ラサフラメナ〈8. 水の本質〉
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「アーシャ⋯⋯!」
足が動いていた。理屈ではない。霊火と呼吸が合った時のように、ただ、直感にまかせて走る。分かる。方角も、場所も。
ジェイドが雨が降りしきるパドマ・モエの池に辿り着いたとき――そこにあったのは、引き裂かれた祈りだった。
ヴィアンの身体がアーシャを押さえ込んでいる。
アーシャの肉体からは言葉にならない抵抗が滲んでいた。
ジェイドの視界が、赤く染まった。
「――ッッッ!!!!!」
本能だけが先に動いた。
祈りも、香も意味を成さない。この一瞬に限って、ジェイドは"刃"だった。
ヴィアンの背に飛びかかる。抱きつくのではなく、身体ごと打ちつける。肘が、頸椎に入った。ヴィアンの身体が一瞬痙攣し、倒れ込む。
仰向けになったところを、拳が真正面から顔を撃つ。膝が腹を潰す。
止まらない。
反射で起き上がろうとしたところへ、肘が脇腹を砕く。
息が漏れる音は聞こえなかった。
ただ、静かだった。雨の音だけが続いていた。
「ジェイド⋯⋯!やめ⋯⋯」
アーシャは未だかつて見たことのない兄の姿に震える声で叫ぶが、届かない。
ジェイドの瞳が、獣のように細まった瞬間。最後の一撃が、正確にヴィアンの喉元へと届いた。
ゴッ⋯⋯!!
鈍い音。
そして、何も動かなくなった。
香も、火も、風も――しん⋯⋯とその時間を止め、沈黙した。
「⋯⋯!」
頬を叩く。
ヴィアンは応えない。
その身はまだ温かかった。
ジェイドの額から、雨と汗とが混ざって滴る。
「起きろ!!起きろ⋯⋯!!!」
ジェイドはただ、繰り返し叫んだ。
自分が"霊火に仕える者"として超えてはいけなかった一線を、今、越えてしまったと知りながら。
*
パドマ・モエの池とその周辺は、奇妙なほど静まり返っていた。
雨が止み、睡蓮の葉に溜まった水滴がぽたり、ぽたりと落ちる音だけが、二人の耳に響いている。
ジェイドは深く息を吸い込んだ。血の匂い、汗の匂い、恐怖と怒りの余韻がまだ空気を湿らせている。アーシャは震えていた。けれど、泣いてはいなかった。
「ここで少し待っていて」
そう言って、ジェイドは遺体となったヴィアンに再び触れた。
服がはだけると、刺青に覆われた皮膚に山の泥がついている。腕を通し、肩に担ぐ。アーシャに背を向けたまま、ジェイドは黙々と池の奥へと進んでいった。
池の中心は意外なほど深く、ぬかるみに足をとられながらも、彼は進んだ。睡蓮をかき分け、ゆっくりと、葬るのではなく、まるで何かを慎重に祀るようにして、ヴィアンの肉体を水に沈めていった。
ぐらり、と亡骸が水を吸い込みながら、沈んでいく。
「還ってくれ...」
*
そのあと、二人は山中の禊の滝へ向かった。
霊火に仕える者たちが、罪や穢れを祓うために訪れる場所。だが、今までこれほどまでに明確に穢れを落とす瞬間などあったのだろうか——ほとんど、黙祷のようなものだった。
水は冷たかった。
滝壺に身を沈め、衣を脱ぎ、二人とも無言のまま打たれる。
『水の本質は、破壊だよ』
いつの授業だろうか?ザフールに留学していた時に師の誰か放った言葉。ジェイドの頭の中でぐるぐる鳴り響いていた。
アーシャの唇は青く、肌は小刻みに震えていた。
ジェイドもまた、目を閉じたまま、痛みと怒りと、もう何も戻らないという現実を、ひとつひとつ冷たい水で洗い流すように、じっとしていた。
流れ落ちる水の中で、水面に映るふたつの影だけが、何かを知っているように揺れていた。
陽が少し傾きはじめた頃、寺院特区への道を歩いていた。香木が風に揺れ、湿った土と甘い葉の匂いが鼻をくすぐる。スコールがあったのが幸いか、誰も二人の衣が濡れていても気にもしない。
