ジークアクス感想批評③後編:物語に興味ない人々:動物化したポストモダンを嘆く:のりかな毎日エッセイ250609
2025年6月7日、3時32分。
さて。
どうしようか。
昨日僕は、他の人の「ジークアクスの感想」を読んで批評する、という
特集の、3回目を投稿した。
↓

「ジークアクス感想」を批評する③:もっぐ氏編前編&のりかなトピックス振り返り:のりかな毎日エッセイ250605|のりかな
(↑まだ観てない人は先に読んでください♪)
:
普段、他の人の感想記事を読まない僕だけど、自分の記事の参考にしたり、
逆に他山の石にしたり、考察したり批評したりして、そこから教訓を得たり
することができるかもしれない。
そう期待して、あえて読んでみよう、という試みだ。
実際、1回目も2回目も、やってみたら予想以上に気づきや教訓が
得られたと思う。
詳しくはそれぞれの記事を読んでもらいたい。
↓
「ジークアクス感想」を批評する①:inkstone氏編:のりかな毎日エッセイ250513|のりかな
「ジークアクス感想」を批評する②:岡田斗司夫氏編:シイコのスティグマ戦術を弁護してみる:のりかな毎日エッセイ250530|のりかな
:
さて、3回目の今回は、「#ジークアクス」でnote検索して急上昇の一位に
来た人気作、もっぐ氏のジクワ感想記事を読んでみることにした。
ただし僕は、最新9話をまだ観れてないため、8話の記事を読むことにした。
↓
もっぐ@ジークアクスの人の記事一覧|note(ノート)

イラストレーター用のソフトとかを使っているのだろうか…。
ジークアクス第8話感想・考察『月に墜(堕)ちる』最速レビュー|衝撃のジークアクス〇〇機!?と新たな謎の話|もっぐ@ジークアクスの人
:
スキ数117(!)という人気の記事だ。
普通の人というか、「noteに来るジクワ視聴者の多数派」の人々が、
なぜこの記事をそんなに支持するのか?書き手のもっぐ氏だけでなく、
記事を分析することで、「普通の人」の性向も理解できるかもしれない。
それは僕の性向と、どう違うのだろうか?
などと考え、そして、
「もっぐ氏と僕の8話感想記事の最大の違いはどこか…?」
という問いを読者に残して、前回の記事は終了したのであった。
いわば「事件編」であり、今から書く記事が、コナンで言うところの
「解決編」ということになる。
というわけで、まだ読んでない人は、繰り返しになるけど先に
「事件編」を読んできて欲しい。
前編→後編の順番だし。
↓
「ジークアクス感想」を批評する③:もっぐ氏編前編&のりかなトピックス振り返り:のりかな毎日エッセイ250605|のりかな
:
さて、もっぐ氏の記事は、冒頭の1ページ以上、自分の過去記事や
最新記事の宣伝というか、リンク先への導入に使われているので、
僕もさっそく真似てみた。
こういう宣伝を、ためらわずにやることが、117スキにつながるのかも
しれないね。

しかしこの、「ついにあの子が…!」とか、「○○登場!」と
いった引きは、テレビのバラエティのCM前みたいだね。
意外とこういうのが「効果的」だったりするのかな?ふむ。
宣伝の後に来るのが、目次だ。これには驚いた。

記事は一万字以上あり、僕が数えた限りでは11876字あったのだけど、
その記事が9章、22項目に分かれていて、目次に埋め込まれたリンクを
クリックすれば、任意の項目のページにジャンプできるのだ。
すごい!
確かにすごいし、目次にリンクを埋め込むのをどうやってやるのか
僕には分からない。
そういう技術的な意味でも驚いたし、丁寧やな、とも思ったけど。
でもよくよく考えたらこのジャンプ機能、僕は使わないな、
とその後、はたと気づいた。
どういうことか。
:
「目次から好きなページへ」
これはつまり、「任意のどこのページから読んで頂いても
構いません」ということを意味している。このジャンプ機能は。
しかし普通、文章には「読む順番」というのがあるはずだ。
:
僕の文章も、1ページ目の最初の一文字目から読むのに決まっているし、
そこから最後のページまで読んでいくのが当たり前だ。
「上から下、上流から下流に向かって読む」ものである以上、
「どこから読んで頂いても構いません、何なら中盤から読んで
もらっても、記事の最後だけ読むのでも構いません!」という
目的の、ジャンプ機能をつけても意味がない。
漫画やアニメを、いちばん盛り上がる最終話だけ観てもしょうがない、
というか…。
ジークアクスを、1~8話まで観てないのに、いきなり9話まで
ジャンプして、そこだけ観たりするだろうか?
それでは「お話の流れ」が理解できないではないか?
:
お話とは「物語」であり、物語とは、因果の連続だ。
因果とは、原因と結果のことだ。
だからお話は、原因の一番最初である、一話から観るものだ。
そう考えるのが普通だ、常識だ、と僕は思っていた。
この時までは。
:
うーん。
しかし考えてみると、世の中には既に、ジークアクスの戦闘シーン「だけ」
集めたyoutubeまとめ動画なんてのが、投稿されてたりするし。

