トーク・イット・イージー(第1話~第2話)
■ あらすじ
大手ブライダル企業の司会部に所属する赤坂あさひ。ある日、専務に呼ばれ切り出されたことは司会部を独立させ、法人化する提案だった。戸惑いつつも司会部の仲間たちと、新会社の設立を決意する。急遽、設立のために見つけた税理士はなんと元カレの高松慶介だった。会社の設立、事業拡大、大手の逆襲、M&A。個性豊かな仲間たちに支えられ、経営者として成長するあさひ。苦難を乗り越えた先にある会社の運命はいかに。そして、あさひと慶介の恋の行方はいかに。法人設立からのビジネスの流れを追いつつも、友情あり、恋愛ありのお仕事小説。
■ 目次
第1話 会社、はじめます
第2話 お金がない
第3話 勝率10割の女
第4話 彼女の人生
第5話 私の人生
第6話 いい話
第7話 会社、ひろげます
第8話 仕事がない
第9話 つなぐ、つながる
第10話 パートナー(完)
■ 本編
第1話 会社、はじめます
「これよりは、新郎新婦のおふたりとご両家の親御様が皆様をお見送りさせていただきます。お忘れ物なさいませんようご確認の上、扉口へとお進みください。本日はおふたりのご披露宴にお越しいただきまして、誠にありがとうございました」
ブライダルや周辺事業を展開する大手、九蔵園グループで働く赤坂あさひは、司会部に所属している。通常、司会業務は提携先へ外注しているが、様々な要望に対応するため、当グループでは社内にも司会部を設けている。ウエディングから各種イベントの司会、話し方講座や研修講師など活動は多岐にわたるが、少数精鋭で5名の部署。あさひは33歳にして、そのリーダー。司会や管理業務を担っている。
久々に大きな結婚式の司会を終えた日、司会部などを統括する上司の柴崎事業部長から呼出しがあった。特に思い当たる節がない。何もしていないのに、呼ばれるということはきっと良いだ。仕事を終えてハイな気持ちのまま、柴崎事業部長のもとへ行った。
「お、お疲れー。赤坂、今日もいい顔しているね」
「いやぁーもう、めっちゃ感動しましたー」
「本当、仕事人間だなー。自分の結婚式がどんどん先になるぞ」
「まぁ、天職ですから。今日も最高に幸せな気分です!」
「はいはい、よかった。あ、で今、時間あるか?」
「はい、大丈夫です」
「専務が呼んでいるんだ。一緒に専務の部屋へ行くぞ」
「え、専務??」
専務とは、この企業の代表である吉井諭吉の娘、吉井早紀。年齢は40歳前後で、社員にも気さくに交流してくれるお姉さん的存在だ。司会部を発案した当事者で、あさひも頻繁に声をかけてもらっている。呼ばれた理由を探しながら歩いていると、気付けば専務の部屋に着いていた。あさひはボケッとした表情をリセットし、ノックをした。
「失礼します」
「お疲れ様。今日は結構、疲れたでしょ?」
「いや、そんなことないです! とても素敵な式でした!」
「やっぱり、お祝いの仕方も多様化しているけれど、たくさん集まる式っていいわよね。ちょっとこっちきて。座ってくれる?」
専務は相変わらずフレンドリーな対応で、あさひに座るように促し、あさひと柴崎が座ったところで口元をギュッと締めた。
「これから、すごく大事な話をします。いい話か、悪い話かはあなた次第だと思うけれど。私はいい話だと思っています」
「俺もとてもいい話だと思うよ」
「はい」
「あさひさん。最近、フリーランスとか業務委託とか、よく聞くでしょ?」
「はい。同業者も結構、多いのでわかります」
「社内フリーランスってわかる?」
「はい。あれですよね、あのー、普通に社員みたいに働いているけど、報酬は給料じゃなく売上?みたいな」
「そうね。社員のような働き方だけど、雇用関係が無く、仕事の業務委託契約としてお願いする制度です」
「はい。え、もしかして、……それを?」
この業界は、司会やタレント事務所に所属するか、フリーランスで活動している人の方が多い。あさひも、漠然ではあるが、この業界にいる以上、いつか自分もフリーランスになるのではないかという可能性をなんとなく感じていた。しかし、それはあくまで可能性の1つで「今すぐ」という発想は一切ない。話を先読みし、焦りに見えるあさひに柴崎が声をかけた。
「まあまあ、落ち着け。まず専務の話を聞こう」
ナイス。専務は余裕のある表情で、柴崎に対し口角を上げて返した。そして、目線をあさひに戻し、続けた。
「だいたいあさひちゃんが分かってくれているから続けると、その制度をもっと大胆にしたものを提案したいと思っています」
「大胆?」
「あさひさん。会社、作らない?」
「は?」
社内フリーランスをより発展した制度の打診。その内容は司会事業部を会社から切り離し、あさひが代表を務める新会社を設立するというものだった。そして、今後は九蔵園とあさひの新会社が業務委託契約で取引するという提案だ。急にフリーランスの話かと焦っていた中で、全く予想していなかった話。頭の中はノックアウト寸前だが、専務のラッシュは続いた。
「この提案は、親子会社になるというものではありません。グループ化はせず、九蔵園グループとは出資関係がない全く別の会社をあさひさんがつくるというものです」
「はぁ……」
「あさひさんが経営者であり出資者。出資者とは、株主ってことね。だから、九蔵園からの経営上の制約はなく、経営権は100%あなたにあります」
「はい」
「そして、仕事は今まで通り発注します。その流れは社内フリーランスと同じ。業務委託契約を我々と新会社が交わします。今までと違う点は、もう皆さんは当社の社員ではないので、当然、他社の仕事も受注可能です。だからやる気があれば、どんどん仕事を拡大できる」
「そ、そうですね」
「急にいろいろとごめんね。困っちゃうわよね」
「いえ……。あ、いや、少し困っています」
少し、といいつつも本心は頭が全くついていかないほど、困っている。訳の分からない提案に相槌をうつので精いっぱいだった。
「私がなぜこんな打診をしたか。それは、あなたの才能を100%評価するには、今の雇用契約では難しいと思ったからよ」
「いえ、私はそんな専務に褒められるような人間じゃありません」
「私があさひさんの仕事を始めて見たのは、両家の親族だけの結婚式でした。あさひさんがプランナーで新婦のお兄さんが司会を引き受けるはずだった」
