ラサフラメナ 〈6. あなたの匂い、私の匂い〉
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午後のカーサプリアンカ。
金星湯での香浴を終えたアーシャは、長い髪を櫛で丁寧に解きながら自室の鏡の前に座っていた。
そこへ、ふわりと香り立つ金粉のような気配とともに、エルカラが現れる。
「コンコンッ⋯⋯!この前はごめんなさいねぇ。アーシャ、ねえ。初火!もうすぐでしょ? 今日はこの前のお詫びに!特別に私が"顔"を作ってあげる」
「え、でも私⋯⋯」
「いいの!慣れておいた方がいいわ。男の人の目は、慣れてない子をすぐ見抜くから」
アーシャは戸惑いながらも頷いた。
エルカラは既に二年前に初火の儀を終えた、正式なフラメナーラ。
彼女の舞や香はいつも堂々としていて、人気がある。
それに⋯⋯何よりも彼女の身体は美しく、触れたい男はたくさん来た。
エルカラは慣れた手つきで、アーシャのまぶたに金粉を乗せ、口元に鮮やかな紅を引いた。
「ほら、鏡見て」
鏡の中にいたのは、まるで誰かの真似をしているような顔の少女だった。
唇の色が濃く、目元は大人びて見える――けれどそこに、アーシャ自身の香りはなかった。
「似合ってるわよ〜!ミカール様もきっと見惚れるわね。⋯⋯ねえ、アーシャ。あなたって、"わざと純粋に見せてる"みたいなところ、ない?」
アーシャは、何も言わなかった。
エルカラが出て行ったあと、アーシャは一人、鏡の前に戻った。
静かに布を湿らせて、唇を拭い、まぶたをなぞる。彼女が振りまいていった香の中から、自分だけの匂いが戻ってくる。すっと息を吸って、目を閉じた。
「⋯⋯ありがとう、エルカラ。でもこれは、私の顔じゃないの」
窓の外には、夕暮れの霊山が静かに広がっていた。金でも紅でもない、香と祈りの都のアーシャだけの気配、匂いがそこにあった。
*
カーサプリアンカの書斎。
ノアリは筆を止め、深く息を吸う。すでに四通、夢見通達用の報告書を仕上げた。あと三通。言葉尻の再考と香の調整で、頭の中はパンパンだった。
そのとき、書斎の扉がわずかに開き、小さな影が入ってきた。
「⋯⋯ノアリさま、あの、ちょっとだけ⋯⋯!」
ひそめてはいるが、必死さが滲む声。
振り返ると、見習いの幼巫女――ミネルヴァだった。身体はまだ火に祝福されておらず、子どもらしい柔らかさと硬さが残っている。
「いまがっつり報告書仕上げてるの、ミネルヴァ。あとにして」
「でも、でも⋯⋯ほんとに一瞬でいいの。これ⋯⋯区外の駐屯地の人に、渡して欲しくて⋯⋯」
差し出されたのは、ラサフラメナの最高級香包みに似せた、小さな手紙。甘ったるい香りが漏れ出ている。
ノアリはため息をついた。
「⋯⋯また軍人〜? 名前、なんだっけ?」
「ソリル⋯⋯。私、ザフールの留学生に選ばれたの。今年は九人ですって。ずっと希望していたから、嬉しいの。女の子も積極的に行かすんですって、今回はなんと、五人よ。でも、ほんとに、突然で...薔薇月の満月が終わったら、私もすぐ出発しなきゃいけないの」
「あら、おめでとう!そう⋯⋯じゃあ、この手紙はそれを伝えるもの?」
「うん⋯⋯」
ノアリはしばらく沈黙した後、手紙を受け取った。
「条件があるわ」
ミネルヴァはびくりとする。
「封蝋作業、お願いできる?」
「う⋯⋯」
「この机の上にあるやつ全部。間違いなし、型崩れなし!まるで売り物なんです〜!みたいな完璧な姿でよろしく」
ミネルヴァは涙目になりながらも頷いた。
「わかりました!ありがとうございます、ノアリ様⋯⋯!」
ノアリは部屋を後にするミネルヴァを見届けてから、再び机に向き直った。
(しかし、妙だな。ザフール留学生、いきなり、九人も?なんで女優先?)