と思ったけど、今探したら見つけられなかったので消されたのかもしれない。
でも例えばこの投稿↑とか。

この投稿↑とか。

これとかね。
今youtubeで軽く検索しただけやけど、結構見つかる。
物語の一部を切り取ったり、戦闘や死亡といった項目で
まとめた記事は、探さなくてもたくさんリコメンドされてくる。
それにしても、「印象的な死亡シーンを集めてみました」って…。
最終話の一番派手な戦闘シーンだけ見たいとか、ニャアンの悶絶シーン
だけを見たいとか、キャラが死亡するシーンだけを集めて観たいとか、
物語はいいからとにかくお気に入りの「シーン」だけを見たい、という
需要は確かに存在するようだ。
というか、上の三つはそれぞれ117万とか15万再生もされている。
とすれば、「そういう需要もある」ではなく、そういう需要が今や、
メインなのではないだろうか?
一般的な視聴者、普通の人々は、物語に興味がない…?
物語を観ていないのかもしれない。
物語ではなく、印象的な「シーン」の集積、
としてジークアクスを観賞している。
だから、お気に入りの「シーン」だけを繰り返し、観たいという需要が
生まれるのだ。
:
僕にとっては、物語のあくまで従属的な要素とか結果でしかない、
戦闘とか、死亡とか、出会いとか別れとか、かわいいキャラとか、
カッコいいモビルスーツというのが、むしろ今の時代、
普通の人にとって、メインの消費対象になっている、
のかもしれない…。

「物語」でなく「構成要素」が消費の対象となる…。
「データベース消費」というのは、批評家の東浩紀氏が、2000年代に
提唱した概念であり、「物語消費」との対概念となっている。

岡田斗司夫氏の有名な講演を思い出した。
「大きな物語」については別の機会に語ることにしよう。
東氏は自著の中で、「物語消費」の代表として1979年の
「機動戦士ガンダム」を、「データベース消費」の代表として
1995年の「新世紀エヴァンゲリオン」を取り上げている。
そして実際にその新しい傾向は、大塚の評論が発表されたあと、九〇年代の一〇年間でかなりはっきりと目に見えるものになってきた。九〇年代のオタクたちは一般に、八〇年代に比べ、作品世界のデータそのものには固執するものの、それが伝えるメッセージや意味に対してきわめて無関心である。逆に九〇年代には、原作の物語とは無関係に、その断片であるイラストや設定だけが単独で消費され、その断片に向けて消費者が自分で勝手に感情移入を強めていく、という別のタイプの消費行動が台頭してきた。この新たな消費行動は、オタクたち自身によって「キャラ萌え」と呼ばれている。後述のように、そこではオタクたちは、物語やメッセージなどほとんど関係なしに、作品の背後にある情報だけを淡々と消費している。したがって、この消費行動を分析するうえでは、もはや、それら作品の断片が「失われた大きな物語」を補塡している、という図式はあまり適切でないように思われる。
(東浩紀. 動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書) (pp.47-48). 講談社. Kindle 版.)
:
それが今や、ガンダムの最新作をも、「普通の視聴者」は
「データベース的」に消費している。
物語から切り離された「まとめ動画」の人気は、そのことを示している。
僕はそのことに驚きを隠せない。
他のアニメはともかく、ガノタは「違う」と思っていたのだけど…。
今やガノタもその主流は、多数派は、物語消費をしていないのだ。
そのことを、上記のもっぐ氏の感想記事の人気ぶりが、示している。
どういうことか。
:
そもそも「データベース消費」とは何か。
これは僕の解釈だけど、例えば電子辞書の「あ行」の一覧を思い浮かべて
欲しい。

