ヘブライ人は「宇宙の理」をいかにして人々に伝えようとしたか|原始神道の源流たる覚者たちのビジョン|令和の竹取物語#9
前回に引き続き、ヤハウェの正体についての私の持論を述べていきます。前回の記事はこちら。
ヤハウェとは、モーセの宇宙観に根ざした抽象概念であり、その宇宙観はフラクタルです。中心が在り、その周りも周辺ではなく中心の一部。一部を拡大していくと再び中心が現れ、この再帰構造が無限に連なる自己相似性を持っています。

「シェルピンスキーの三角形」
「神」という存在を仮定した時「その神の存在を外側から観測している何者か」の存在を同時に仮定したことになります。その「何者か」も同じ「神」であり、これが無限に続く。
モーセはこのフラクタル構造を、理屈を超える心的ビジョンとして直観していたはずです。その痕跡が出エジプト記に残されています。
出エジプト記3章13〜14節
モーセは神に尋ねた。
「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
(英語版)
God said to Moses, “I AM WHO I AM.” He said further, “Thus you shall say to the Israelites, ‘I AM has sent me to you.’”
日本語版聖書より、関係代名詞(WHO)のある英語版の方が「神の名の自己相似性」がわかりやすいですね。I AM.(わたしはある)という存在を規定する何者かもまたI AM.であり、これが無限に続きます。原典であるヘブライ語聖書でも同様。
ヘブライ語
אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה(エヘイェ・アシェル・エヘイェ)
↓英訳
I AM WHO I AM.
אֲשֶׁר(アシェル)がヘブライ語の関係代名詞です。
宇宙の自己相似性を言葉で表すとしたら、自ずとאֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה= I AM WHO I AM.といった再帰的表現になります。
ワンネス意識と無限の母なる宇宙
万物を貫くマアトは、今の言葉でいうワンネス意識に通じるものがあります。人間には知覚することのできない道を通じ、時間や空間を超えてひとつに繋がっている全宇宙そのもの。
モーセをはじめとするヘブライ人の賢者たちは、ただ理屈をこね回して神の名を思案していたのではなく、明確な使命感を持っていたはずです。
彼らはカナン人の偶像神崇拝が生贄の儀式を生んだこと、エジプト人の信仰がピラミッド型の搾取構造を生んだことを、自らの苦難の経験として知っていました。モーセはこの人類普遍の「神の信仰問題」をどう解決したら良いだろうかと悩み抜いた結果、ワンネス意識に目覚めたと思われます。
人類の問題の多くは基本的に有限意識から生じます。「名」という有限の輪郭を与えられた偶像神を信仰すること。土地や資源などを有限のものとして奪い合うこと。自国民と敵国民との間に境界線を引き、その境界のこちら側か向こう側かで憎み合い、殺し合うこと。
ワンネス意識の目覚めは、換言すれば宇宙の無限性に目覚めることです。すなわちモーセが自分に課した使命は、まず自分と同じ苦難を知るイスラエルの民たちに、無限意識=ワンネス意識への目覚めを即すことでした。
こうして生みだされたのが、無限の全宇宙を表すユダヤの根本概念、אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה= I AM WHO I AM.です。これは人が神という存在をいかに認識するかの哲理が言葉で表されたものであって信仰の対象ではないことに留意してください。
しかし、あまりに難解であるため、紀元前のイスラエルの民の中で、これを理解できる人の数は極めて少数だったと思われます。
「神に名を聞いたら『わたしはある』と言われた」
これを聞かされたほとんどの人の反応は「はあ?」ですよね。理解するどころか、何についての話をしているのかもわからなかったはずです。
イスラエルの民の中には、モーセの言う無限性がうまく伝わらないまま「中途半端に理解してしまった」がために、これを「理解できる神の名」「呼べる神の名」に落とし込む人がいたと考えられます。こちらはのちに有限の名を与えられることになる信仰対象としてのユダヤの神です。
一見、モーセと同じものを指しているように見えて、本質がまったく違います。その「呼べる神の名」がYHVH(ヤハウェ)です。YHVHがいかにして生まれたかについて次に述べます。
テトラグラマトン
古代において、母音は命の息吹を象徴し、子音はその命が物質世界に宿る肉体を象徴すると考えられていました。これは母音が吐息だけで発音できる(制限がない/無限性)のに対し、子音はその母音の発声過程で口や舌を閉じる必要がある(物理的に制限する/有限性)という差異に由来します。この物理から、すべての子音に命を吹き込む、形のない母音の集合体が神の名であるという解釈が生まれました。
ヘブライ語の文字は子音だけで構成され、母音を表す文字はありません。そのため特定の子音を母音の代わりとしても使います。これを準母音(マトレス・レクティオニス)と言います。その役割を担うのは、ヘブライ語の次の三文字です。
י (Yod):母音イ(i)やエ(e)を示す
ו (Vav):母音ウ(u)やオ(o)を示す
ה (He):母音ア(a)やエ(e)を示す
母音を全て発音するとiaoue(イアオウエ)。この発音を、上の三文字を組み合わせてヘブライ語で表記すると、יהוה(Yod+He+Vav+He)となります。
英語表記ではYHVH。
これがテトラグラマトン(聖四文字)と呼ばれるYHVHの起源。時代が下ると、この聖四文字を半ば強引に発声した「ヤハウェ」が神の名である、という認識が定着していったと考えられます。