「そうですね」
「お兄さんも含め、事前の打ち合わせは問題なく終わっていた。でも、お兄さんは当日、こなかった。来る手段が断たれた。前日の豪雨で土砂災害が起き、お兄さんの地域は大きな影響を受けたためだったわね」
「はい」
「お兄さんに被害はなかったけれど、九蔵園とも同じく県内で起きたことで、テレビをつければ被害の映像。親族の話題もそのことばかり。とてもお祝いの日の朝という雰囲気ではなく、新婦は泣き出してしまい。交通状況の乱れは至る所に影響を及ぼしていて、すぐに外注でお願いできる人も難航しました。そんな時、プランナーだったあさひさんが司会を引き受けた」
「……」
「トラブルになるかもしれないと聞き、私も駆けつけると、そこで行われていた披露宴はとても素敵なものだった。新郎・新婦、参列した全ての関係者にとって、その場、その時は、かけがえのない時間だった。あさひさんの提案で、出席できなくなったお兄さんからの動画もスクリーンで流してね。すべての人が幸せに繋がる式をあさひさんが作り上げた。機転が利きながら、人々に寄り添えるとこ、ちょっと悔しかったくらいよ」
「いえ、そんな」
あの時のことはよく覚えている。新婦はとても仲良しの兄妹で、頼りになるお兄さんは妹の結婚が決まった時から「俺が司会やってやるよ」と意気込んでいたと言っていた。妹の結婚式に来られない事も、司会に穴をあけてしまうことも、自分が参加できないことで会場全体に災害の恐怖を感じさせてしまうことも、申し訳なくて悔しくてつらかっただろう。このままでは、参加するご家族はこの結婚式を思い出すとき「新婦の兄が災害の影響で欠席した」という特別な出来事が一番に出てしまうだろう。それは誰も望まない事。だから、その場、その時が、幸せ溢れるものにし、そんな悲しい特別な出来事よりも幸せな出来事が前に前に思い出せるよう、努めた。
この出来事の後、社内司会部という話が持ち上がった。あさひが専務の話に圧倒されているのを察し、柴崎が間に入った。
「もしかしたら代わりの司会は誰でもできたかもしれない。でも赤坂はただ代わりをしたのではなく、思いも引き継いだ。お兄さんの映像の時なんて、良くも悪くも号泣だったもんな。ま、そういうこともあって、一つの事業部ができたということですよね、専務。そして、今、少しずつメンバーも増えて――」
「そうです。司会部はそんなあさひさんとともに優秀なメンバーが揃っています。この独立には、我々会社側にもメリットがあります。与えられた仕事だけでなく、より自由に皆さんが活躍されることで、より一層スキルを向上できる。そんな皆さんと業務委託を締結することで、九蔵園グループの付加価値が上がる。そう、思っています」
そういえば、自分が司会部として活動するよう提案されたときも、今のように専務からだった。
「ちょっと、ありがたい話ですが。考えさせてください」
「もちろん。あ、あと。これはあくまで私の個人的な提案。強制してもいないし、ずるい言い方すると『専務』として話しているわけでもない。まぁ、そうね。でも、それはズルすぎるか。期待しています」
「……」
最後に、専務が個人的な提案と言ったのは、雇用契約や労務上の問題がチラついたからかもしれない。しかし、あさひにとってその点はどうでもよかった。
以前、同じ部屋で司会部をつくると提案されたときは、悩まずに即答した。私はもともと司会の仕事がしたくて、この業界に入ったからだ。しかし、今回の提案はその時とはまるで状況が違う。その日は部署に戻っても放心状態で、誰と何を会話したのかも覚えていない。我に返った時はすでに真っ暗な家の中だった。
翌日、司会部に所属するあさひ以外の社員も専務から退職し、あさひの会社に所属するプランの説明を受けていた。当初、この話は専務と自分の中での機密事項であり、了承したら私がみんなに説明するものだと思っていた。だから、翌日、一人一人が専務の部屋に呼ばれる展開は、少し拍子抜けだった。司会部のデスクに戻ってくる社員は皆、分かりやすく困惑していた。
司会部はあさひを含めて5人。技術は天下一品だが出世欲は皆無で、あさひをとにかく慕っている矢田琴絵(32歳)。もともとフリーランスで活動していたが、この会社の社員制度に惹かれて転職してきた飯塚千恵(45歳)。小さい子どもを育てているため、今は主に司会業務の裏方として時短勤務をしている大橋亜美(30歳)。元CAだが、飛行機での移動が体質に合わず転職してきたしっかりものの島野美優(25歳)。専務の発案で生まれた司会部は、あさひと矢田がプランナーの仕事から異動となり、その後、飯塚や大橋、島野が中途採用で入社した。年齢も、置かれた状況も違う。
あさひは、皆に専務からの提案を受けて率直な思いを確認しようとした。
「矢田さん。話、……聞いてきた?」
「はい。なんかいきなり言われてもピンとこないですよね?仕事はそのままって、会社別になったら何か変わるの? 別れる必要あるって?」
「ね。私もそう思った。飯塚さんは、どう思います?」
「おそらく専務のことなので、今のままだと正当に評価できないってことは嘘ではないのだと思います。分社化すれば、もっと活躍できるだろうってのもね--」
飯塚は、専務がいう「評価のための提案」というところに納得できるものがあったようだ。しかし、この点に疑問をもつ矢田が質問した。
「でも、飯塚さん。この部署がもっと活躍できるとしたら、独立した新会社を勧めるって矛盾していないですか?」
「そうなんだけど、それが専務っぽいっていうか。社長と違って専務って会社のためにってだけじゃなく、結構、1人1人のためにもって部分があるでしょー。それが経営者としていいのかはわからないけれど――」
専務っぽさ。確かに、専務は他の経営陣とは明らかに違う。そもそも社長をはじめ他の経営陣は名前や顔こそ知っているが、普段から会話するようなことはない。吉井専務は後継ぎ候補ということで役員をしているのは誰もが分かっていることであり、ひときわ若く、また他の経営陣と考え方も違うという事は社員一同なんとなく感じていただろう。島野は、この提案が専務の独断のものなのかも気になっているようだった。
「今回の動きって、専務だけが考えているんですかね? それとも社長とか他の役員の方とかも? そこは飯塚さん、どう思いますか?」
