ラサフラメナ〈7. 境界〉
初火の儀の前日。夕暮れどき、陽が霊山を斜めに照らしていた。
アーシャは眠りの睡蓮――パドマ・モエの池が見下ろせるバンガローのテラスの椅子に腰を下ろし、薄い紙にゆっくりと筆を走らせていた。
——「兄さんへ。ザフール行き、頑張ってね」
——「ずっと一緒にいてくれて、ありがとう。初火が終わったら、もうひとりでも大丈夫だよ⋯⋯」
ジェイドは兄さんだけどさ、正直⋯⋯兄さんっていうか⋯⋯。
言葉を選びながら、何度も書いては消し、香の滲んだ小さな手紙に自分の気持ちを託していた。
空は澄み、池の水面には風ひとつない。だが、山の空気はどこか張り詰めていた。アーシャは紙をたたみ、胸元の袋にそっとしまうと、腰を上げて帰路につこうとした。
そのとき——
風の向こうから聞こえた、あの声。
「おい、アーシャ」
一瞬、幻聴かと思った。
けれど少し斜め左を振り向けば、確かにそこにヴィアンがいた。
最後に会った時のように軽装で、岩に腰掛け、うっすら微笑みかけながらこちらを見ている。
「⋯⋯なんでここに?」
アーシャは驚きを隠せずに尋ねた。
霊山区域は、霊火の"さらに強い選別"が働く場所。巫女たちですら体調を崩すことがあるのに、ヴィアンはまるで何事もないようにそこにいた。
「なんとなく、足がこっちに向いてた。怒られるかと思ったけど⋯⋯火は、俺を咎めなかったみたいだな」
確かに。アーシャの皮膚にも、霊火がざわつく感触はない。
心がふっとほどけた。
「じゃあ⋯⋯せっかくだし、あの睡蓮の池のほとりまで一緒に行かない?」
アーシャは自然に、そう口にしていた。理由はあとからいくらでもついてくる。もう一度会えた喜び、そして、霊火が拒んでいないという安心感が背中を押した。
ヴィアンは片方の眉を上げ、立ち上がった。
「あの池、なんかいいな。水が眠ってる感じがする」
二人は並んで、静かに歩きはじめた。霊火が燃えもしなければ、沈みもしないまま、ただ風にゆらいでいた。
*
遠出の疲れが数日遅れで一気に出たのか、ジェイドは軽い昼食を済ませたあと、そよ風の吹く自室でしばしの仮眠をとった。しかしそれは優雅なものではなく、酷く不可解な夢から目を覚まして終わった。
―――冷たい岩肌の上に寝かされていた。
洞窟だろうか、湿った空気が皮膚を撫でている。天井の暗がりから、チャク、チャク...と何かが垂れてくる――最初は心地よかった。
だがすぐに、鉄の匂いが鼻をつき、滴が血液であると知る。
気がつけば、彼は立っていた。
足元の水たまりが、真紅に染まっていく。
その静寂を割って、一羽のハゲタカが、ゆっくりと洞窟に入ってくる。
嘴に何かを咥えている。暗くてよく見えないが、嫌な予感がした。
寝台の上で身体を起こす。
汗ばんだ肌に、重い気配がまとわりつく―――
―――「なんだ⋯⋯夢か⋯⋯」
汗でひんやりした肌に、なんとも言えない感触があるのは、夢から醒めたとて同じだった。
今日は、金星が魚座から牡羊座に渡る日。惑星が星座をまたぐとき、その力は一時的に失われる。
中でも、水の星座から火の星座へと移る瞬間は、最も不安定で危うい。
その境界のことを、ガンダーンタという。
深い霊性を呼び覚まし、魂の深層を引きずり出すとされる時。
そして今、金星はまさにその間にある。
毎年、初火の儀は薔薇月の満月に行われるため、日にちは動かせない。
ジェイドはうっすらと、今年の儀の星回りを危惧していた。
だが、どこかで目を逸らしていた。
(アーシャ⋯⋯アーシャは、どこだ?)
