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おかえりと言えるまで――「ただいま」を失った女と、十二歳年下の従弟の大人の恋 3

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第三章 十四年前と、白いドレス


 十二月に入ると、白糸屋の懸垂幕が変わっていた。

 金木犀の橙色が消えて、深紅の椿が一輪、白い背景の中央に据えられていた。花びらは整然としている。散っていない。形を崩さないまま、ただそこに存在していた。コピーが白い文字で書いてある。

  一度だけ、丸ごとあなたに。

 莉子は足を止めた。後ろから人が来て、避けるように横に動いた。

 椿は、花ごと落ちる。花びらが一枚ずつ剥がれていくのではなく、形を保ったままぼとりと落ちる。それを武家の世界では忌んだ。首が落ちるようだから、と。けれど莉子は、最後まで形を崩さないことを、誇りと呼んでもいいのではないかと思う。あるいは、丸ごと落ちることへの覚悟、と。

 一度だけ。丸ごと。

 このコピーを書いたのが渉だということを、莉子はもう知っていた。

 それがなぜかを考えると、寒い十二月の朝でも、少し体温が上がる気がした。上がる気がすることを、莉子は問題だと思っていた。問題だと思いながら、今朝で四回目だった。

        *

 メッセージが来たのは、その日の午後だった。

「少しだけ、お時間をいただけますか。見せたいものがあります」

 渉からだった。今日は打ち合わせも予定もない日だ。莉子はしばらくスマートフォンを持ったまま考えた。見せたいもの、という言葉が引っかかった。断る理由を探したが、また、どれも噓みたいだった。

「今日の夕方なら」と打った。

「ありがとうございます。六時半に、神楽坂の駅で」

 神楽坂。

 莉子はその単語を見て、少し息が浅くなった。資料の中に入っていた、あの路地の写真。「偶然じゃないです」と渉が言った。莉子が賢人と歩いた道を、渉は一人でロケハンして、写真を撮った。

「わかった」とだけ打って、スマートフォンを置いた。

 午後の仕事は、集中できた。数字に集中するのが、莉子には一番簡単だった。感情に付き合う必要がなく、正解が一つだけある。どうして恋愛はそうならないのかと思う。思いながら、仕事の正解を積み上げた。

        *

 神楽坂の駅を地上に出ると、渉がいた。

 コートを着て、片手をポケットに入れて立っていた。莉子を見つけると、小さく頷いた。笑わなかった。表情が、仕事の顔でも、雨の夜の顔でもなかった。少し緊張している顔だった。

「寒くなりましたね」

「うん」

「歩けますか。少しだけ」

「どこへ」

「すぐです」

 二人で歩き始めた。神楽坂の本通りを少し進んで、横道に入った。観光客が来るのは昼間の話で、夜の路地は人が少なく、石畳の濡れた光だけが続いていた。

 莉子は黙って渉の後ろをついて行った。路地が細くなり、蔦の絡まる壁が現れた。街灯の光が石畳を照らし、その影が壁に伸びていた。植木鉢が段差ごとに並んでいる。

「ここです」

 渉が立ち止まった。

 莉子は顔を上げた。

 知っていた。この場所を、知っていた。賢人と何度も歩いた路地だ。冬の夜はこういう色をしていた。石畳が雨のあとでもないのに光って見えて、蔦の影が揺れていた。賢人はいつもここで少しだけ歩調を緩めた。好きな場所だったのかもしれない。聞いたことはなかった。

「莉子さん」

 渉が言った。

 気づくと、渉との距離が近かった。路地が細いせいもある。でもそれだけでもなかった。渉が一歩、莉子の方へ寄っていた。

 莉子は動かなかった。

 渉の顔が、近かった。吐く息が白く、混ざるような距離だった。街灯の光が渉の横顔を照らしていた。莉子はその顔を見た。逸らさなかった。逸らす気にならなかった。

 渉が、さらに少しだけ近づいた。

 莉子の心臓が、一回だけ大きく鳴った。

 渉の吐く息が白かった。莉子のも白かった。二つが混ざって、消えた。路地に風はなかった。街灯の光が石畳を照らしているだけで、どこにも動くものがなかった。渉の顔が近かった。莉子は逸らさなかった。逸らせなかった、という方が正確かもしれなかった。渉の目に何かがあった。十四年間、ずっとそこにあったものが、今夜ここで距離を詰めていた。