「美優ちゃんの言うように、通常は、こういった話は1人の役員が暴走して決められないわよね。例えば、専務が私たちの評価云々じゃなく、経営上切り離した方がいいってアプローチの仕方で提案をしているんじゃない?本音は別で」
「なるほどー」
飯塚の名探偵ぶりにあさひも感心した。仕事上はいつも「リーダーはあさひちゃんだから」と一歩引き、サポートしてくれる飯塚だが、社内の噂やこういった話に関しては、一歩引かずにグイグイと先導してくれる。すると、今度は飯塚があさひの考えを尋ねてきた。
「あさひちゃんは、どう思っているの?」
「私は今、正直混乱していて。絶対断ろうって思うわけでもないんです。でも、会社を起こすってことも全くイメージできなくて。それにしても飯塚さんの推理、すごいですね」
「まぁ年の功ってやつよ。私はフリーランスでやってきたから個人事業の経験はあるけれど、いきなり会社だもんねー。個人事業は結構、できるわよ。あさひさんならそこは全く心配ないと思う。でも、会社ってねぇ……」
様々なら経験をしてきた飯塚ですらも、会社設立というのは簡単ではないと考えている。その様子をみてますます悩ましく思っていると、矢田が続いた。
「私は今の仕事をみんなと一緒にできるなら、あまり所属する会社って気にならないです。すいません、無責任で」
どんな場所に置かれても私は咲きますよ、というような頼もしさも感じる。矢田は、あさひの決断についていくということだろう。一方で現実主義な島野はまだまだ疑問点が絶えない様子だった。
「本当に、会社つくって今まで通り仕事ってくるんですかね? 会社つくっていざって時に、そんな委託契約しましたっけ? なーんてケース、ドラマとかマンガだとよくある展開だなぁって」
そこはあさひも心配している。仮に起業するとしたら専務に最も確認しなければいけない点だと思う。最後に、ここまでの会話にまだ参加していなかった大橋に気持ちを確認してみた。
「大橋さんはどう思います?」
「私は、職場の環境が変わるのはちょっと怖いなと思っています。今も時短だし、正直大手グループにいるって安心感はあるので……」
大橋には3歳と1歳の子どもがいる。就職時は事務関連の部署から始まり、働きながら、話し方講座の学校に通って資格を取るなどして司会部に異動してきた。そのため、司会だけでなく書類の作成能力なども高くとても部としてはありがたい存在なのだが、出産・育児もあることから、今は休暇明けで時短勤務している状況だった。
「それはそうですね」と言おうと思ったところで先に飯塚が割り込んできた。
「それはそうよ! 下の子、1歳だもんね。私が亜美ちゃんの立場なら、難しいかもー」
飯塚は頼りになるし、ムードメーカーでもある。あさひも大好きではあるが、すこーしめんどくさいところも感じている。飯塚の割り込みに負けじと
、島野がもう一つ不安に思っていることを話した。
「あとはこの話を受けないとなると、この部署の立場が危ういとかってないですかね?なんか嫌がらせとか、他部署に異動とか。あさひさん、専務は受けない場合はって話はしていました?」
「えー、そんな事は聞いていないし、そこまで考えてなかった。けど、そんなことって会社的にあるなのかなぁ。なんとかハラスメントとか――」
5人で話し合ってみたものの、話は平行線だった。困惑しつつも、ひとまずそれぞれの日常業務に戻っていった。
専務の提案から一週間、二週間と経っていった。相変わらず忙しく働いているので、提案のこと自体も忘れかけていた。いや、忘れるように忙しく働いていた、というのが正しい表現かもしれない。
そんなある日、あさひのデスクに島野がやや興奮ぎみにやってきた。
「あさひさん。ちょっと、いいですか?」
「ん? どうした?」
「前に会社を起こすって話、あったじゃないですか。そのことなんですけど」
「あぁー、美優ちゃん。思い出させないでー」
「すいません。実は、私の同期でWEBのシステム関係の部署に所属する友人がいるんですけど。その部署、一部の人たちが独立するらしいです」
「へぇー。やっぱ、独立とかって流行っているのかな」
「私の同期も独立するメンバーに入っていて。絶対内緒だって言われたんですけど、専務からの打診らしいです」
「え?」
「私たちと同じような提案だったみたいです。結構優秀なチームが独立するみたいで、同期も『会社的にいいのかな?』って思ったらしいです。もともと、みんな能力ある人だから、どこにでも転職できるし、独立の壁はそんなに高くなかったみたいですけど」
島野美優の話は、すぐに司会部のみんなで共有した。この話は私たちだけの特別な話ではない。専務が会社の改革をしているのだろう。優秀なチームが独立したということは、社内ではなく社外になることで人材として成長してほしいという専務の言葉も嘘ではないのかもしれない。一気に前向きな推測が飛び交うようになった。
最初に口を開いたのは、ムードメーカーの飯塚だった。
「働き方改革、多様化、ジョブ型、リスキリング……。なんか今回の分社化?も、今の経営トレンドに乗っていこうって感じかもね」
続いて、島野がスマホを取り出し、画面を皆に見せながら、この独立について感じることを話した。
「私、調べてみたんです。結構、部署とか分野、工場ごととかで会社が分かれて独立するケースって昔からあるようです。資本関係を維持しながら子会社になるケースもあれば、今回のように全くの別会社になって仕事上は連携するってケースもあるようで。自分たちが感じているほど、劇的な変化ではないのかもしれませんね」

「ちょっと私のスマホ見てください。親子関係ってパターンは、左の図のように、同じ起業グループの中での異動のようなものってことですよね。今回、専務が提案したものは右側の図だと思います。専務がいうように九蔵園から支配されない分、自分たちがやりたいようにはできるようです」
スマホの事例集を眺めながら、一番慎重派だった大橋がつぶやいた。
「よくある事例なら、業務委託契約さえしっかりしていれば、仕事の面では安心できるかもって気がしてきましたね」
皆で島野が調べてきたサイトを何度かスクロールしながら読んでみた。分かったような、分からないような。なんとも言えない感覚ではあるが、この専務の提案は特殊なものではないのかもしれない。
