・イブン・ズィヤードは、七一一年、イスラム軍の指揮官としてイベリア半島に上陸しました。
ちなみに上陸地点はジャバル・ターリク(ターリクの山)と呼ばれ、スペイン語のジブラルタルの語源となっています。
イスラム軍が西ゴート、イスパニアを征服したことによって、スペインのユダヤ人、セファルディムの生活は劇的に変化しました。
ほとんどの場合、ムーア人(キリスト教徒がイスラム教徒を指す言葉)はユダヤ人に歓迎されました。バビロンを征服したアケメネス朝ペルシャのエピソードを思わせます。
とくに七五五年、アブド・アッラーフマン一世(七三一年~)がウマイヤ朝の支配を確立したことで、土着のユダヤ人社会はモロッコやバビロンなどのアラブ領にいるユダヤ人と合流することができました。
イスラム教徒の支配下で、スペインは大繁栄しました。ユダヤ教徒とキリスト教徒はズィンミーという地位を与えられ、いちおう保護はされましたが、当然イスラム教徒と同等の権利は与えられませんでした。
スペインの「黄金時代」のあいだ、ユダヤ人は大きな出世を遂げました。そして当然、ヨーロッパじゅうのユダヤ人がスペインに移住しました。
スペインの地はセパラデと呼ばれ、ユダヤ世界の中心となりました。十世紀から十一世紀にかけては、聖書の時代以来の繁栄となりました。
イスラムの黄金時代は、伝統的に八世紀から十四世紀のあいだとされています。文化的、経済的、科学的繁栄の時代です。
この時代に、古代の科学者や哲学者の著作がアラビア語に翻訳されました。新プラトン主義者たちやアリストテレス、ヒポクラテス、ガレノス、プトレマイオスなどは、ペルシャやインド、中国の古代の哲学者の著作と同様、ムーア人たちに広く知られていました。
これらの著作によって、当時のアラビア語圏の人たちは、西ヨーロッパのキリスト教圏ではアクセスできなかった古典を学ぶことができました。
そしてイブン・シーナー(アヴィセンナ、九八〇年ごろ~)、アル=キンディー(アルキンドゥス、八〇一年~)、アル=ラーズィー(ラーゼス、八五四年~)などの東部イスラム圏の科学者たちは、古代の思想体系に重要な著作を付け加えました。
アラビア語の文献は、一部がラテン語、ヘブライ語、ラディーノ語に翻訳されました。
その文献には、ユダヤ人哲学者のモーシェ・ベン=マイモーン(先ほど出てきたマイモニデス)、イスラム教徒の社会学者で歴史家のイブン・ハルドゥーン(一三三二年~)、カルタゴの医師コンスタンティヌス・アフリカヌス(一〇一七年~)、イスラム人科学者アル=フワーリズミー(七八〇年ごろ~)などの著作たちが挙げられます。
ちなみにラディーノ語は、スペイン系ユダヤ人が用いたスペイン語の方言です。
この文化的、経済的、科学的繁栄の最初の時期は、コルドバの最初の独立カリフ、アブド・アッラーフマン三世の治世下で起きました。ハスダイのボスです。
アブド・アッラーフマン三世は、アラビア語のスコラ学の支援を行いました。それによって、イベリア(スペイン)はアラビア語文献学研究の中心地となりました。
黄金時代の幕開けは、ハスダイの経歴と密接に関係しています。
ハスダイはただのお医者さんではなく、ヘブライ語、アラビア語、ラテン語を操る才人で、説得力のある人柄もあり、税関や外国との貿易の監督も行っていました。有能な外交官、政治家でもあったわけです。
その立場があったからこそ、ハザール王国との交流が行えたわけです。
ハスダイはまた、詩人でもありました。なのでハスダイはセファルディ・ユダヤの詩人たちを奨励し、金銭的に支援しました。テーマは宗教、自然、音楽、政治など多岐に渡りました。
結果コルドバは、ユダヤ人学者のメッカになりました。
ハスダイはユダヤ律法とタルムードの研究も促進し、その結果スペインのユダヤ人を東方のタルムード・アカデミーから穏やかに独立させることになります。
ハスダイは狂った現代社会をつくりあげた重要人物の一人といえます。
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