見出し画像

ラサフラメナ〈11. 支度〉 

(←前話に戻る)

ザフールからの長旅を終え、故郷のラサフラメナに帰ってくると、区内がいつもと違って静かだった。

香の流れ方が妙に遅く、夢見の空気が薄い。ザフールからの長い任務を終えたジェイドは、疲れた足を寺院特区へと進めていた。

「⋯⋯ただいま」
誰にともなくつぶやく。
けれど、五惑星パンチャ・グラハ温泉から流れてくる香が、いつもの調律と違うような気がした。深い秋薔薇の香りと、沈香と、少しの鉄の匂いが混ざっていた。

(鼻が、おかしい?俺も流行り病に冒されているのだろうか⋯⋯?)

カーサプリアンカの門が見える。
そこには、幼い巫女たちが二人、立っていた。彼女たちはジェイドを見つけるなり、はっと目を見開いた。

「え⋯⋯!ジェ、ジェイド様⋯⋯!?」
「⋯⋯おかえりなさい⋯⋯あの、あの⋯⋯!」
少女たちは言葉をつかめずに震えていた。手のひらを胸の前で揃え、何度も瞬きをする。

「どうした。なにがあった?」
ジェイドは彼女たちの目線まで腰を下ろして、酷く動揺した小さな肩に手を置く。

「アーシャ様⋯⋯アーシャ様が⋯⋯」

その名を聞いた瞬間、身体の中心がざわついた。

ジェイドはカーサプリアンカの中へと走った。

香の層を裂くように、夢の帳を振り払うように走った。
香と薬草に包まれたその部屋。香炉が倒れ、紅い水が床を濡らしている。

その中心に、白い肌があった。アーシャだった。

膝のあたりから、赤黒いものが静かに広がっていた。誰かがかけた布で腰から下は隠されていたが、目のいいジェイドには何が起きているのかがわかった。

彼女の光は、もう、振動していなかった。

「⋯⋯あの子⋯⋯今日の朝、パンチャグラハの浴場で倒れていたの⋯⋯」
巫女のひとりが、しゃくりあげながら話す。
金星シュクラ湯で⋯⋯血が、たくさん、流れてて⋯⋯」

ジェイドは息を止めた。すぐに思考が崩れた。
痛みでもなく、怒りでもなく、ただ"現実がこの身に入りきらない"という感覚。

目の前の香と火のあいだに、何か大切なものが、二度と届かない場所に行ってしまったという確信だけがあった。



支度は、淡々と進んだ。
ラサフラメナでは、死は"住む世界が変わるだけ"と考えられている。

泣き叫ぶことはなく、むしろ静けさを持って送り出すのが礼儀とされていた。ジェイドはこれまで何人もの遺体を解体してきた。痛みを悲しみに変えるより早く、香と刃と風を用いて、正しく還すことが自分の役目だと心得ていた。

カーサの奥の祈祷室にアーシャの身体を移し、霊草であるサティヴァ・エシュの乾燥葉と、プリアンカ庭園から摘んできたホーリーバジル、アカンサスの葉を胸元に敷いた。部屋いっぱいにパドマ・モエの香を焚き、ここから北西に位置するヴァーユラの丘へ向かう準備を進める。

指先、耳、唇にそれぞれ香油を塗布し、身体の各所に「ここにアーシャの火があった」と記す印を置く。神聖な刃物と布もそろえられた。
ジェイドは巫女たちに軽くうなずき、ひとり布を整えながら、静かに言った。
「この香が終わったら、丘へ出る。君たちはもう外していいよ。アーシャは少し、遠いところへ行くだけだ」
外では、霊火の煙が風を孕みはじめていた。小さな祈祷室にアーシャとジェイド、ふたりきり。
その時、ドア越しに聞こえてきた。

「あーあ、稼ぎ頭が死んじゃった」

―――聴き間違えだろうか。記憶が合っていれば、これはエルカラの声だ。

だが、もうそんなことは、どうでもいい。
行こうアーシャ。安らかなる場所へ。



ヴァーユラの丘。
ラサフラメナ霊山都市の北西、風の通り道。魂を空へ還す鳥葬の地。
ジェイドは、カーサプリアンカの上等な布に包まれたアーシャを両腕に抱えて歩いていた。

もう、温かさはない。

アーシャの身体は、ただの器になりつつあった。それでも、彼女の香がかすかに残っていた。もぎたての橙の果物のような爽やかで甘い、彼女だけの香。

丘の上には既にグル・ユラがいた。
黙って、彼のそばに座った。
「ジェイド。解体は⋯⋯私がやる。君は少し、遠くで⋯⋯」
「⋯⋯いえ。僕がやります」
ジェイドの手は震えていた。
それでも布をほどく。露わになった身体に、刃を入れる前に、彼は深く一礼した。

「アーシャ⋯⋯。ありがとう」

お腹が、ほんのわずかに膨らんでいた。
まさか、と思った。そして、静かに、確信した。
「⋯⋯赤ちゃんが、いたんですね」
グル・ユラが黙って頷く。
言葉はもうなかった。

二人はゆっくりと身体を解体していく。
ハゲタカたちは、完全な人型では近づかない。構造がばらけた"屍"にならなければ、彼らはそれを食べ物とみなさない。香を焚き、祈りを捧げながら、二人は仕事を終えた。すべてを終えたとき、グル・ユラがそっと立ち上がった。
「私は⋯⋯法螺修練場で一服してくる。⋯⋯風が、気持ちいい時間だから」
ジェイドは頷いた。
彼が言葉にできない感情を、師はすべて汲んでいた。

風が頬を撫でた。
少し遠巻きに様子を伺っていたハゲタカたちは勢いよく肉塊に向かってきた。他のハゲタカたちも次々と、音もなく丘に降りてきた。

丘に残されたジェイドは、少しだけ下の斜面に降りた。陽が高く昇るのが見える場所にまで歩いた。
赤く、熱く、静かに昇ってくるその光を見つめながら、彼は心の底から願った。

「どうか⋯⋯次の命では、アーシャが⋯⋯霊火にも祈りにも誰かの夢にも縛られずに。⋯⋯自由で、いられますように。俺のことなんかも、どうか、忘れて⋯⋯」

『深き静寂にて眠れ。そして、星々が導く次なる自由へ』

絞り出すような声で鎮魂のマントラを唱えた。

そのときだった。
地の奥から、低い唸りのような音。

ラサフラメナの霊山――フラメナ山が、
長い眠りから目を覚ましたかのように、赤黒い煙を噴き上げた。

ジェイドはそれを見上げた。

『火は、すべてを知っている』

どこからか聞こえてきた、言葉―――。

ラサフラメナ登場人物、概念、施設等一覧


いいなと思ったら応援しよう!

アイビー茜 頂いたサポートはありがたく頂戴し、今後の占星術の研究や各種創作や勉学に使わせていただきます。いつもありがとうございます。今日も佳き日をお過ごしくださいませ。