 渉がさらに、あとほんの少し、というところで。

 スマートフォンが震えた。

 胸のポケットで、着信を知らせる振動が来た。出ないつもりだった。でも画面を確認すると、「お母さん」と出ていた。夜に母から着信が来ることは珍しい。

「ごめん」と莉子は言った。

「どうぞ」と渉は言った。一歩、引いた。

 莉子は電話に出ながら、渉の顔を横目で見た。引いた直後の渉の顔が、一瞬だけ、何かを逃した顔をしていた。すぐに消えた。でも、見た。

 莉子は電話に出た。

「莉子、今、大丈夫?」

 母の声は穏やかだったが、どこか測るような間があった。

「大丈夫。どうしたの」

「何もないんだけど、声が聞きたくなって。今日は、なんとなく。元気?」

「元気」

「寒くなってきたから、体に気をつけてね」

「うん。ありがとう」

 二、三言交わして、電話が切れた。

 渉は路地の端で、石畳を見ていた。莉子が電話を終えたのに気づいて、顔を上げた。

「近くに、入れる場所があります」

 声は変わっていなかった。

        *

 路地から二本外れた場所に、古い喫茶店があった。

 看板が色褪せていて、ガラス越しに店内が見えた。カウンターが五席と、テーブルが三つ。七十代くらいのマスターが一人でいた。二人が入ると、何も言わずに席を示した。

 向かい合わせに座った。

 コーヒーを頼んだ。運ばれてくるまでの間、二人とも何も言わなかった。言わないことが、さっき路地で起きかけたことを、まだ二人の間に置いていた。

「聞いてもらえますか」と渉が言った。

「うん」

 コーヒーが来た。渉はカップを持たずに、テーブルを見ながら話し始めた。

「賢人さんのことを、少し」

 莉子は手の中のカップを持ったまま、待った。

「入院中に、何度かお見舞いに行きました。莉子さんはご存知だったと思います。でも、一度だけ、莉子さんがいない時間に行ったことがあります」

「知らなかった」

「はい。莉子さんには言いませんでした」

 渉はコーヒーを一口飲んだ。置いて、また話した。

「亡くなる、一ヶ月くらい前です。莉子さんがしばらく席を外して、病室に二人きりになりました。賢人さんはもうあまり話せなかった。でも意識はありました。僕が椅子に座っていたら、賢人さんが突然、こちらを見た」

「見た」

「ただ、じっと。長い間」

 莉子は渉を見た。渉は正面を向いたまま続けた。

「何も言わなかった。僕も何も言えなかった。ただその目が、ずっと頭から離れないんです。怒っているわけでも、哀れんでいるわけでも、なかった。何か、全部わかっている目だった。莉子さんを好きだということも、それをずっと隠してきたことも、全部」

「賢人は、気づいていたと思う」

 莉子は静かに言った。

「あの人は、そういうことに気づく人だった。気づいても、何も言わないのも、賢人らしい」


 少しの沈黙があった。

「その目が、怒っていたと思いますか」

 渉が聞いた。

 莉子はカップを持ったまま、考えた。賢人の目を、病室で最後に見たときのことを思い出した。あの目は、怒りを持てるほど力のある目ではなかった。でも、見ていた。確かに、見ていた。

「わからない」と莉子は言った。「でも、怒りだけじゃなかったと思う。あの人は、人を憎むのが苦手な人だったから」

「莉子さんは、賢人さんに何か言われましたか。僕のことで」

「何も」

「そうですか」

「賢人は、言わなかったと思う。言っても、私が困ると思ったから」

 渉はうつむいた。しばらく黙った。それから顔を上げた。


「好きでした、賢人さんのことも」

 莉子は渉を見た。

「男として、ということじゃなくて。あの人は、正直で、不器用で、莉子さんに対して誠実だった。そういう人を好きにならずにいることの方が難しい。だから」

 渉は少しの間、止まった。

「だから余計に、自分が許せなかった。賢人さんが莉子さんのそばにいる間も、僕は莉子さんのことを考えていたから」

 莉子は何も言えなかった。

 言えない理由は、渉を責める気持ちがなかったからだ。責める気持ちがないのは、同じことを、逆の方向から自分も抱えていたからかもしれなかった。

「十四年前のことを、莉子さんは覚えていますか」

「何が」

「夏です。お盆の頃の、親戚の集まり。海の近い家で」

 莉子は記憶を探った。あの頃は集まりが多かった。特定の一回が浮かんでこなかった。

「覚えていないと思います」と渉は言った。「そういう話です」

「あなたは」

「覚えています」

 渉はコーヒーを一口飲んで、続けた。

「庭で転んで、膝を擦りむいたんです。大人はみんな縁側で話していて、誰も気づいていなかった。どうしようかと思っていたら、莉子さんが来た」

 莉子は、記憶の端を探した。

「白いシャツを着ていて、髪が長かった。今より長かった。莉子さんはかがんで膝を見て、何も言わずに家の中に入っていって、絆創膏を持ってきてくれた。貼りながら、〝痛かったね〟と言った。それだけでした」

