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みかんをつくれていた畑はすくなくともそれに見合うだけの価値があるということ


はじめに


 農業をやっていたころはそんなことは気にも留めず、たんたんとやるべきことをやって、めぐみとして生産できた作物を販売、自家消費していた。それがごくふつうだと顧みる機会すらなかった。

今冬になりことしもみかんを…と思ったが、そうか買わないと口に入らないわけかと確実に立場が変ったと実感をもつ。意外とそんなもので、その違いの大きさに遅ればせながら気づいた。

きょうはそんな話。

豊富だった


 わたしが知る限り祖父、父、わたしとすくなくとも3代にわたり野菜や果実を栽培してきた。父が動けなくなる前から、そろそろわたしもと動きはじめてしばらくは、柑橘つまりみかんの類を販売、自家消費してきた。秋以降収穫、販売、消費とつづく。家にはいつも冬のあいだは、販売を待ついくつもの柑橘の入ったコンテナがあるのがふつうだった。野菜の収穫の少ない日には、これらのコンテナから袋詰めして値札シールとブランドシールをつけて販売。

これだけあるとその存在についてあれこれ考えることはしないもの。あまりに身近だとそうなってしまうものなのか。

異変


 あれだけふんだんに実りを与えてくれた各種の柑橘はなぞの変化であっという間に立てつづけに枯れてしまった。どうやらうちの畑だけではないらしい。お隣の方のみかんの木もいづれもおかしい。そのあいだ(ちょうど昨今の流行り病がきっかけ)にわたしは農業をやめて賃貸ぐらしに。

しばらくは、そこから出かけていって、畑に細々と残る元気のなくなった余命幾ばくもないと見受けられるみかんの世話をしたが、もはやどれも助からなかった。異変に気づいて前年に挿し芽で庭のカラタチに継いだレモンは急速に大きくなり5年ほど実をつけたが、同様に突然枯れた。いずれも根が急に水を捉えられなくなってしまい、立ち枯れの状態で枯れていく。地下の水脈が変化しているのだろうか。いかにも突然。あまりにおかしい。

枯れつづけて


 もはやもとの畑でみかんの実りを全く見る機会はなく、今はもとの家の庭に1本だけバレンシアオレンジが残るのみ。この木がようやく本年に実をつけはじめ、様子見している。ところがどうも葉先がすこしずつおかしな兆候を示しはじめた。どうやらこの木もすでにこれまでのなかまたちと同様かもしれない。もはやあきらめの境地。

みかんの適地のはずなのに、どうもおかしい。これが全国に蔓延しなければいいのだが。みかんを作れなくなってしまうのはいかにも惜しい。農業を離れて遅ればせながらそう思う。このクニの適地で柑橘がつくれなくなるのは悲しい。

転居


 その集落を離れ、街なかの賃貸に移り住んで3年近くになる。もとの集落には老いた両親のようすを観に立ち寄る。定期的な支援サービスを受けられるおかげでずいぶん助かっている。もはやここでは両親ともに最高齢。顔なじみのご近所さんたちととともに慣れた場所での暮らしを両親は望んでいる。

若い時期に一時離れたとはいえ、父にとっては生家で、父自身が以前に手を入れて住みやすく暮らしている。いまさら病院通いが楽になるとはいえ、わたしの住む街なかでの生活が合わないのは明白。

おわりに


 みかんを店で選びながら思う。作っていた頃、そして販売していてもその価格で買っている方の思いまでは至らなかった。ようやくその立場になり、みかん畑を自らで持てて、そこであたりまえのように収穫を得ていたのことの価値に気づかされた。


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