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反グロ論:イリイチ思想の総合的再評価〜コモンズ論を通じた「共愉的生存」の探求と環境倫理

はじめに

イヴァン・イリイチ(Ivan Illich, 1926-2002)の思想は、近代社会の専門家依存過度な制度化がもたらす「逆生産性」「脱自律化」を批判し、人間的な自律と相互扶助の回復を生涯にわたり追求した。

本稿は、イリイチの多岐にわたる批判、すなわちシャドゥ・ワーク論ジェンダー論医療論教育論ヴァナキュラー論共愉論希少性論価値の制度化論、さらに交通論、エネルギー論を統合的に考察する。これらの論点を、「コモンズ論」という一貫した視点と、晩年の水・エコロジーの問題と交差させることで、彼の提言が現代社会における自律、持続可能性、および環境倫理の回復にいかに貢献しうるかを論究する。

1. 近代制度によるコモンズの構造的浸食

イリイチは、近代の制度化が、生活の基盤となる共有地・共有知(コモンズ)を収奪し、人々をシステムに従属させる「脱自律化」をもたらす過程を分析した。

1.1. 価値の制度化と脱自律化のメカニズム

価値の制度化論は、健康教育交通といった人間生活の根源的価値が、専門家によって独占的に提供される「サービス」として制度化される過程を批判する。これにより、人々は自らの手で価値を実現する自律的能力を奪われ、制度への依存を深める。この制度化は、本来誰もがアクセス可能であった生活のコモンズ(知識、知恵、相互扶助のスキル)を「希少な商品」へと変質させる、コモンズの構造的囲い込みである

1.2. 医療・教育におけるコモンズの破壊

  • 医療論(医療のネメシス・報復): 現代医療が一定の臨界点を超えると、かえってを生み出し、人々の「身体のコモンズ」たる自己治癒力や苦痛への耐性を奪う。この専門家への依存は、かつて家族や共同体で共有されていた相互扶助のコモンズを破壊する。

  • 教育論(脱学校論): 学校制度は、知識の独占的な伝達と階層化をもたらす「知識のコモンズの囲い込みである。それは、人々の自発的かつ非形式的な学習能力と、互いに教え合う「学びのコモンズ」を奪い去る。

2. シャドゥ・ワークとジェンダー:隠されたコモンズの収奪

イリイチは、商品経済の裏側で進行する、生活世界からの無償の収奪構造を分析し、これをジェンダーの視点から深く掘り下げた。

2.1. ジェンダー論:ユニセックス化と「経済セックス」の批判

イリイチのジェンダー論は、シャドゥ・ワークの分析から導き出される、極めてラディカルな批判である。彼は、近代の産業化が、性別を商品経済の構造に組み込むことで、二重の破壊をもたらしたと論じる。

1) ユニセックス化と「経済セックス」の創出:

イリイチは、産業社会の労働・分業構造が、人間を性別(セックス)から切り離し、中性的な「経済セックス」として捉えることで、新たな分業を再構築したと批判する。この「経済セックス」化によって、人間は本来のヴァナキュラーな生活世界における男女の差異や相互扶助の関係から引き離され、近代産業社会における経済分業を担う単なる機能体へと変質させられる。

AI による概要
ヴァナキュラー(vernacular)」とは、「その土地固有の」「土着の」「日常的な話し言葉の」といった意味の言葉です。もともとは言葉を指す言葉でしたが、建築、文化、写真など、様々な分野で「権威や形式にとらわれない、その地域や人々の生活に根差したもの」を指す言葉として用いられています。

ヴァナキュラーの意味と例
土地固有の言葉や文化
:ラテン語の「vernaculum」が語源で、国際的なラテン語に対して地方の言葉を指したことが始まりです。例:アフリカ系アメリカ人英語(African-American Vernacular English)や、特定の地域で使われる通称など。

建築(ヴァナキュラー建築:特定の設計思想を持たず、その土地の気候や建材、人々の生活様式に合わせて「建築家なし」で建てられた庶民的な建物です。口承や経験の蓄積によって受け継がれる知恵が基盤となっています。

文化(ヴァナキュラー文化:その地域や共同体の人々の日常生活に深く関連した、権威を持たない文化や伝統を指します。民俗学では、都市や地域に存在する身近な文化や日常的な営みを研究する概念として用いられています。