急に立ち上がった拍子に、香炉を倒した。
絨毯に散らばる乾ききった炭。
ひとつ、ふたつ――その形に、彼は言葉を失った。
五つの炭が、フラメナ織の絨毯の上に明確な図を描いていた。
上から順に、いち、いち、に、いち⋯⋯。奇数、奇数、偶数、奇数⋯⋯。
〈プエル〉――"少年"。未熟さによる暴力性を意味する印だった。
「まずい⋯⋯!!」
香の煙も振り切って、部屋を飛び出した。
*
パドマ・モエの池は静かだった。
水面には灰青の睡蓮が漂い、時おり小さな風が花と水面を揺らした。
ヴィアンは黙っていた。
何も言わず、ただ草の上に立ち、両足を開いて重心を落とした。
そして、ゆっくりと動き始めた。腕の動き、腰の運び、足捌きが地に沈むように重たく、けれどどこか軽やかで、風のようでもあった。
「⋯⋯それ、踊り?」
「太古の昔、海の向こうで見た。真似てるだけだ」
言いながら、目は笑っていない。
「太古の昔?なにそれ」
笑いながらアーシャも自然と身体を揺らした。
舞は言葉でないものを伝える。
香と夢が交差するように、彼女の動きもまた空気に溶けていった。
二人の舞が、池の静寂を震わせる。
その時だった。
空気が変わった。
風が止まり、白い湿気が肌にまとわりつく。
ぽつ、ぽつ、と雨が落ちてきた。
数秒後には、頭上からスコールのような激しい雨音が降り注ぎ、あっという間に身体はずぶ濡れになった。
稲妻が走る。
池の水面がざわめく。
ヴィアンが、アーシャの方を見た。
「⋯⋯お前も、俺のことが好きなんじゃないのか?」
唐突だった。
声は熱を帯びていたが、湿っていた。
まるで、どこか遠くからやってきた言葉をそのまま口にしているようだった。
「え? す、好き⋯⋯だけど⋯⋯」
好き――?そう、好きだと思う。
話しやすいし、一緒にいると呼吸が合うし、楽しいし。
けれど、"あの"好きではない。何かが違う。違うのに、うまく言葉にならない。
「やっぱり胸⋯⋯大きいんだな」
アーシャは、はっとして自分の胸元を見た。
濡れた布が肌に張りつき、形をくっきりと浮かび上がらせていた。
「⋯⋯見ないで。忘れて」
声が震えた。けれど、ヴィアンは目を逸らさなかった。
「どうせお前はさ、火の檻の中で生きるだけの、売女に成り下がるんだよ」
声が変わっていた。
言葉が、うねる蛇のようだった。
舌に毒を塗ったような、それでいてどこか熱に浮かされたような声。
「火の巫女? 崇められてるけど、その実態はただ、少し他の奴らより姿形が良くて、運が良かっただけ。高額の金で買われて、祈りのふりをして、身体を差し出す。香の影に隠れてるけど、結局は汗と、精液と、糞尿のにおいにまみれていくんだ。この街の奴ら、みんな知ってる。けど口に出さないだけ。お前の"清らかさ"を笑ってるさ。心の底で。みんな、な?」
その言葉のひとつひとつが、アーシャに絡みついた。胸が苦しくなった。息が詰まる。
「⋯⋯そんなこと、思ってたの?」
「誘惑、したのはお前だ」
「してない!」
彼女は一歩、後ずさる。
しかし、その瞬間だった。
跳ねるように、ヴィアンの手が伸びてきた。
掴まれた。雨に濡れた草の上、バランスを崩して倒れこむ。
彼の手は強く、容赦がなかった。
「やめて⋯⋯!」
「やめてほしいなら、本気で抵抗しろよ。"巫女様"は、気高く口で拒むだけか?」
彼の顔が近い。目が合う。
だがそこには、アーシャの知っているヴィアンはいなかった。
何かが、乗っている――
それは香ではなかった。火でもなかった。
別のものだ。
熱と湿り気が混ざり、何かを狂わせている。
ラサフラメナではありえない力が、そこにあった。
私たちは同い年。
私たちは生っぽい肉が好き。
笑い合った。楽しかった。
なのに⋯⋯なぜ?
霊火は、確かに彼を迎え入れた。
けれど今、私の心と身体は⋯⋯拒んでいる。
池の蓮が雨に打たれて散っていく。
アーシャは、力の抜けていく我が身を感じながら、夢と祈りの都の中心で、叫びそうになった。
パドマ・モエの池の水面は、雨の水しぶきでまたたく間に白く変わっていった。
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