あさひは、今までは、法人化なんて現実離れしていると思ってイメージすることからも逃げていた。しかし、島野の話を聞きながら急に現実感が強まったことで、この話に対する思いも高まりだした。
一呼吸置いて、今の率直な思いを吐き出した。
「私も起業って言われて最初、すごく動揺しました。自分が会社を起こすなんて無理って。でも、今回は自発的に作るのではなく、専務から提案されたものです。今まで私、会社に裏切られたことってありません。もちろん、専務にも。専務は、私たちならもっとできる、もっと成長できるって考えてくれた。だから、前向きに挑戦してみたいって気持ちがあります」
あさひは自分が興奮してきているのを感じ、再度、一呼吸を置いた。
「でも、これって私1人ではなく、みんなと飛び込む話です。今までリーダーをしてきたけれど、全然リーダーなんて器じゃなかった。司会の能力は琴絵の方が素晴らしいし、経験値なら飯塚さん、気配りなら大橋さん、頭の回転なら島野さん。みんながいたからやってこられた。これからも同じ。社長なんて、もっとそんな器じゃない。だけど。だけど、少し、やってみたいって思い始めています。まとまってなくてごめんなさい」
なんとか思いを吐き出したあさひに対し、矢田は待っていましたという表情をした。
「気持ち、伝わっていますよ。……やってみましょうか!」
飯塚も大きく頷き、賛成した。
「大丈夫。もし仮に失敗したって、たいしたことじゃないわよ。みんなで一緒に社内フリーランスになるようなものでしょ?仲間がいるから余計、心強いじゃない!」
島野も同期が独立した時点で心が決まっていたのか、すぐに賛同した。あさひは「みんな、ありがとう」と感謝を伝えつつ、一人曇った表情をしている大橋に声をかけた。
「ごめん。大橋さんはどんな気持ち? 無理しないで、素直に」
「私も気持ちは賛成です。でも、ちょっと家族と相談させてください」
「そりゃ、そうか」と思っていると、この件はいつものように飯塚が割り込んできた。
「そりゃそうよね。私が亜美ちゃんの立場なら即決できないわー。でも、方向性は決まったわね。なんか、ワクワクしてきた。みんな、ガンバロー!!」
矢田が慌てて飯塚を静止する。
「飯塚さん、掛け声はあさひさんが言いましょうよ!」
その様子を笑いつつ、あさひは専務と正式にこの話しを進めることについて表明した。
「ありがとう、みんな。専務に、もし全員で独立しない場合にはどうなるのか。大橋さんのことを含め、いろいろ確認してみます。そして、起業する意思があること、伝えてきます。みんな、よろしくね!」
専務にこのことを伝えると「待っていました」という反応が返ってきた。そうと決まれば、善は急げ。あさひの心変わりがないうちに……と感じるほど迅速に、総務や経理部より退職手続きや今後の流れについての説明があった。専務との機密事項だと思っていたが、バックオフィス業務をしている方々はこういった内情を知っているようだ。確かに普段から社員の家族構成や月給、学歴や職歴など、あらゆる情報を知っている。島野の同期のように、独立することをベラベラ喋るようなことはなく、会社の秘密をしっかり守る存在。説明をしてくれる総務部長の冷静な表情を観察しながら、適材適所をしみじみ感じていた。
心配していた大橋の件は、大橋の家族が「好きな仕事を好きな人たちと続けた方がいい」と後押ししてくれたということで、合流することになった。家族がいるということは、自分だけで決断することができない。そんなことに気付きつつも、大橋が今回のことを家族に熱意を込めて伝えてくれたと感じ、嬉しかった。
「今後の参考に」と総務部長から渡されたのは会社を設立するためのチェックリストだった。専務から総務部長は少し話を聞いていたようで、総務部長自らがネットで調べ、使えそうなリストを印刷してくれていた。感動して「ありがとうございます」と伝えると、照れ臭そうに顔を下げ、右手を振りながら「いえいえ、大したことじゃないよ」のジェスチャーで返してくれた。登記、届出、口座開設、オフィスの契約……。読み始めてみるものの、普段目にしない言葉が並び、何から始めていいか分からない。表情から察したのか、総務部長は、今のうちから税理士に相談することを薦めてくれた。ただし、九蔵園グループの顧問税理士は大手法人の税理士であり、それよりも小規模で創業に強そうな税理士を探したほうがいいとも提案された。総務部長は、奥さんが不動産経営をしているようで、身近な税理士がいるらしい。例えば、同世代だと何かと話しやすくていいよというアドバイスを受けた。
専務にもこのことを相談してみると、次のような提案があった。
「同じ税理士にすればメリットもあるけれど、顧問料という問題もあるわよね。あとは、今後事業を拡大する中で、色々内情を知っている先生よりも別の先生を選べば自由度が上がるかもだし。何より、あさひさんが相談しやすい先生がいいはず。一度、自分で探してみた方がいいんじゃない」
ということで、税理士の紹介サイトで探すことにした。起業、法人、若手……。税理士って今まで接点が無かったものの、結構いるんだな。検索条件を少しずつ絞っていった。50人のヒットが、30人になり、5人になり、ピンとくる税理士が見つかった。
『33歳、この度独立して1人でやっています。起業した方、私も同じく挑戦します。経営も思いも伴走支援!経理や税務、経営などなんでもご相談ください』
同い年、環境も似ている。ここまでぴったりなら、話が合いそうだ。早速面談してみたいと詳細情報へスクロールし進めてみると、その税理士は見たことがある顔と名前だった。
高松 慶介
ワックスで毛先を遊ばせた髪型が、ピシッと清潔そうに固まっていたが、間違いない。当時はなかった眼鏡を一丁前にかけて賢そうだが、間違いない。それは、大学時代の元カレであった。
