超越し律動する間身体性(後編)・・・「わたし」という現象をめぐる考察ノート⑦
前回の投稿では、クリステヴァのコーラ概念を紐解き、その間身体性について検討した。本論ではその後編として、レヴィナスの他者論を参照しつつ、引き続き間身体性の様相について論考する。
4.コーラと「他者」
前章で「間身体性のひとつの様相」として私たちが到達したものは「他者」であった。レヴィナスが描く「他者」との出会いは、常に予測不可能な超越として現れる。それは私たちの認識枠組みを突き破り、既存の意味体系を揺るがす。一方、クリステヴァのコーラは、意味生成以前の母胎的な融合性として現れる。
しかし興味深いことに、両者は異なるアプローチでありながらも、これらは共通の地点を指し示している。レヴィナスの「他者」が既存の意味体系を超えるものとして現れるように、コーラもまた、確定された意味に回収されない流動性を持つ。「他者」との出会いが私たちの応答を要請するように、コーラもまた、絶えず新たな意味生成への動きを促す。間身体性の構造をより深く理解するためには、これら二つの概念の二重性、もっと言えば可逆的な関係性について検討する必要がある。
まず、コーラと他者性の基本的な性質の違いを整理しよう。コーラは意味生成以前の母胎的な融合性として特徴づけられる。それは循環的・律動的な時間性を持ち、境界の明確でない包含的な空間性を示す。一方、他者性はレヴィナスが指摘するように、あらゆる全体化や概念化を拒む超越性として現れる。それは外部から到来する隔時的な時間性を持ち、徹底的な外在性によって特徴づけられる。
しかし、これらの相違にもかかわらず、両者は間身体性の構造において密接に関連しているように思われる。
第一に、これらはともに、サンボリク…体系的な意味体系…への回収不可能性という特質を共有している。ここまで見てきたとおり、コーラは「いかなる定立も同一性も記号も予見することのない配置」(同P81)として定義される。一方、「他者」はあらゆる全体化や概念化を超えた「無限」として現れる。両者はともに、体系化される以前の、あるいは体系化を拒む次元を指し示している。
第二に、主体論の視座に立ったとき、クリステヴァとレヴィナスはともに「根源的な受動性」をその条件としている。コーラにおける母胎的な受容性は、「主体」の能動的な構成に先立つ受動的な場を形成する。「主体は意味作用のなかにはない、むしろその故にこそ意味作用がある」(同P41)のだ。これは、レヴィナスが描く「他者への無限の責任」における根源的な受動性と響き合う。レヴィナスにとって「主体性」とは「他者」への応答責任だった。あるいは「倫理」とは応答責任と可傷性によって成立する実践感覚、いいかえれば意味であった。この応答責任と可傷性は主体の選択に先立つものであり、この点でコーラの受動的性質と深い親和性を示す。
そして第三に、決して直線的にとらえられることの無い時間性を持つという点でも興味深い関係性が見出される。コーラの律動的で循環的な時間性。レヴィナスが「隔時性」として描く、非連続的に断絶された時間性。これらは、決定的に異なりつつ、ともに非線形な時間性であり、また「現在」という時間軸に統合することができない性質の時間である。しかしこのことこそが、相補的に意味生成の可能性を開いていく。
コーラと他者性は、間身体性という布を織りなす二本の糸なのだ。メルロ=ポンティは次のように言った。
「われわれは未決定なものを一つの積極的な現象として認めなければならない。この雰囲気のなかでこそ性質というものも現れてくるのであって、性質の包蔵している意味というものは、或る曖昧な意味であり、ここで問題になるものは、論理的な意味より以前の、それが表現として価値をもつに至るか否かの問題なのである」
コーラ的な律動性と循環性は、身体的な共鳴や情動的な交流の基盤となり、サンボリクな安定とセミオティックな侵犯の時間を生み出す。そして隔時性は、予測不可能な無限の応答責任のなかで、いまだ指示されていない<意味の可能性>に対する「真摯さ」へと身体を導いていく。この間身体性の二重構造によって、身体はそれぞれの相互作用において、構造の再生産あるいは創造的更新を可能としている。
具体的な相互作用の場面では、この二重構造は以下のように作用する。例えばジャズの即興演奏において演奏者たちは、コーラ的な共鳴を基盤のなかでセミオティックに揺れ動き、演奏者相互の他者性によってもたらされる予測不可能性に飛び込んでいく。あるいはサッカーのプレイヤーたちは、敵味方のプレイヤーやボールの位置やベクトルを、循環的で律動的な時間と抱合的で融合的な空間のなかで知覚し、「真摯さ」として次なる運動へからだを動かしていく。この可逆性によって、演奏は単なる既存パターンの再現を超えた創造性を帯びたものとなる。
また、臨床的な場面においても同様の構造が認められる。カウンセラーとクライアントの関係は、コーラ的な共感的理解を基盤としながら、同時に他者性…<意味の可能性>に対する「真摯さ」…による絶えざる物語再編の可能性に開かれている。この二重構造によって、カウンセリングは深い理解と創造的な変容の両方を可能にする。
このカウンセリングにおける二重構造こそが、「わたし」という現象が再生産的であり、同時に流動的であることを端的に示すものだ。身体が「わたし」という意味付け、すなわちナラティヴセルフを構成する過程において、これら二つの異なる時間性は、それぞれ不可欠な機能を果たしている。
身体の共鳴や情動的交流、意味の生成過程。それらへの感受性、あるいは予測不可能性に対する真摯さ。これはコーラと隔時性という二つの時間が提供するものだ。この二つの非線形的な時間が可逆的に機能していることが、それがセミオティックであるかどうかにかかわらず、相互作用における意味の生成の基盤と根源となっているのだ。