そう思いながら、彼女は出発する準備に取り掛かった。
おそらく東門付近のアグニア文殿にはセナがいるから、キブティエラ駐屯地までミネルヴァの手紙を届けてもらおう。
その夜、ラサフラメナ寺院特区の外。
東区のキブティエラ軍の駐屯地。
異国の金属の匂いと蜜の香り、真っ黄色な旗が掲げられている門前に、セナの姿があった。
「ソリルっている?」
そう言うと、門番の兵士が一瞬目を泳がせた。
「ソリル⋯⋯? ああ、すぐ呼びます」
しばらくして現れたソリルは、背筋の伸びた真面目そうな若者。頬はうっすら赤く、ところどころデキモノがあり、よそよそしい。
「セナ殿⋯⋯こんばんは。ご用件は⋯⋯?」
セナは懐から、小さな香包みを取り出してふっと笑った。
「ったく⋯⋯青春かよ」
「⋯⋯え?」
「はい、これ。特区の巫女見習いからのお手紙。筒からの香りでただ事じゃないのくらいわかるわ」
ソリルは目を見開き、少しのあいだ固まった。
セナは肩をすくめて笑う。
「安心しな。もちろん中身は見てない。『気づいてほしいけど、悟られたくない。でもわかって⋯⋯』って香。ほんっと、手間かかる恋文だね」
ソリルは真剣な顔で包みを受け取った。
「⋯⋯セナ殿、本当に⋯⋯ありがとうございます」
その言い方があまりにまっすぐだったので、セナは一瞬だけ照れて目を逸らした。
「ったく⋯⋯純粋かよ。こっちが恥ずかしくなるわ。ま、大事にしなよ。香も、気持ちも」
そう言って、セナは踵を返し、フラメナ特区へと帰って行った。
帰り道、アグニア文殿が近づいてくる。
ラサフラメナ特区の東門付近にあるこの文殿は、香と火の文様が塔や壁面に描かれた、ラサフラメナでもとりわけ静かで優美な空間。夜は夜で別の趣があった。
「⋯⋯美しいな」
馬に揺られながら、セナは数年前初めてアグニア文殿を訪れたときの思い出を脳内に漂わせていた。
――数年前のその日、セナは、ふらりとアグニア文殿に現れた。
貧しく育った彼にとって、この場所は少しばかり贅沢な「遊び場」だった。美しい巫女たちを一目見るために、あるいは香の器を眺めるために。生まれながらに特別な"あの人達"を心の中で少しばかり冷やかしに。
彼は堂内に響く法螺の音に足を止めた。
「⋯⋯美しいものを、冷やかしに来たか?」
その声は、空気のように澄んでいた。
誰もいないと思っていた柱の影から、グル・ユラが現れた。中性的な顔立ちと、火にも水にも属さないような声。低く、よく通るが、どこか丸みを帯びていて包み込むような響き。
「すみません。つい⋯⋯いや、でも、悪気はないです」
セナは笑って言った。その笑顔は、霊山の朝の陽のように真っ直ぐで、屈託がなかった。
「その顔で嘘をつくのは、やめた方がいい。あまりに似合っていないから」
グル・ユラは一歩近づいた。
セナは逃げようとしなかった。
むしろ、不思議と目が離せなかった。
「あなたには、独特の⋯⋯香の気配も、匂いもある。風が、ある。言葉の輪郭が、まだ硬いが、深いところに芯があるな」
「なにを言ってるのか、よくわかんないけど⋯⋯あんた、俺に興味あるの?」
「興味ではない。これは、指名だよ。フラメナールの修行に来なさい」
「えっ⋯⋯それって⋯⋯」
「来る気がないなら、それでもいい。気が向いたら来なさい。ただ、その瞳の奥が『まだ遊び足りない』と言っている。⋯⋯君がどうするか考える時間も、きっと良い火種だ」
セナはしばらく黙っていた。
やがて、唇の片方の端だけで笑った。
「⋯⋯ほんとに、俺なんかでいいの?」
グル・ユラは一瞬の沈黙のあと、唇の両端を上げると言った。
「"なんか"でよかった者など、この街にはひとりもいないよ」
―――
「俺は⋯⋯本当に幸運だな」
セナは馬を降りると、特区の東門から住まいへと帰っていった。
*
カーサプリアンカの奥、香が薄く漂う書斎。
夜、灯火は少なく、焚かれた香の白煙が天井近くにたゆたっていた。
ノアリは静かに紙を巻いていた。夢見報告書、全7通。
丁寧な筆跡で書かれたそれを、ジェイドがそっと受け取る。
「眠れているか?」
ジェイドが声をかけると、ノアリはわずかに笑った。
「はい。⋯⋯夢の香りが消える前に、書き留めたくて」
ジェイドは机の向こうに腰を下ろす。香の影が彼の睫毛を揺らした。
「ノアリ。君は、よくやってるよ」
その言葉に、ノアリは一瞬だけ手を止めた。
そして、紙を押さえた指先に力を込めて、呟いた。
「完璧にやって、やっと⋯⋯0点ですから」
ジェイドは黙って彼女を見た。
ノアリは視線を逸らさず、笑ってもいなかった。
「私は、フラメナーラになれませんでした。初火の儀も、拒んでしまった。あの時、死ねたらよかったって思ってましたが⋯⋯。でも、今は⋯⋯違う。ちゃんと居場所があって、間に合うように届けたいって思える夢がある。だから、報告書は⋯⋯完璧じゃないといけないんです」
ジェイドはゆっくりと頷いた。
「君の0点は、誰かの100点よりずっと重くてすごいよ」
灯火の中、香だけが揺れていた。
—ラサフラメナ東部 キブティエラ駐屯地—ーーーーーーーーーーーーーーー
ラサフラメナ霊山都市は軍を持たない。
その非暴力の原則と霊火による選別機能ゆえに、霊的には守られているが、物理的な護衛が必要な場面——特に夢見通達のためにフラメナールたちが外国へ報告を届ける際などには、他国の助力が不可欠となる。
そこで友好関係を築いているのが、蜜と武を国の強みとするキブティエラ皇国である。
彼らはラサフラメナ東部に駐屯地を置き、都市の霊性を乱さぬよう慎重な距離を保ちながら、影の守り手として機能している。
この東の駐屯地周辺は、霊山都市の中でも異文化交流が最も進んだ場所とされ、巫女たちの神聖な儀式の舞台である寺院特別区とは明確に分けられている。
街並みはにぎやかで、夜になれば酒場、娯楽施設なども立ち並び、厳粛な霊性の中心都市の"境界"として独特の熱気を放っている。
キブティエラの軍人の多くはこの地を愛していた。
食事は香草と蜂蜜を使った料理が多く、彼らの味覚にもよく合った。 軍人たちはしばしば寺院に手紙を送り、巫女見習いとひそかに手紙を交わすこともある。
決して都市に干渉することなく、遠くから見守るようなその姿勢は、霊火にも 静かに受け入れられているようだった。
軍と霊、戦と祈り、蜜と香。
絶妙なバランスが保たれたこの東部は、ラサフラメナの"もうひとつの顔"として密やかに都市を支えている。
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