写真(ヴァナキュラー写真:名のある写真家による芸術作品ではなく、一般の人々が残してきた膨大な日常のスナップ写真などを指します。写真史の周縁に追いやられていたこうした写真にも光を当てることで、「もうひとつの写真史」を再構築しようとする概念です。

このように、ヴァナキュラーという言葉は、公的、権威的、あるいは専門的ではない、むしろ非公式で偶発的、かつ地域社会の日常に根差した表現や現象を捉えるための概念として広く使われています。

⇒特記1参照

2) 賃労働者とシャドゥ・ワーカーへの再振り分け:

この「経済セックス」の構造は、結果として、賃労働を担う者(主に男性)と、商品消費を支えるための無償のシャドゥ・ワークを担う者(主に女性)という新たなジェンダーのヒエラルキーを生み出した。イリイチにとって、これは自然な男女差ではなく、近代産業社会が「共有地としてのヴァナキュラーな生活」を解体し、商品経済へ従属させるために作り出した構造に他ならない。

イリイチ議論の真意と批判の構図

イリイチの共感者たちが指摘するように、彼の議論の意義は、産業経済社会における労働・分業や生産・消費のありようが、あたかも自然法則であるかのように制度化、客観化されてしまっている状況を暴き出す点にある。彼は、既存の近代社会科学の枠組み(例:生産性、公平性)から離れた、ヴァナキュラーな豊かさの回復という新たな問題設定を行おうとした。

しかし、当時のフェミニストからは、この議論が、伝統的な男女の役割を肯定し、男女差別の固定化を唱えるものとして実態論的に捉えられ、強い批判を浴びた。イリイチの意図は、市場経済によるジェンダーの「再定義と収奪」への批判であったが、その表現は、伝統的ジェンダー役割の擁護と誤解される側面を内包していたと言える。
⇒特記2参照

コモンズ論との関連

イリイチのジェンダー論は、ヴァナキュラーなコモンズの核心を突く。かつて、男女の差異は、ヴァナキュラーな生活技術と相互扶助の中で豊かに共存していた。しかし、「経済セックス」化は、この非市場的な相互扶助のコモンズを破壊し、女性をシャドーワークという形で市場の影の支配下に置くことで、生活の自律性を根底から奪った。真のコモンズの回復は、「経済セックス」の構造を解体し、男女が共にヴァナキュラーな豊かさを自律的に享受できる社会を再建することにかかっている。

3. サブシステンスとヴァナキュラー:商品の反対概念

イリイチ思想の目指す回復とは、商品と制度の対極にある自律的な生活世界、すなわち「サブシステンス」の領域の再建にほかならない。

3.1. サブシステンスの定義と「商品の反対概念」

サブシステンス(subsistence)は、「商品(commodity)」に対置される概念である。訳者・玉野井芳郎の解説(「人間生活の自立・自存」)や、カール・ポランニーからの影響に見られるように、これは単なる最低生存水準ではなく、市場経済、産業経済に対置される、地域の民衆が生活の自立・自存を確立するうえの物質的精神的基盤を指す。

イリイチは、「サブシステンス」に代わり、より正確な対応概念として「ヴァナキュラー(vernacular)」(共同体の生活の中で受け継がれ、自律的に行使される技術、言語、慣習)の使用を提唱し、後に多用した。彼の論では、これら二つの概念は「使用価値を中心とする活動」や「埋めこまれた経済活動」の総体、すなわち「文化・技術のコモンズ」と強く結びつく。
特記1参照

3.2. 共愉論と自律的コモンズの管理

イリイチ思想の核であるコンヴィヴィアリティ(Convívialité / 共愉性)は、道具や制度が、使用者の自律性を損なうことなく、人々の相互扶助的な関係を促進するような状態を指す。これは、コモンズの利用者自身がそのルールを確立し、自律的に管理する能力(共愉的コモンズ)を意味する。

希少性論は、市場経済が「ヴァナキュラーな豊かさ」を破壊し、資源の「構造的希少性」を人為的に生み出すことを批判し、真の豊かさがコモンズの自律的な利用と相互扶助の中にあることを強調する。