「う行」の画像しか見つからなかったけど、まあいいや。
「運行」や「運航」、「運座」といった項目が、画数やあいうえお順で
並んでいるし、各項目をクリックすると、項目についての説明ページに
ジャンプする。
もっぐ氏の「目次」と類似していることが分かるだろう。
さて、これらの項目どうしは、互いに何の関係もない。
ただ単に、「う行である」というつながりしか持たない。
因果関係や前後関係があるわけでもなく、接続詞で結ばれているわけ
でもない。
これを「辞書的」、「データベース的」と考えよう。
これに対して、小説や物語の文章であれば、各段落どうしは、互いに
因果関係があり、前後関係がある。「したがって…」とか、
「にもかかわらず…」といった接続詞で、段落どうしがつながっている
はずだ。
これを「物語的」と考えよう。
さて、もっぐ氏の感想記事は、「物語的」であろうか、それとも
「データベース的」であろうか?
この文章を、もっぐ氏或いは、もっぐ氏のフォロワーの方が読んで
いたら、どうか自分自身に問うていただきたい。

許されないだろう。少なくとも僕の記事ではありえない。
もっぐ氏の目次の、22個の項目は、互いに独立したトピックの羅列に
なっていて、接続詞で結ばれてないし、「こっちを先に読むこと!」
という因果関係もない。
別に、番号が若いからと言って、「>4 各キャラの行動・心理」を、
「>5 メカ考察:ジークアクス○○登場!」より先に読まなければいけない、
という構造にはなっていない。
メカにしか興味がない読者なら、「5」を先に、というか、「5」だけ
読んでも一向にかまわないと。この目次はそういう意図だ。
何なら「8 まとめ」だけ読んでもいい。
読者の興味に合わせて、「8」を読んでから「5」を読んで、それから
「4」にジャンプしたりしても問題ない。
「4」で読み終えても問題ない。
僕のエッセイならありえないことだ。「最初から読む」一択しかない。
:
僕はもっぐ氏の感想記事も、最初から順に、「物語的に」読んでしまった
けど、それは正しい読み方では無かったのかも知れない。
百科事典の22個の項目を順々に読んでいったような、読後感だった。
これらの項目はどんな因果関係でつながっているんだろう、と悩んで
しまったが、そんなもん最初から無かったのだ。
:
ストーリー漫画なら、8巻を読んでから5巻を読んで、それから4巻を
読むという順番はありえないだろう。
ジークアクスを、8話を観てから5話を観て、それから4話を観る、
という順番も同様に、ありえない。
と僕は思ってしまうけど、今の時代の普通の人には
それが当たり前らしい。
むしろ一話から順に観てくなんて、タイパ的に無理だし。
:
(余談になるけど、僕も子供の頃、ZガンダムやガンダムZZの最終巻だけ
レンタルして、一番盛り上がるシーンだけ観てた記憶がある。
そこまでのうだうだした展開はスルーでいいでしょ、と当時の僕は思って
いたのだろうか?)
:
例えば、メカ好きの友人にジクワを薦めるときに、「7話の戦闘シーンが
最高だから!そっから観ろ!」と勧めるのは、おかしな話ではない。
この友人は物語にもキャラ萌えにも興味がないのだから、オイシイところ
だけ食べる、こういう消費の仕方はタイパ的に正しいのだろう。
逆に、キャラ萌えにしか興味がない人なら、萌えシーンだけをつまみ食い
する見方が正常、ということになるし、「萌えシーン集」のようなyoutube
動画が爆誕したりもする。その動画の中では、別に萌えシーンが一話から
時系列で並んでいる必要も、ない。
今や普通の視聴者、視聴者の多数派は、データベース消費が当たり前に
なっている。
逆に言うと、物語消費に対するリテラシーが低くなっている恐れがある。