慶介との話は、10年前に遡る。大学1年の頃、同じサークルで知り合い、自然と交際に発展した。大学4年間は、いろいろなことをしたが、結局、半分以上は慶介との思い出。大学卒業後、あさひは就職し、慶介は税理士受験を続けるためフリーターとなった。途端に、関係がギクシャクしはじめた。慣れない仕事に奮闘しつつ、社会人としての自覚が少しずつ生まれていたあさひ。試験に向けてできる限り変わらない生活を心がけた慶介。頑張って稼いだお金で学生時代よりも少し大人な旅行に出かけたいあさひ。極力お金を使わず、変わらない生活を心がけた慶介。あれだけ結婚したいと思っていたのに。置かれた環境が違うのは今だけ、と分かっていたけれど。ボタンの掛け違いから、あさひは耐えられなくなり、別れを切り出した。常に負い目を感じていた慶介は、それをのむしか無かった。あさひは、その後、誰とも付き合わなかった。ウエディングの仕事を続けている中で、自分の幸せよりもお客様の幸せを優先してきたし、事実、心は満たされていたからだ。
退職日も、迫っている。気まずさがありつつも、これだけ条件が当てはまる人材もいない。知っているからこそ、何でも相談できるかもしれない。紹介文と顔写真を何度もスクロールし、往復。ページを戻って、検索一覧を眺め、高松慶介をクリックして、往復。
やっぱり、慶介にしよう。慎重に申し込みフォームに個人情報を入力する。なんだか気持ちが落ち着かない。初めて税理士に面談を申し込むことよりも、慶介に面談を申し込みしていることにドキドキしている。氏名や希望日時などの入力をした後、税理士への要望というメッセージ欄があった。カーソルを合わせ、とりあえず「久しぶり。」とうった。続けて「実は起業することになり」とうったところで、deleteキーを長押しした。
メッセージは空欄で、送信した。
第2話 お金がない
税理士との面談はリモートや電話も可能だったが、対面も選んだ。変にリモートや電話だと余計どう接していいか分からない。面談は、高松慶介税理士事務所にて行うことになった。急いでいるので、近い日時の候補を複数提示したが、慶介も開業したてなのか、全て面談可能という回答だった。心の準備は全くできていなかったが、申し込みから3日後に面談となった。
面談当日。事務所はマンションの一室で、部屋番号の横にテプラで作成したようなシールで「高松慶介税理士事務所」と貼られていた。インターホンを押し、戸が開くと慶介は、分かりやすく動揺していた。申込時、赤坂あさひと偽りなく入力しているので、連絡があった時点で「もしや」と思ってはいただろう。それでも、本当に元カノが来てしまった。声をあげるほどではないし、初対面のような反応でもない。元カレを招き入れる顔でもなければ、税理士として待っていたという顔でもない。冷静に迎え入れてくれたものの、そんななんとも形容しがたい複雑な表情をしていた。
中に入ると、近況を聞かれることもなくまず「お客様」としてビジネスの話が始まった。慶介の方は、自己紹介の延長で、少し近況を話してくれた。あさひと別れた後、会計事務所に就職し、働きながらなんとか税理士資格を取得したそうだ。独立したのはやはり最近で、今は一人で事務所をやっている。結婚はしていない。なんとなくさらっと「彼女は?」と聞いてしまったが「そんな余裕はない」と返ってきた。
別れる前後の印象は、資格試験に追われていて余裕もなく、お金もなく、自信なさげな様子だった。久々に見た慶介はお付き合いし始めた頃の輝きを取り戻しているように感じた。それもそうか。慶介も独立したて。自信が無ければ独立なんてできないよね。
つい「慶介」と呼びそうになるが、相手も自分を「お客様」として接してくれている。私も33歳。一丁前に社会人も10年やってきた。なんだかふざけているようで恥ずかしいが、ここは大人として「高松先生」と呼ぶことにした。最初、高松先生と呼んだ時、高松は視線を逸らした。おそらく、高松もあさひを何て呼べばいいか考えていなかったのだろう。あさひの「高松先生」という先制攻撃に、高松は「赤坂さん」と返した。しかし、あろうことかあさひはその瞬間噴き出してしまった。
「お、おい! どうした? 大丈夫か?」
「どうしたじゃないよ。なに、赤坂さんて!」
「え? いや、そっちが高松先生っていうから。ビジネスの話だし、合わせたんだよ」
「私は教えてもらう立場だから先生と呼びます、高松先生。先生は無理せず、あさひでいいよ」
「それもややこしくないか。まぁ、でも。俺としては、あさひでいいなら助かるよ」
最初こそ、完全にビジネスモードだったが、あさひ呼びが解禁になったことで、高松は徐々に口調もくだけてきた。
本題に入ると、いきなり高松はあさひを注意した。口約束で独立することになったこと、フリーランス(個人事業)ではなく部署ごと法人化することについて、もっと慎重に考えたほうがいいということだった。個人事業と法人は思っているよりも全然違う。ましてや、最初から社員が4人いる状況は、非常にリスクがある、と。「社会人になったのはこっちが先だよ」と思いつつも、相手は遅れて社会人になったとはいえ、経営についてはプロだということを思い出し、口をつぐんだ。
会社から独立することについての一般的な説明も受けた。これは前に島野がスマホで教えてくれた説明と同じだったが、加えて、親子関係が残る独立と資本関係が一切無くなる独立の双方メリット・デメリットも教えてくれた。高松としては、専務の言うことが真実であれば、別に親会社と子会社の関係でもいいのではないか。企業が、経営再建のために事業部ごと切り離したいだけではないか?とますます疑念をもちはじめていた。
しかし、あさひには、今まで築いてきた会社や専務との信頼関係がある。たとえプロとはいえ、内部のことを全く知らない人間に一般論を押し付けられても困る。法人を設立する相談で来ているのに、設立に関してネガティブなアドバイスが続く。だんだんと腹が立ち、ついにつぐんだ口を解放してしまった。
「高松先生のいうことはよく分かりました。私ももちろん不安な点は、専務との協議を続けるつもりです。でも、会社を設立することは仲間と共に決めたことです。これからも委託契約で繋がっていく九蔵園グループを信じています。高松先生が心配で、顧問契約は受けられないというなら他の先生に相談しようと思います。面談、ありがとうございました!」