3.3. フレイレとの教育論争とコモンズ管理の自律性

パウロ・フレイレとの論争は、コモンズの運営における根本的な問題を提起した。イリイチは、たとえ「解放」を目的としても、外部の「専門家」(解放者)が介入すれば、それは新たな制度化を生み、人々の「自律的実践のコモンズ」を奪う危険性があると指摘した。真のコモンズは、外部の権威に依存しない、利用者自身の能力によってのみ維持可能である。

4. 交通論とエネルギー論:インフラのコモンズ囲い込み

イリイチは、生活の基盤となるインフラストラクチャーが制度化されることで、人々の自律的な活動が阻害され、コモンズが収奪される過程を、交通とエネルギーを例に鋭く分析した。

4.1. 交通論:自動車による自律的移動の破壊

イリイチの交通論は、『エネルギーと公正』(Energy and Equity, 1974年)の中で深く展開されている。彼は、自動車とそれを取り巻く巨大なインフラ(道路、ガソリンスタンド、交通警察など)が、特定の臨界点を超えると、かえって人間の自律的な移動能力を奪うと批判した。

  • 逆生産性: 自動車の「真の速度」(所有、維持、駐車、通勤、渋滞などにかかるすべての時間を燃料消費で割った実効速度)は、自転車や徒歩の速度と大差ない、あるいはそれ以下になる。にもかかわらず、社会全体が自動車中心の都市構造へと徹底的に独占される(ラディカルなモノポリー)。

  • 交通のコモンズの収奪: この制度化は、人々の足と自転車という「身体と自律的技術のコモンズ」を無効化し、公道という「共有地のコモンズ」を自動車所有者のために囲い込むことを意味する。人々は自らの意思で歩き、移動する能力を奪われ、自動車という商品と、その管理を行う専門家に依存せざるを得なくなる。

4.2. エネルギー論と公正:巨大インフラによる資源の独占

『エネルギーと公正』の核心は、エネルギー利用の増大が、必ずしも生活の質の向上にはつながらず、むしろ不公正と不平等を拡大させるという批判である。

  • 制度化されたエネルギー: イリイチは、巨大な発電所や石油産業といった「制度化されたエネルギー」が、エネルギー利用を独占し、人々が自律的にエネルギーを利用する機会を奪うと論じた。エネルギーが過剰に利用される社会では、その管理が専門家集団に委ねられ、人々はエネルギーのコモンズから疎外される。

  • 不公正の拡大: 巨大なエネルギー消費は、生活の速度の不平等を拡大する。高速で移動できる(エネルギーを大量消費する)少数の人々に対し、大多数の人々は、その高速システムによって生み出された距離や制約(例:遠距離通勤、都市の過密)に縛られる。真の公正とは、エネルギー消費を自律的・共愉的なレベルに制限することであり、そうすることで初めて、自律的な生活(サブシステンス)がすべての人に開かれると主張した。

5. 晩年の環境倫理:地球コモンズの喪失と回復

イリイチは晩年、水、土、土着的な資源といった地球コモンズの喪失、エコロジーの問題に深い関心を寄せた。その比較的最初の頃の思想的結晶の一つが、『H2Oと水――「素材」を歴史的に読む』(H2O and the Waters of Forgetfulness, 1985年)である。

この著作でイリイチは、科学が定義する「H2O」(化学的な構成物、普遍的で均質な流体)と、歴史・文化・生活世界に根ざした「水(Waters)」(飲む水、聖なる水、洗う水など、文脈化されたヴァナキュラーな水)との対立軸を設定する。

5.1. 『H2Oと水』における素材の歴史的囲い込み

  • H2Oの支配: 近代の巨大な水道インフラ、専門技術、そして市場経済は、「水」を普遍的で測定可能な「H2O」という商品、あるいはサービスとして囲い込んだ。この過程で、水はコミュニティの自律的な管理下から離れ、外部の制度と専門家に依存する資源へと変質した。

  • 「忘却の水(Waters of Forgetfulness)」: この制度化は、人々から水に対するヴァナキュラーな知識(どこで安全な水が手に入るか、どう水を管理するかといった生活の知恵)を奪い、水が本来持っていた文化的な意味や、共同体における相互扶助の役割を忘れさせた。