言語以前の体験の重要性は、まさにこの文脈で理解される必要がある。自己概念がサンボリクに完全に回収されることは決してない。それは常に、コーラの前言語的な母胎性と、レヴィナス的な言語を超える他者性という二重の超過によって特徴づけられている。振り子が揺り動くようにやむことの無いその揺らぎ、あるいは渦潮のように流動するその流れ。それに名前を付け、意味づけることこそがナラティヴセルフを語ることであり、同時に更新し続けることなのだ。
コーラと「他者」はその基盤に他ならない。コーラの次元で共鳴や模倣、情動的な共振といった前反省的な身体的共有性を。「他者」の次元で他者の異質性との出会いがもたらす身体的な応答責任を。
そこで物語るということは、身体的な共鳴と「他者」への応答という二重の動きを内包することになる。声のトーン、ジェスチャー、表情などの身体的要素が、意味生成の重要な契機として機能し、語りの受容と応答の循環が、コーラ的包含性とレヴィナス的外部性の交差点として作動する。
ナラティヴセルフは、このような間身体的な相互作用の場において初めて意味を獲得するのだ。これは固定的な構造ではなく、間身体性において絶えず更新される動的なプロセスである。身体的な共鳴と他者性という二重の契機により、ナラティヴセルフの可塑性と一貫性が同時に担保される。
現代のリキッドモダニティに適応しつつ、「わたし」であり続けるために。語る身体としても、それを受容する身体としても、このような「他者」とコーラのあり方を認識し、それを「わたし」の生成と更新の力とすること。私たちには、そのような認識が求められているのではないだろうか。
5.二重構造な間身体性
前項で見てきたようなコーラと「他者」の交差は、単なる偶然の一致ではない。それは人間の経験における前意味的次元と絶対的外部性が、密接に結びついていることを示唆している。それはむしろ間身体性の本質であり、同時に可逆的な運動なのだ。
ひとつは、受動と能動の可逆性である。「他者」からの呼びかけに対する根源的な受動性と、その応答に際して構造をすりぬけて意味を生成する能動性。受動性ゆえに「誰かのために」という感受性において「主体」たり得ること。あるいは意味の母胎のなかでいまだ名付けられていない「なにか」と、律動的な流動性としてサンボリクとセミオティックにより浮かび上がる<意味>。これらは決して分離できないものとして、相互に浸透している。
ふたつめは、非対称性と相互性の可逆性である。レヴィナスの観点に従うのであれば、「他者」と身体は常に非対称的な関係をもつが、相互作用においては「他者」の「痕跡」を通して結果的に相互性を持つことをすでに見てきた。コーラの次元における身体の共鳴は、そのような場面における「倫理」すなわち実践感覚である。本質的な非対称性を持つからこそ、逆説的に相互性を持つのだ。これもまた完全な相互性に還元することは決してできないだろう。
みっつめは、再生産と創発の可逆性である。それは、身体的な志向性の相互交差による新たな意味の発生であり、コーラ的な受容性と「他者」への応答が交差する場としての運動である。身体的に共有される、いまだ未分化な意味への応答の「真摯さ」。そこでは、習慣化と創発が弁証法的に展開される。
このような視座から、ブルデューのハビトゥス概念を再解釈することも可能であろう。ハビトゥスを「構造化された構造」としてのみではなく、これらの可逆的な間身体性との絶えざる交渉の場として捉え直すことで、その可塑性と流動性をより適切に理解できるのではないか。身体は確かに社会的に構造化されている。しかし社会とは、結果として連鎖した応答責任であった。同時に、コーラ的な前意味的次元と、超越する「他者」という二重の「外部」に開かれていることで、常に変容の可能性を保持している。
サンボリクとしてのハビトゥスは、超越し律動する間身体性に開かれ、同時に根差している。間身体性としての「他者」とコーラは、ハビトゥスの基盤なのだ。構造や「倫理」がそれぞれの在り処に根差して成立していることが示すように、ハビトゥスもまたこれらに根差し、そのことによって再生産と変容の可能性を保つ。構造化する構造としてのハビトゥス。それゆえに外部であると同時に根拠でもある間身体性を構造化する。「他者」、セミオティック、コーラ的(ミニマル的)な相互作用。ハビトゥスがサンボリクである限り、これらはそれを改革ないし転覆させる可能性を内包する。それは再生産の構造であると同時に、絶えざる生成のプロセスなのだ。
6.おわりに
本稿では、クリステヴァのコーラ概念について概観しつつ、それが間身体性に属するものであることを指摘した。そこではレヴィナスの「他者」概念との奇妙な相似を発見し、コーラと「他者」が可逆的な間身体性として、身体と身体の相互作用を可能にしていることを見てきた。
シリーズ全体を通して俯瞰してみると、ナラティヴセルフとミニマルセルフ、すなわち言語で表象できる「わたし」と表象不可能な「わたし」をいったん区分して検討することから始まった。そして身体論とハビトゥス論の交差点として、ミニマルな運動のなかから更新される「わたし」を検討し、キャリアコンサルティングを中心にナラティヴに変容していく「わたし」を見てきた。そしてミニマルな次元からナラティヴが立ち上がってくる場面としての間身体性を、レヴィナスの他者論とクリステヴァのコーラ概念を中心にみてきたことになる。
我ながら、少し議論が込み入り過ぎたようだ。次の章では、ティム・インゴルドのラインと応答の考え方を取り入れつつ、全体の整理を試みることとしたい。・・・議論をさらに複雑にしてしまう恐れも正直あるが・・・