語気を強めて早口で捲し立てるあさひに、高松は頭を抱えた。眉毛を八の字にさせ、わかりやすく「お前のために言ってあげたんだけど」という表情をした。この「お前のために」の顔は付き合っていた頃もよく見た。10年前なら顔に出すだけでなく、言葉でも発していた。しかし、10年経った高松はそれを口に出すと、事態が余計悪化することを学習していた。高松は、眉毛が八の字の表情をもとに戻すため、大きなため息を1つついた。
「少し言い過ぎたよ。まぁ委託契約だって絶対ではない。危険性もあるってことはご理解ください。あさひが良ければ、俺はぜひ顧問税理士になってサポートしたいと思っています」
独立したてで、とにかくお客様を増やしたいからというよりも、このまま見放すと危なっかしいという判断が働いているのだろう。高松の方から顧問契約の提案があった。そして、高松もこれ以上、法人設立前の危険性について話していても、円滑に話が進まないだろうと判断し、設立時や設立以降にやることや流れについての説明にうつった。
「まず、会社を設立するには登記から始まります。会社は『法人』と言います。法人とは読んで字のごとく『法律によって人と同じように権利と義務が認められた存在』という意味です。例えば、人が『オギャーッ』と生まれたら出生届を出すように、会社も生まれるときは法務局へ設立届を出します」
「へぇ! なるほど。分かりやすいね。なんか、こう、分かりやすく説明しようってすごく頑張っている感もある。すごっ!」
「おちょくっているのか?」
「会社も『オギャーッ』ってなったら、ホームキョク……と」
「はぁ。そりゃ、俺だって単純にまず定款作って公証役場で認証してもらって、その後、法務局に行って設立登記して、税務署、都道府県や市町村へ設立届だして、社会保険はー、みたいな専門用語並べた説明もできるよ。ただ、あさひにもよーくわかるように丁寧に話しているんだよ」
「いや、ごめんごめん。本当、助かります。でもさ、いきなり会社なのに出生届とか出てきたから『慶介、そーきたかー』って感心してしまって。高松先生、ありがとうございまーす」
「俺はとにかく分かりやすく伝えるって理念で独立したんだ。人間が生まれることと、法人が生まれることを比較説明して何が悪い?今後もこんな感じだから、いちいち突っ込むなよ」
まだ初回だけど、高松先生の考え方やスタンスを知って、改めて申し込んでよかったなと、あさひは思った。そこから、高松先生流のオリジナリティーある説明が続いた。
「出生届の際に名前を届けるのと同じで、法人も設立の際に名前を決めなきゃいけない。しかも人間の赤ちゃんと違って、法律上の人『法人』は生まれる時からどんな人なのかを先に決めておく。そのトリセツが定款と言います。具体的には法人の目的は何か、役員の構成や取締役会・監査役会などの設置の有無、出資金と出資者、会計期間など基本となる情報を全て定めておくことになります。だから、生まれる前に決めなきゃいけないことが結構ある」
真面目な話なのに、唐突に「トリセツ」なんて懐かしい表現が飛び出したので、一瞬笑いそうになったが、また怒られそうなのでグッと耐えた。
定款の作成や登記に関しては税理士の仕事ではないらしい。急に「この仕事は、俺はできない」と言われて「私がやるの?」と焦ったが、知り合いの司法書士を紹介してくれるとのことだった。「ぜひ専門家にお願いしたい」と伝えると、高松はすぐに電話をしてくれて、後日、高松とともに三者で面談することになった。その後は、労務関係についてはやはり知り合いの社会保険労務士の紹介もできる。創業時は融資を受けておいた方がいいという助言ももらい、その時も金融機関の担当者を紹介してくれるということになった。会社を設立するためには、自分で動くか、専門家のサポートを受けるか。専門家も税理士だけでは分野が限られていて、それぞれ別の専門家が必要である。どの業務がどの専門家か、一度聞いただけでは覚えられなかったが、高松と面談することで、総務部長から渡された設立のチェックリストの項目がどんどん埋まっていった。
それから、何日か各専門家との打ち合わせに同行してもらい、ますます高松を選んでよかったという気持ちになった。10年間の空白があるが、お互いその期間をのぞき込もうとはせず、とにかく今の状況に一生懸命だった。
会社のルールブックともいえる定款は、まず資本金について悩んだ。そもそも今回はあさひが起業し、九蔵園グループは出資しないことまでは決まっていた。会社をつくる時にお金を出すのはあさひだけでいいのか。社員になるみんなにも出してもらうのか。出資をした人の権利や義務はどんなものか。出資者はすなわち株主であり、事業の経営や意思決定に関し介入ができ、会社が好調なら配当金をもらうことも可能。しかし、上場企業の株式のように売買されるような株式ではないので、実質的には出資したら基本は返還されないものと思った方がよいということだった。
社員に司法書士から渡された出資に関する資料を見せながら、説明した。矢田は「あさひさんのためになるなら、出したい」という。飯塚は「私はみなさんの方針に合わせたい」という。大橋と島野は「ちょっと厳しいです」という。高松と司法書士と3人で検討を重ねた結果、それならあさひが100%出資することが良いだろうという結論になった。仲間であっても、これからは経営者と社員。出資する人しない人がいる状況よりも、オーナーはあさひであると明確にした方がよい。業績が良ければ配当よりも賞与で評価することが適当である、と説明を受けた。資本金も1円から会社は作れるが、設立費用やオフィスなどの初期費用もある。当面の資金を予想し、創業融資を受ける事も加味したうえで、あさひが100万円出資することにした。
役員も設立時はひとまずあさひ一人が取締役となることにした。会社の目的は、司法書士が具体例を示してくれて、その中で、司会やイベントの企画など明らかにやろうとしていることや、将来やるかもしれない関連業務も列挙することにした。全くやる予定がないような目的を加えるのはよくないようだが、定款に定めた会社の目的を後で変更したり、追加・削除したりする場合にはまた登記関連の費用がかかるようなので、追加コストがかからないよう配慮した。
司法書士の先生が、作成してきた資料をめくり、重要な部分を指でなぞりながら確認作業をしている。うんうんと頷き、あさひに話しかけた。
「さて。これでだいたい決まりましたね。あとは赤坂さん。会社名、決まりました?」