5.2.「水のコモンズ」の破壊と環境倫理

イリイチの分析は、水のコモンズが近代によっていかにして破壊されたかを明確に示している。

  1. 物理的コモンズの囲い込み: 水という地球コモンズが、工業化、巨大なインフラ、水道事業の専門家化によって、アクセスが独占される「商品」へと変質した。これは、水の地域間格差や環境破壊を生み出す根源である。

  2. 知識のコモンズの破壊: 人々が水に対する自律的な判断力(コンビビアリティ)を失い、科学的・技術的な専門家(H2Oの管理者)に依存せざるを得なくなった。これは、「サブシステンス」を支える知恵の破壊である。

イリイチが提唱するコンビビアリティ(共愉性)とは、道具や制度が人間だけでなく、自然環境(水、土など)との持続可能な関係性をも含意する。それは、自然を無限の資源として収奪する近代の論理から脱却し、自然を「生命のコモンズ」として捉え直し、共生的な管理を目指す深い環境倫理の提唱に他ならない。

結論:共愉的コモンズの復権

イリイチの思想は、近代の制度化が、生活のコモンズを、シャドーワーク、経済セックス、医療、教育、交通、エネルギーといったあらゆる側面から収奪・解体してきた過程を明らかにした。

彼の分析は、特に交通とエネルギーの分野において、巨大なインフラと専門家権力が、いかにして人々の自律的な能力と身体のコモンズを奪い、社会的不公正を構造化したかを暴露する。イリイチが提唱するコンビビアリティ(共愉性)とは、これらのコモンズを市場の論理と国家の支配から取り戻し、人々が自律的な技能(ヴァナキュラー)と相互扶助(サブシステンス)を通じて、生活を自らの手で創造し、道具の限界と環境への負荷を自律的に制限できる社会の回復にほかならない。

イリイチの思想は、「共有地の囲い込み」が加速し、気候変動や格差が深刻化する現代において、真の持続可能性と人間的な豊かさを回復するための、ラディカルで具体的な青写真を提供していると言える。

特記1:サブシステンス (Subsistence) の解釈:商品経済の外部にある「人間生活の自立・自存」

イヴァン・イリイチの思想における「サブシステンス」は、単なる「最低限の生活」や「自給自足」といった字義的な意味を超え、近代産業社会と商品経済の原理に対立する、自律的な生活世界全体を指す、批判的かつ積極的な概念である。

1. サブシステンスの多義性とイリイチの批判的選択

イリイチが指摘するように、「サブシステンス」という言葉は、本来、以下のようないくつかの混濁した意味合いを持っていた。

  • 貧困層の最低限の生存: 「サブシステンスの農業」に見られるように、辛うじて生きている貧しい人々(開発当局が救うべき対象)。

  • ドヤ街の最低生活: 浮浪者がやっと生きていく最低限の基準。

  • 賃金との同一視: 労働力の再生産に必要な最低限の賃金。

イリイチは、これらの「混乱」を避け、「商品」の明確な反対概念として、「ヴァナキュラー(vernacular)」(=生活世界に根ざした、非商品的な技術や活動)の使用を提唱している。しかし、『シャドウ・ワーク』の論文内では、あえて「サブシステンス」に固執していた。

この固執の背後には、彼が以下の二つの対立軸を明確に設定したいという意図がある。

→ 「商品」の対概念としてのサブシステンスの核心

対立軸   市場・産業経済側の活動   サブシステンス志向の活動
経済活動の 形式的な通常の経済      使用価値を中心とする活動
性質     
(フォーマルな経済の意の    (非金銭的な取引、埋めこま
      ままになっている活動)       れた経済活動)
主体と活動   生産と消費(制度化され、    自立・自存(地域の民衆が生活の
の目的           外部の希少性によって           自立・自存を確 立するうえの物                          駆動される)                          質的精神的基盤)                        

2. コモンズ論との関連:埋め込まれた経済と自立の基盤

訳者である玉野井芳郎氏の解説(「人間生活の自立・自存」)や、イリイチがポランニーを参照している点から、「サブシステンス」はコモンズ論の基盤と深く関連づけられる。

  • ポランニーの「埋め込み(Embeddedness)」: イリイチの師であるカール・ポランニーは、近代以前の社会では、経済活動は親族や共同体などの社会関係に「埋め込まれていた(embedded)」と論じた。イリイチの「サブシステンス」は、この社会関係(コモンズ)に埋め込まれた経済活動、すなわち、生活の自立・自存を目的に行われる非市場的な活動を指しす。