「名」が与えられた時点で有限となり、これはバアル信仰と同じようにやがて偶像崇拝の対象となって迷信化する可能性が高いです。その事に気付いている人は「ヤハウェ」とは呼ばず、どうしても発音しなければならない時のために別の呼び名を考えました。それがAdonaiです。
aは我、donは主。Adonで「我が主」という意味です。このままでは上記の通り、「Adonの存在を外側から観測している何者か」の存在を同時に仮定したことになり、有限です。そこで「Adonを観測している何者か」もまたAdonであると明示する目的で、Adonを複数形にして“Adonai”としました。YHVHと書いてアドナイと呼ぶことで、理屈として有限化(偶像神化)を回避しようとしたんですね。
Elohimという神の名についてもadonaiと全く同じ論理で、ヘブライ語で神を意味する単数名詞Eloah(エロアフ)に、複数形語尾「~イム (im)」がついてElohim。実に単純明快ですね。
ユダヤの陰陽
一旦ここまでの話を整理します。
モーセがイスラエルの民に伝えたかったことは無限意識(ワンネス)と宇宙の自己相似性(フラクタル)の理。モーセは神を信仰したのではなく、直接的に宇宙と繋がってその理を悟った。内的な気付きでしか知り得ないこの理は、その難解さ故に、理解できる人間は極一部に限られます。
モーセの悟りは、それが人々の間で言葉として伝えられる間に少しずつ情報が変質・劣化し、有限意識に染められていきました。こうして「名」を与えられた神(YHVH/Adonai/Elohim)として具現化され、それがイスラエルにおける信仰対象としての神となっていきました。
モーセの真意である無限意識が広まればより良い世界になるというのは真実ですが、これを理解しきれなかった大多数の人々によって、ヤハウェ信仰を広めればより良い世界になるという、芯を外れた考えが先行した形。これが一般的に知られているユダヤ教です。
これは仏教でいうところの密教と顕教の関係性に似ています。仏教とユダヤ教の間に直接の接点はありませんが、宇宙の真理が人間によって広められる過程はどちらも同じなので、必然、似通ったものになります。どこの国で誰がやっても結局は似た道を辿る。いわば霊性の収斂進化ですね。
覚者たちは、宗教として言葉で布教され広まっていくものは真実の教えではなく、それゆえ宗教が災いの種になり得ることを理解していました。これは、人類全体が霊的進化を遂げるための通過儀礼としての災いと言えます。
預言者イエスもその理を解していたことが、マタイによる福音書の記述から伺えます。
狭い門から入りなさい。
滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。
そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』
特に次の一節は直球です。それゆえにもっとも難解。
わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
権力が定める戒律や法律という制限によって生み出される平和は、霊的進化が停滞することを意味します。人々は「強制されるルール」がなければ平気で人道に反する行いをする。ルールから逸脱さえしなければ何をやっても良いと思い込む。これは霊的進化の結果生まれる真の調和の世界ではなく、物質世界しか見えていない人々によって作られる偽りの調和の世界です。真の調和とは、誰からも強制されることなく実現する和。
それには結局のところ自ら悟るしかないのですが、光あるところに必ず闇があるように、その悟りを説く事は、同時に宗教という闇の部分をも生むことになります。これは避けては通れない道です。
イエスの教えがやがてキリスト教となり、それが災いの元凶になり得ることをイエスは予見し、しかしその災いを避けていては人類の霊的進化も起こらない逆説的な真理をも見抜いていました。それが「私は平和ではなく剣をもたらすために来た」という、聖者とされる人物の発言とは思えない言葉の真意であると考えられます。
日月神示にも同様の趣旨と思われる記述があります。
岩戸開く役と岩戸閉める役とあるぞ。一旦世界は言うに言われんことが出来るぞ。シッカリ身魂磨いておいてくれよ。
(中略)
臣民の心の鏡、凹んでいるから、善きこと悪く映り、悪きこと善く映るぞ。
この逆説的な現実世界の真理を悟っていたのは「わたしは災いだ」の言葉を残した預言者イザヤも同じでした。心優しいイザヤにとって、イスラエルの神が世界に災いをもたらす事は、霊的進化のため必要な通過儀礼ではあるが、同時に耐え難いほどの苦しみでもあったようです。
#7で、イザヤ書の一節を目にした瞬間にイザヤの苦悩のビジョンが私の内側から沸き起こった話を書きました。それは私の奥底の魂が、約三千年の時を超えてイザヤの苦しみに共鳴して起きた現象のような気がします。
宗教として布教されるユダヤ教を仮に陽のユダヤだとすれば、自ら悟る事でしか知り得ない宇宙の真理を説くのは陰のユダヤです。
陽のユダヤは「ユダヤ教徒はこうであれ」と戒律を定めるのに対し、陰のユダヤは、一読しただけでは何のことだか意味がわからない象徴性を聖書や伝承の中に散りばめ、内発的な気付きを即しました。この陰陽を合わせて「ユダヤ」なのです。
陽の象徴は定規。ルール(戒律)を定め、仮の調和を生むもの。陰の象徴は円規。真の調和を生むもの。
後世にフリーメイソンの象徴にもなったルーラーとコンパス。この象徴はフリーメイソンがオリジンではなく、紀元前からすでに存在していました。

今回はここまで。次回はルーラーとコンパスの象徴性やイザヤの教えが東に伝播し、古代中国の思想に取り込まれた論拠と、さらにそれが日本の原始神道にどのように影響を与えたかについて述べたいと思います。
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