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「私、発達障害なんで」と言われて、言葉が出なかった。カジュアル化する言葉、省略される確認

伝票の転記ミスが続いた部下に、確認の仕方を変えてほしいと伝えた。返ってきたのは、「すみません、私、発達障害なんで」という一言だった。その先の言葉が、出てこなかった。

配慮を求められたのか。事情の説明なのか。それとも、指摘をここで終わらせるための言葉なのか。判定できないまま、「そうか、わかった」と言って面談を閉じた。こういう場面の相談が、ここ数年で増えた。

反対側の場面もある。何度教えても手順が飛ぶ部下について、管理職が言葉を選びながら聞いてくる。「あの人、発達っぽいと思うんですが、受診を勧めたほうがいいですか」。こちらも、続く言葉は簡単ではない。

「発達障害」という言葉は、この十年ほどで職場の日常語になった。それは理解が進んだということだと、思われてきた。だが現場で起きていることを見るかぎり、進んだのは理解ではない。確認の省略だ。



自称でも他称でも、同じ場所で会話が止まる

二つの場面は、向きが逆に見えて、止まり方が同じだ。ラベルが出た瞬間に、その先の確認、つまり何がいつ起きて、どこで引っかかったのかへ進めなくなる。

自称の場面から見る。「私、発達障害なんで」という言葉が出るのは、多くの場合、仕事のミスを指摘された直後だ。指摘した側は、そこで足場を失う。特性への配慮は法律上の義務でもある。だからといって、ミスの確認をやめていいのか。踏み込めば傷つけるのか。判定がつかないから、話ごと閉じてしまう。

他称の場面は、もっと直接的なリスクを持つ。上司らが従業員に「あなたは発達障害だ」と告げたことが、違法と判断された裁判例がある。診断は医師にしかできない。職場の人間が見立てを口にすることは、善意でも、不法行為やハラスメントの領域に踏み込みうる。

だから管理職は言えない。言えないまま、「あの人は発達っぽい」という見立てだけが頭に残り、その人への指示や評価に、確認されないまま影響していく。

どちらの場面でも、失われているものは同じだ。目の前の出来事についての、具体的な確認である。



言葉が広まると、確認が省略される

なぜ、ラベルが出ると確認が止まるのか。

「既読スルー」という言葉ができてから、返信が遅い理由を聞かなくなった、という感覚に覚えはないだろうか。名前は便利だ。名前がつくと、状況に説明がついた気になれる。たまたま忙しかったのか、返事に迷っていたのか、という個別の事情を確かめる手間が省ける。名前は、確認の省略と引き換えに広まっていく。

職場の「発達障害」も、同じ経路をたどってきた。テレビの討論番組が「カジュアル化で困難が過小評価される」というテーマを立てるほど、この言葉は軽く流通するようになった。「私って発達かも」が自己紹介の一部として使われ、「あの人は発達」が、うまくいかない同僚への説明として消費される。

ただし、言葉が軽くなっても、困難まで軽くなったわけではない。診断を受けて働く人の中には、感覚の過敏や段取りの困難と毎日交渉しながら、業務を組み立てている人がいる。その人が「私も発達っぽいところあるよ、みんなそうだよ」と返された瞬間、困難の中身を説明する道は、善意の共感によってふさがれる。カジュアル化のいちばんの損失はここにある。重い荷物を運んでいる人ほど、荷物の説明ができなくなる。

一方で、幅があることも事実だ。同じ診断名でも、特性の出方も業務への影響も人によってまったく違う。診断があっても調整がほぼ要らない人もいれば、診断がなくても調整が必要な人もいる。

だからラベルは、それだけでは何も教えてくれない。「発達障害なんで」の一言から、会社が業務上判断できることは、実はほとんどない。本人の説明の代わりにも、周囲の理解の代わりにもならない。それなのに、会話を終わらせる力だけは持っている。説明力が下がったまま、遮断力だけが残った言葉。それが、カジュアル化した「発達障害」の現在地だ。



ラベルの真偽は、会社の仕事ではない

では、「私、発達障害なんで」と言われたら、どう返すか。

私が本人に実際に伝えているのは、こういうことだ。会社は、障害かどうか、特性かどうかを知りたいわけではない。知りたいのは、いま起きている出来事をどうするか。だから、この場に障害の証明は要らないし、特性の否定も要らない。

そのうえで、話を出来事に戻す。今回の転記ミスは、どの工程で起きたのか。本人としては、何に引っかかったと見立てているのか。同じことが起きないために、会社に何をしてほしいのか。ラベルの真偽を棚に上げたまま、この確認は全部できる。