AI概要:
大転換』(『The Great Transformation』):
1944年に出版されたポランニーの代表作で、「埋め込み」の概念が中心的に展開されている著作です。

概要:
ポランニーは、経済活動が社会、文化、政治といった制度に深く関連していると主張しました。彼は、労働、土地、貨幣といったものが本来「商品」ではなく、社会的な存在であると論じ、市場経済がこれらの要素を「擬制商品」として扱おうとすることの危険性を示しました。

  • ヴァナキュラーな活動の領域: サブシステンスは、商品・サービスを購入する代わりに、自らの手や相互扶助によって行われるヴァナキュラーな活動(例:自宅での料理、自発的な介護、非形式的な学習)がその中心である。これは、人々が自律的に管理し、共有する「生活のコモンズ」そのものであると言える。

結論:サブシステンスは「自律的な生活のコモンズ」

したがって、イリイチのいう「サブシステンス」は、以下のように解釈される。

  1. 商品(Commodity)の反対概念: 貨幣や市場原理によって律せられる「商品」に対し、「サブシステンス」は使用価値非金銭的な取引に焦点を当てた活動。

  2. 「人間生活の自立・自存」の基盤: 近代制度や専門家の介入なしに、人々が自ら生活を維持し、相互扶助を営む物質的精神的基盤。

  3. ヴァナキュラーな領域の代用語: 厳密には「ヴァナキュラー」がより正確な対応語だが、「サブシステンス」という言葉を用いることで、賃金労働とシャドー・ワークという形式的な経済活動(フォーマル・インフォーマル)全体に対し、自律・自存志向の活動を対置させるという、強い批判的メッセージを読者に伝えることを意図している。

それは、市場経済の外部にある、人々が自律的に管理し、共有する「生活のコモンズ」の領域を再評価し、回復するためのキーワードであると言える

特記2:イリイチのジェンダー論をめぐる言説の相違と立場性:『ジェンダー』批判の歴史的背景と応答

1. 目的と問題意識:『ジェンダー』の抱える両義的性格

イヴァン・イリイチの著作『ジェンダー――女と男の世界』(Gender, 1983年)は、近代産業社会におけるシャドゥ・ワークと経済セックスの批判を核とし、ヴァナキュラーな文化における男女間の相補性を肯定的に捉えることで、近代社会科学の枠組み外に新たな問題設定を試みた。しかし、この議論は、発表当初から激しい批判に晒されてきた。

本稿の目的は、この批判の歴史的背景を明らかにすることにある。特に、イリイチの議論が「フェミニストにも反フェミニストにも受け容れられる両義的な性格」を持つがゆえに「よけいに始末が悪い」(上野千鶴子)と評され、また「女性の状況への認識の歪曲と矮小化」(江原由美子)として非難された背景には、アメリカのフェミニズム言説との具体的な衝突があった。

本稿では、この衝突の中心であったグロリア・ボウルズ(Gloria Bowles)やアーリー・ホックシールド(Arlie Hochschild)らの批判に焦点を当て、以下の点を検証する。
Bowls, Gloria, 1983a, "Introduction: The Context," Feminist Issues, 3(1): 3-6.
Hochschild, Arlie, 1983, “Illich: The Ideologue in Scientist’s Clothing,” Feminist Issues, 3(1): 6-11

  1. 1970年代から1980年代初頭にかけてのアメリカにおける『ジェンダー』批判の論点と歴史的経緯。

  2. イリイチがフェミニストの批判をどのように受け止め、『ジェンダー』以後の議論(特に歴史研究)でどのような変容を遂げたか。

  3. ボウルズやホックシールドらの批判の正当性と、イリイチが意図したジェンダーの特異性(貧困の再評価と長期的な歴史的射程)を浮き彫りにする。

2. 『ジェンダー』批判の論点と歴史的背景

2.1. ヴァナキュラー文化の解釈をめぐる相違

イリイチは、近代以前の社会における男女間の差異や相補性を、商品経済の外部にあるヴァナキュラーな文化(生活世界に根ざした自律的な活動)として肯定的・曖昧なものとして捉えた (Illich1983)。

しかし、ホックシールドは、この「ヴァナキュラーな文化」の捉え方そのものが曖昧であり、その実態には性差別が埋め込まれていることを無視していると批判した (Hochschild1983:11)。