ちょうど分かれ道に差しかかったとき、セナが笑顔で現れた。
「あっ、ジェイド!アーシャも⋯⋯カーサに帰るところ?」
ジェイドは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな微笑みに変えた。
「ああ⋯⋯ただいま」
「あはは、さっきの夕立、すごかったね。こんな季節にあんなスコール、珍しいよね。あ、香炉飛んでたの、見た?」
アーシャは黙って首を横に振った。
「そっか。じゃ、また後でね!」
セナは手を振って、アグニア文殿の方へ軽やかに去っていった。
その背中を見送りながら、ジェイドは静かに呟いた。
「⋯⋯本当に、よく降ったな」
―――カーサプリアンカの夜は、香が深く沈む。
アーシャの部屋の窓はわずかに開いていた。湿った夜風がレースのカーテンを揺らし、焚かれたラキ・グラハの香が微かに立ち上っていた。
ジェイドは、アーシャの部屋の隅に腰を下ろしていた。アーシャも少し離れた床に座り込んだまま、ずっと沈黙している。
「⋯⋯なぜ、霊火は反応しなかったんだろう」
その問いは、誰にも答えられないものだった。
ジェイドもすぐには口を開けなかった。
「ずっと考えてる。あの瞬間も、何も⋯⋯。正門であれほどヴィアンを歓迎した霊火は、池のそばでは⋯⋯ただ、沈黙していた。歓迎もしていなかったけど、拒否もしていなかった」
アーシャは両腕で自分の体を抱くようにして、言った。
「⋯⋯こわかった⋯⋯」
それは、ヴィアンに対する恐怖でもあり、自分が"穢された"と思い込んでしまうことへの恐怖でもあった。
そして、何より――
ジェイドはその言葉に、静かに目を閉じた。
「⋯⋯俺も、こわいよ。あんなに簡単に⋯⋯殺してしまえたことが。しかも、迷いもなかった」
アーシャは首を振った。
「ジェイドは、ちゃんと、ちゃんと迷ってたよ!でも⋯⋯でも、ヴィアンが動かなくなった瞬間、私は、助かったって思った。救われた!って、思ってしまった」
二人の間に、再び長い沈黙が落ちた。
「⋯⋯本当は嫌だったんだ」
ジェイドがふいに言った。
「ヴィアンが⋯⋯? 」
「ああ。⋯⋯火が、まったく部外者のあいつを突然歓迎したことも、アーシャと楽しく話してたことも、全部⋯⋯許せなかった。俺は、アーシャの兄でいなきゃいけないのに」
アーシャは、ゆっくりとジェイドに近づいた。
「兄だから、じゃない。あなたは、あなた。⋯⋯私は、あなただから、救われた」
その言葉に、ジェイドの肩が小さく震えた。
アーシャがそっとその手を握る。指先が触れ合った瞬間、互いの鼓動が高鳴る。香の煙がゆらぎ、風が止まった。
「こわいの。これから、どうなってしまうのか」
「わかる。でも、いまは⋯⋯」
そっと、アーシャの額にジェイドの唇が触れた。
それは、祈りのように静かで、懺悔のように熱く深かった。
やがて二人は、寄り添いながら、ひとつの寝台へと身を横たえた。
ジェイドの手が、アーシャの背中に沿ってゆっくりと滑り落ちる。衣の隙間に指先が忍び込み、彼女の肌の温度に触れるたびに、二つの呼吸は少しずつ乱れていった。アーシャは目を閉じて、ジェイドの首に腕をまわす。唇と唇が重なり合い、濡れた吐息が香と混じって部屋に満ちていく。
ジェイドの指がアーシャのこめかみから髪を掬いあげる。
「⋯⋯アーシャ」
その名を呼ぶ声は震えていた。
アーシャは目を開けて、彼を見つめた。
「⋯⋯大丈夫。ジェイド、大好きだよ。本当はね、ずっと一緒にいたいよ」
香の煙が揺れ、夜が深く降りてくる中、ジェイドとアーシャは、ただ互いの鼓動を感じながら、痛みと罪と救いをひとつずつ、肌で確かめ合った。
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