この返しは、拒絶ではない。「発達障害なんで」を言い訳と決めつけて突き返すのでもなく、診断書の提出を求めて話を凍結するのでもない。ラベルを受け取ったうえで、会社が扱える形、つまり出来事と調整の話に置き直す。合理的配慮の対話も、制度上は診断名からではなく業務上の支障から始まる。土俵を出来事に移すことは、配慮を渋ることではなく、配慮を具体化する道筋そのものだ。

「発達っぽい」と言いたくなった側の動きも、同じ原則で決まる。ラベルは、口にしない。書かない。代わりに、困っている業務行動を場面の言葉で残す。「割り込みの作業が入ると、戻ってきたあとの工程がひとつ飛ぶ」。ここまで具体なら、本人と話せるし、調整も打てる。「発達っぽい」のままでは何も打てないうえに、口にした瞬間、会社側が法的リスクを負う。

(※困りごとを場面から特定していく聞き方の順序そのものは、診断のない「グレーゾーン」について書いた別記事で詳しく扱っている。今回あらためてこの領域に触れるのは、ラベルが先に出てしまった場面では、場面の特定より先に「土俵を移す一言」が要るからだ。)

この一連の動きには、もうひとつの意味がある。管理職自身を守ることだ。見立てを添えて受診を勧めれば、先の裁判例が示すとおり違法の認定に接続しうる。「甘えでは」と突き返せば、ハラスメントの認定と地続きになる。出来事ベースの確認は、対話を続けるための技術であると同時に、指摘する側が正当に守られるための技術でもある。

そしてこの技術は、発達障害の文脈を超えて効く。「メンタルが弱いから」「ゆとり世代だから」「もう歳だから」。職場には、確認を省略させるラベルがいくつも流通している。どれかひとつに「ラベルでなく出来事で話す」型を作れば、残りのラベルにも同じ免疫が働く。一人への返し方の設計が、職場の会話全体の精度を上げる。


個性か障害か、の外側で

テレビの議論は「個性か、障害か」を問う。どちらと呼ぶべきかは、本人の人生にとって大きな問いだ。ただ、職場が毎週扱うのはその問いではない。月曜に同じ業務が来て、同じ工程があり、そこで何かが起きる。起きたことをどうするか。

「それは特性なのか、性格なのか」と聞かれて、私自身、答えに詰まることがある。長く現場にいても、その二つは切り分けられない。それでも仕事は止められないから、切り分けないまま打てる手のほうを探してきた。

次にあの言葉を聞いたら、真偽の判定ではなく、確認に戻ってほしい。会社が知りたいのは障害かどうかではなく、同じ出来事を繰り返さない方法なのだと、そのまま伝えていい。

ラベルの真偽を裁く権限は、職場にはない。出来事を扱う責任は、職場にある。



「配慮すべきか、指摘していいのか」。この判定を、担当者は毎回ひとりで下しています。このnoteは、支援と企業のあいだに立ってきた立場から、その判定の足場になる考え方を書いています。

今回のような「言われた後の返し方」は、研修でもマニュアルでも扱われにくい領域です。同じ場面で止まった経験があったら、スキ(♡)で教えてください。届いた反応から、次に書くテーマを決めています。担当者が一人で悩まなくていいように、これからも現場で使える形にして書いていきます。よければフォローをお願いします。

ラベルへの返し方や、自社の面談・社内説明のしかたで迷うときは、プロフィールの「クリエイターへのお問い合わせ」からご相談ください。


出典・参考資料

  • ABEMA Prime「【発達障害】カジュアル化で困難が過小評価…個性か?障害か?理解度の現在地は?ADHD当事者と議論」(2026年7月12日放送)

  • 上司等が従業員に対し発達障害・自閉症である旨を指摘したことが違法と判断された裁判例:国立大学法人山梨大学事件(甲府地裁 令和2年2月25日判決)、イーライフ事件(東京地裁 令和6年1月19日判決)/参照:杜若経営法律事務所・労働コラム「上司等が従業員に対し発達障害、自閉症である旨指摘したことが違法とされた事例」

  • 厚生労働省「合理的配慮指針」(雇用の分野における障害者と障害者でない者との均等な機会若しくは待遇の確保又は障害者である労働者の有する能力の有効な発揮の支障となっている事情を改善するために事業主が講ずべき措置に関する指針・平成27年厚生労働省告示第117号)

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