これは、フェミニズムが闘ってきた歴史的な女性抑圧の経験を、イリイチが抽象的な「近代以前の豊かさ」として矮小化しているという、実態論的な批判であった。イリイチの批判が、近代産業社会が生み出した新たなジェンダー構造(経済セックス)に集中するあまり、前近代の抑圧を見過ごしていると解釈されたのである。

2.2. 「経済セックス」とシャドゥ・ワークをめぐる立場の相違

ボウルズらが問題としたのは、イリイチが設定したユニセックス化とジェンダーの対立、そして賃労働者(主に男性)とシャドゥ・ワーカー(主に女性)という近代の分業構造批判である。イリイチの議論は、この近代の経済分業を担う中性的な主体(経済セックス)の創出が、ヴァナキュラーな豊かさを破壊したと主張するが、これは結果として、シャドゥ・ワークを担う女性の役割を固定化し、その解放の可能性を否定していると受け取られた。

すなわち、イリイチの議論が、商品経済批判というラディカルな視点を持つにもかかわらず、ボウルズらが中心となって批判した議論は、女性の現実的な解放(賃金労働への参入、家事労働の社会化など)を否定し、前近代的な枠組みに閉じ込めるものだという懸念に基づいていた。

3. イリイチの応答と議論の変容:貧困の再評価と超長期的な歴史的射程

ボウルズやホックシールドらの『ジェンダー』批判は、イリイチが意図した「近代産業社会におけるジェンダーの特異性」を正確に読み取る上で、的確な指摘を含んでいた。イリイチの表現には、当時のフェミニストが抱える現実的な問題意識との乖離が存在した。

3.1. 批判の受容と「貧困」の歴史的再評価

イリイチは、これらの批判を受けて、『ジェンダー』以後の議論において、よりいっそう歴史研究に依拠する姿勢を強めた。彼は、現代の性差別の転換点を、中世における教会の結婚制度の成立や、貧困(Poverty)に対する認識の急激な歴史的変化から見出していくことになる。

イリイチは、単にジェンダーや性差別の細分化された問題に焦点を当てるのではなく、貧困そのものに対する社会の眼差しの変化、そしてそれによって生じた「妬みや羨望」といった精神的な変化こそが、現代の不平等なジェンダー構造の深層にあると捉えた (Illich1983)。

3.2. 批判との立場性の相違:コモンズの回復という目的

イリイチの立場は、ボウルズやホックシールドらが目指した近代社会内での公平性の実現(例:男女の賃金格差解消)とは異なり、近代のシステムそのものの解体と、ヴァナキュラーな生活(サブシステンス)の回復にあった。彼の議論の目的は、性差別の問題を超長期にわたる歴史的射程から明らかにすることで、現代の豊かな暮らしこそが、制度化された不平等(性差別を含む)を生み出しているという、ラディカルな問題意識を示すことだった。

この目的を達成するため、イリイチは批判を受けた後も、「商品」の反対概念としての「サブシステンス/ヴァナキュラー」を追求し、現代の性差別を、近代による生活のコモンズの囲い込みの一環として捉え続けたのである。

4. 結論

イリイチの『ジェンダー』批判の歴史は、近代批判のラディカリズムが、現実的な社会運動の切実な問題意識とどのように衝突し、対話したかを示す好例である。

ボウルズやホックシールドらの批判は、イリイチの議論がヴァナキュラーな生活を性差別的な文脈から切り離して肯定的すぎたという点で正当性を持っていた。しかし、イリイチの議論が目指したものは、細分化された性差別の問題を超え、近代産業社会の根源的な構造(価値の制度化、経済セックス、貧困観の変容)を、コモンズ論という壮大な歴史的視点から暴き出すことであった。

『ジェンダー』以後のイリイチの議論の変遷は、批判を真摯に受け止めつつも、自らの問題意識(自律的なコモンズの回復)をさらに深化させるために、歴史研究へと舵を切ったことを示している。イリイチのジェンダー論は、現代社会における真の自律とは何か、そしてそれを妨げる「商品」と「制度」の力学を問う、現在においてもなお刺激的な参照点であり続けている。

論文:安田智博「産業社会におけるコンヴィヴィアリティの道具の条件とは何か」

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