:
もっぐ氏の感想記事はデータベース的であり、僕のそれは物語的である、
というのが最大の違いだ。
そして普通の読者、多数派の読者は、もっぐ氏の記事を支持する。
もっぐ氏の記事の方が共感を集めるのは、氏や普通の読者が、
ジークアクスを物語でなく、データベースとして消費している
ためだと僕は思う。
因果関係でなく、無関係な項目の連続、として見ている。
項目どうしの因果関係をあまり、意識していない。
過去や未来が無く、「今」しか存在しない。
もっぐ氏や多数派の読者は物語よりデータベースに興味があるし、
物語を読み解く能力も育っていない。
などというと失礼だと受け取られるかもしれないけど、どうか読み続けて
頂きたい。大事な話だから。
確かに氏の記事は一万字もあるけど、一万字の物語を読み解く
能力を読者に要求しては、いない。
22個の短いトピックをそれぞれ、別個に読めばいいのだから。
(1万÷22=455で、一つ一つは平均455文字だから、140文字のツイート
を読むのとたいして変わらないはずだ)
ところがこの22項目に順番があって、因果関係で結ばれていると途端に
読解が難しくなってしまう。
「ここで最初の議論を思い出して欲しい…」とか言われても覚えていない
読者が今の時代、多数派なのだ。
「前回のマチュの身に起きたことを思い出すと、今このシーンのマチュは
こう思っているだろう」という、振り返りと推論ができない。
今今の、この画面に映っているものだけで推論してしまうから、ちぐはぐな
感想が出てきてしまう。
そしてしかもその感想が、「多数派=正しい」として、力を得てしまう。
:
だから僕の場合、一万字の文章をつい「物語」として書いてしまうので、
読める人を絞ってしまい、読者が脱落してしまうのかもしれない。
:
物語への興味も、読解する能力も持たない読者が主流となる中で、
僕の文章は物語的であり、そのうえジクワの感想記事で注目している
のも、主に物語についての言及だったりする。
かたや、もっぐ氏の感想記事は、構造自体がデータベース的であり、
その内容も物語にはほとんど触れておらず、キャラやモビルスーツ、
イベントといった要素への言及を羅列したものになっている。
それゆえ、普通の読者(というか、普通の人はそもそもジクワなんて
観ないし、朝ドラとかアマプラを観てると思うので、「noteに来るジクワ
視聴者の中の多数派」と言い換えた方がいいだろう)には、読解力を
必要とせず、興味の対象により近いため、支持を獲得できる。
:
「登山」という趣味が衰退する一方で、山のふもとで「ゆるキャン」する
人々は増えている。
そして、働くと本が読めない、ゲームができないという人が増える一方、
読書動画やゲーム実況動画が盛況となり、みんなパズドラばかりしている。
「それの何がいけないって言うんだよ!みんなそうしてるじゃないか!」

シンジ君「パズドラで何が悪いんだ!」
「楽しいこと見つけたんだ!楽しいこと見つけて、
そればっかりやってて、何が悪いんだよ!」
…うん。

みんなと一緒で安心だと、もっぐ氏は言う。
「多数派だから正しい」という価値観を、もっぐ氏も
氏のフォロワーも共有しているのだと思う。
そうであれば、登山よりゆるキャンの方が、
読書やゲームをするより実況動画を観てる人の方が
多数派だから、正しいのだろうか?
六千字も超えたので、ここで一旦ブレイクタイムにしようと思う。
:
次回、もっぐ氏の記事の「内容」についての考察と、読解力に疑問を
感じる箇所の具体例を提示し、その読みがむしろ主流派というか、
「普通」になっている現状について、読者と考えを深めていきたいと思う。
AI vs. 教科書が読めない子どもたち | 紀子, 新井 |本 | 通販 | Amazon
↑上記の本にも触れたい。
子供達の「誤読」が、「でも私たちの方が数が多くて安心しました」と
言って、正しい少数派を沈黙させていく。そんなディストピアが未来
でなく、既に「今」の問題になっている。
多数派が正義なのか、という問題については、
石橋貴明問題や、ネットのランキング構造も絡めて論じていきたいと思う。
それで多分おしまいになると思うけど。終わるかな…。
こんなに豊穣な内容になるとは…。
ともあれ、
この文章が、皆さんの思考の叩き台になれれば幸いです!
ではまた、明日♪
Thank you for reading!