「あぁー……すみません。そこなんですよねー……」
社名について、あさひが白紙状態であることを察し、高松もアドバイスをする。
「まあ、今回は自発的な起業じゃないからなぁ。今の会社の名前をどっかに活かすとかは?九蔵園、クゾウエン、KUZO……」
司法書士の先生は、再度うんうんと頷きながら高松に続いた。
「業種的にはなんとかプロダクションとか、〇〇企画とか、トーク〇〇とか。いろいろできますよねーー」
実はあさひも、九蔵園をもじる方法や、よくありそうな業界の名前をリサーチして参考にするやり方はすでに試していた。それでも、これから続けていく会社の名前は容易には決められない。
「すみません。あ、明日までに決めてみます!」
全くあてもないのに自分の首を絞める発言をしてしまった。そういえば、ここまでスムーズに決まってきたと思った会社の資本金、役員構成、目的などは専門家の提案に頷きながら決めることができた。一方で、会社名は完全に委ねられている。だから、なかなか決まらない。
夜、久々に実家の母親、赤坂 しのぶに電話をしてみることにした。そういえば、会社を辞めることも、会社を設立することもこのドタバタで話してなかった。
退職すると伝えると、母は「あなたが決めたことだから応援するよ」と優しく返してくれた。そして、起業すると言うと「そんなこと、あなたにできるの? 待って待って!」と急に慌てだした。そこで経緯を話すと「なんだかよく分からないけど、騙されちゃだめよ」と困惑。一応、高松慶介が税理士に合格していて顧問として見てくれているという話をすると「え、復縁したの?あの慶介君でしょ!あら~」と返ってきた。そういえば、母は慶介を大変気に入っていた。「そういうのではない」と言うと「まぁ、知り合いがいてよかったわねー」と寂しそうに返ってきた。久々の電話で、母の喜怒哀楽をコンプリートしてしまった。
電話を切った後、母からLINEのスタンプが届いた。かわいいペンギンのキャラクターがウインクしながら吹き出しに「take it easy」とでていた。母のやさしさに「ありがと。だいすき」と返した。
「テイク・イット・イージー、か」
テイク、イット、イージー。
テイク、イット。
トーク、イット。
--トーク、イット、イージー。
あさひ「トーク・イット・イージー……株式会社」
言葉を組み合わせた深い意味のない文章だが、何度か口に出してみる。
あさひ「株式会社トーク・イット・イージーの赤坂あさひです。株式会社トーク・イート・イージーの……。いいかも! すごく、響きが楽しいかも!!」
母に再度「ありがとう! だいすき!」と返した。
翌日、予定通り司法書士と高松と面談した。司法書士の先生に、会社名は「株式会社トーク・イット・イージー」にしたいと伝えた。
「えっと、それはあのー。直訳すると『簡単に話してください』って意味ですか?」
「Take it easy × talk という化学反応を起こす名前です!」
自信満々に意味がありそうな発言をするあさひに対し、高松は横槍を入れた。
「化学反応、起きているか? なんか、無理やり混ぜてみましたって感じでで、気持ち悪くないか。」
「そう? せっかくの名前。既存の言葉じゃつまらないかなって。口に出すと、楽しい響きでしょ!」
「そうやってキラキラネームが生まれるような気がするなぁ。先生、どう思います?」
「まぁ、高松先生。名前は造語でもね、いいんですから。ご本人がよければ! ただ一応あのー、あとで変えたいって場合はですね、また変更登記費用だったり、各自治体への届出だったり、口座や各種契約の……」
「先生!talk it easyでお願いします」
「あ、はい。えっと、それは会社名がってことですか? それとも、今の変更手続きを簡単に話せってことですかね? えーと……」
そんなこんなで社名も決まり、定款を公証役場で認証してもらった。定款は紙ではなく電子定款というものにしたことで印紙代?というものが減ったようで、安くできたらしい。手続きだけでなく、お得な方法まで。改めて専門家に依頼して良かった。
そして無事「株式会社トーク・イット・イージー」が設立登記され、この世に『オギャーッ』と生まれた。同時に、有給休暇中の九蔵園グループも給与締日をもって、司会事業部全員で退職した。
社名についてはスタッフの反応も最初は「和訳するとどんな意味ですか」だったが、意外にも「ポップな感じでいいですね」と高評価だった。設立登記後、あさひは銀行で口座開設や社会保険労務士と社会保険の手続き、高松は税務署等へ書類を届けるなど、お互い忙しく動いた。

今回の独立は、前職のオフィスを間借りするのでなく、職場も独立している。新しいオフィスは、やや築年数が長いが、その分家賃のわりに広めのところを選んだ。まだ社員は少ないが、司会やイベント関連の仕事なので、働くにはヒトが必要である。無理のない範囲で、最初から手狭ではない環境を選んだ。
新オフィスに入り、あさひはPCを眺めていた。総務部長が渡してくれた設立のチェックリストと、高松が用意してくれた同様のチェックリストを眺めてみる。うん、大丈夫。手続きは一通り、終わっていた。次に、メールボックスを見た。いろいろと順調に進む中で唯一、動き出していないことがある。柴崎事業部長へ送ったメールが返ってきていない。今後の司会業務の打ち合わせや、法人登記したことで正式な業務委託契約の打ち合わせがしたいとメールやLINEを送っている。とりあえず、今受け持っている仕事は、法人として受けているが、当時はまだ仮契約のような状況だったため、色々手続きを終えた今、次の交渉にうつりたいと思っていた。電話もしているが、いずれも折り返しが無い。さすがにちょっと心配になってきた。
様子を見にアポなしで行ってみようかと思っていた矢先、島野が九蔵園グループに関するネット情報を見つけた。
「え、これって……。あさひさん、この記事見てください!」
なんとそれは九蔵園グループが、広告や人材派遣などのサービスを行う最大手、「十文字ホールディングス」に買収されることになり、グループ内の関連企業が吸収合併か?という内容だった。オフィスで荷物を整理していた飯塚と矢田もあさひと島野の様子を見て、駆け寄ってきた。
記事を見ながら、矢田が語気を強める。
「連絡がつかない理由ってこれ?」
矢田の怒りに皆、静まり返った。島野が、このM&Aで委託契約の話も無くなるのではないかと不安がっていると、飯塚が冷静に口を開いた。
「まだそうと決まったわけじゃないわよ。柴崎部長と連絡がつかないだけで、それは会社がゴタゴタしているからかもしれないじゃない。だって、専務。専務とはまだ連絡取り合ってないんだから」
自宅にいる大橋も記事を見たようで、慌てて電話がかかってきた。みんなが混乱している中、あさひが立ち上がり、簡単に身支度を整えて話した。
「ひとまず、私が行ってきます。飯塚さんが言うように、私たちの仕事に関係があるかはまだ分からないので」
九蔵園に着くと、見覚えのない顔の人が多く集まっていて、何度も通った職場なのに別の会社にいるような感覚に陥った。柴崎事業部長は、やはり出社していなかった。報道があったためか、なかなか受付も応じてもらえず、ようやく専務への取次ぎをお願いできた。受付は「望みが薄いだろう」という表情で対応していたが、意外にも専務はあさひを部屋に呼ぶように指示した。
部屋に入ると、いつもキラキラしていた専務が明らかに疲れていた。
「あさひさんが聞きたい事、言いたい事は分かります」
「あの、専務は。専務は嘘をついていたのですか?」
「嘘。いいえ、私は嘘をついていません。ただ--」
「ただ?」
「力不足でした。会社が危機になり、ここ数年銀行への対応に必死でした。あれを削る、これを見直す。銀行は決して悪くない。お金を借りて事業が成り立っていて、そして返済をするのは我々の義務。銀行も当社の回復、成長を願ってのことだった。でも、再建には当社の理念とはズレる行動も必要だった」
初めて聞く話に、頭の中を整理することでいっぱいとなり、なかなか相槌も打てなかった。その様子をみて、専務がゆっくりと話を続けた。
「司会事業部もそう。私にとって宝のような存在。会社にとってもね。でも、再建計画の中では社内に置く必要が無く、外注で競争し合えば効率化できる部署の1つに挙げられていた。『経営のスリム化』という綺麗な表現でも、それは残酷なリストラやその場しのぎのための資産の売却。表向きは司会部を解体しスリム化の行動に私も賛同する姿勢を見せつつ、今後もあさひさんや司会部の皆さんに活躍してもらえる方法を企てていた。それが真相です」
「どっちみち、リストラされるかもしれなかったってことですか」
「でも、私が甘すぎました。もう、様々な行動を起こしても、この会社は自力で再建することが困難な所まで来てしまっていた。数年前から十文字グループからのM&Aの話もずっと行われていて、なんとか、最後の悪あがきをやってきたけれど。私も専務というのは名前だけで、九蔵園の中で発言権などなかった。買収後もたとえ役員という肩書が残ったとしても、経営には携われないでしょう」
「……専務」
「そして、業務委託の件も無くなります。私は強く主張しましたが、新たな企業グループにはグループ内にタレントや司会の派遣会社があります。既に協力先となっている委託先も多数あります。九蔵園だけ特例扱いすることはなく、グループ全体でその協力団体へ依頼するとのことです。本当にごめんなさい。リストラでもあり、会社まで作らせて、最悪よね」
怒るべきかどうかすら分からない。専務が「賠償でも、弁護士でも」と続けているが、その後の話は耳に入らず、仕事がないという現実だけが重くのしかかってきた。今、仮で受けている仕事が終われば、九蔵園との仕事は終わり。
柴崎事業部長はこのM&A騒動の前に、会社へ不満を持ち一方的に退職していたようだ。専務からの話は、社員や高松にも伝えた。まだ始めたばかりの会社。なかったことにして、すぐにやめるという選択肢もある状況だが、ひとまず今は残っている仕事がある。全て、お祝い事の仕事だ。目の前の仕事を、まずはみんなで一生懸命やることにした。
不安を顔に出さないよう、スイッチを入れてなんとか皆でやり終えた。九蔵園を利用する新郎・新婦、親族も、今回の報道を知っている。不安もあるだろうし、縁起が悪いと思っているかもしれない。しかし、一生に一度の場であり、時だ。そんな会社のゴタゴタは一切感じさせない幸せだけは溢れる場を皆でプロデュースした。報酬は後日、株式会社トーク・イット・イージーの口座に売上として振り込まれた。
資本金と少額の売上金。設立にかかった費用や初期投資、家賃などの固定費を負担できるのか。あさひは、今後の支払いについて計算してみた。とりあえずこの支払いが来て、あれはもう払ったでしょ、カードの支払いはまだ先で、あとは、あとは、
「あ、給料!!」
あさひの叫び声に近い独り言に、隣にいた矢田は猫のような身軽さで飛び上がった。
「うわ! びっくりしたー。急にでかい声出さないでください!」
そうだ、給料。もうすぐ初めての支払日。会社にするって決断したのは、自分だ。社員に申し訳ない。仮に自分への報酬は払わなくても、それでも4人の給与を合算すれば大きい。もう、会社、無理じゃん。
ますます落ち込んでいると、高松から電話があった。内容は銀行の担当者があさひに何度も電話したが出ないので、ひとまず高松へ連絡したということだった。
「困っていたぞー。そりゃー大変だと思うけど、大事な話だからしっかり出ろよ、あさひ社長」
「社長なんかじゃないよ」
「起業したんだから社長は社長だよ。創業融資の件、無事実行されましたってよ。大ピンチだけど、ひとまず3か月分は資金がある。これからどうするか、落ち着いて考えよう」
法人設立後、高松とともに創業融資の面談や手続きを進めていた。当初は、お金を借りることに抵抗があったし、九蔵園と業務委託なら焦って借りなくてもよいだろう。僅かながらの貯金や退職金もある。そう思っていたが、創業時に融資を受けると、利率が優遇されていたり、自治体からの助成があったりするらしい。国も、地方自治体も、創業を応援しているのだ。また、今後いざ借りたいという時に「借りた実績がある」ということは信頼に繋がるとも教えてもらった。「この時点で融資を受けることは、いいことづくしだ」と言われ、その高松の熱量に押されて進めていったものだった。
ピンチである。大ピンチだが、給与は辛うじて支払えることになった。
しかし、これからどうしよう。