「それだけのことを」

「ずっと覚えています」

 莉子はカップを置いた。

「十歳だったので、何かはわかりませんでした。ただ、そのあとも残ったんです。膝の痛みより、そのときの莉子さんの顔の近さの方が」

 莉子はコーヒーを一口飲んだ。

「あのコピーは、そういうところから来るんですか」と莉子は言った。打ち合わせの場でもなかったのに、聞いていた。

「コピーのことですか」

「誰かに向けて書く、という」

 渉はカップを持ったまま、少し考えた。

「言葉より先に、顔が来ます」と渉は言った。「この人に届けばいい、というところから書く。それ以外の方法を、僕は知らない」

「仕事として、成立するんですか。一人に向けて書いたものが、たくさんの人に届くかどうか」

「一人に本当に届いたものは、たいてい届きます」

 莉子は答えなかった。

 気づいたときには、もう好きだった。一度だけ、丸ごとあなたに。渉が書いたコピーが、頭の中で並んだ。一人に向けて書かれたとわかって読み直すと、違う重さがあった。

「十歳の子供が」

「はい。おかしいですか」

「おかしくはない」

 莉子は窓の外を見た。夜の路地が見えた。石畳に街灯が反射していた。

「その六年後に、莉子さんが賢人さんと付き合っているのを知りました。お正月の親戚の集まりで。そのとき初めて、あの夏の感触が何だったのかわかりました。名前をつけることができた」

「好き、という名前を」

「はい。つけた瞬間に、もう遅いとも気づきました」

 渉は静かにそう言った。感情を持て余すふうでもなく、必死に押さえるふうでもなかった。ただ事実として、言った。

「結婚式には、親についていきました。白いドレスを着た莉子さんを見ました」

 莉子は黙って聞いた。

「きれいだった。ただそれだけしか思えなかった。もう少し別のことを思う権利が、自分にはなかったから。賢人さんと、その目があったような気がした。向こうは気づいていなかったかもしれない。でも僕は、逃げるように目を逸らした」

「そんなことがあったの」

「はい」

 莉子はしばらく、何も言えなかった。

 十四年という時間の長さを、頭の中で測ろうとしたが、うまく測れなかった。莉子が二十二歳のとき、渉は十歳だった。干支がひとまわり違う。その事実を、莉子は初めて数字として確かめた。莉子が結婚したとき、渉は十八歳だった。莉子が賢人を看病していたとき、渉は二十二歳だった。その間ずっと、渉の中のどこかにこの感情があった。

「重い、と思いますか」

 渉が聞いた。

「重いか軽いかで言えば」と莉子は言った。「重い。でも」

「でも」

「重さが、あなたを困らせているようには見えない」

 
渉は少しの間、莉子を見た。

「困らせはしていません。ただ、持て余すことはあります」

「どういうとき」

「莉子さんの前にいるとき、全部です」

 莉子は視線を逸らした。窓の外の石畳を見た。逸らしたのは渉の言葉のせいではなく、渉の目のせいだった。あの目に、正面からいつまでも向き合っていられる気がしなかった。

「お姉さんみたいなものでしょ、私は。あなたにとって」

「違います」

「十歳の子供にとって、二十二歳の女の子は」

「今は二十二歳と十歳の話をしているんじゃない」

 渉が遮った。

 声に、力があった。穏やかだったが、初めて聞く種類の真剣さがあった。

「今の話をしています。今の莉子さんと、今の僕の」

 莉子は渉を見た。渉は莉子を見ていた。

「それは、わかってる」と莉子は小さく言った。「わかっているから、困っている」

「困らせているなら、すみません」

「謝らなくていい」

「でも」

「謝らないで」と莉子はもう一度言った。今度はもう少し低い声で。

 渉は頷いた。コーヒーを飲んだ。莉子もコーヒーを飲んだ。

 ジャズが遠くで鳴っていた。音量が小さくて、耳を澄まさないと聞こえなかった。それがかえって、二人の沈黙を、静かにしていた。

        *

 店を出たのは、九時を過ぎた頃だった。

 外は冷えていた。十二月の夜の空気が、息を白くした。

「帰ります」と莉子は言った。

「タクシー、拾います」

「一人で帰れます」

「知っています。それでも」

 二人で神楽坂の大通りに出た。タクシーを拾って、莉子が先に乗った。渉は乗らなかった。

「気をつけて帰ってください」

「うん」

 ドアが閉まる直前に、渉の顔が見えた。今夜の渉の顔は、いつもと少し違った。何かを置いてきた人の顔だった。莉子はそれを受け取った。

 受け取ってしまった。

 タクシーが走り出した。

 窓の外に、夜の神楽坂が流れた。さっき二人で歩いた路地が、一瞬見えて、消えた。

 莉子は窓に頭をもたれた。今夜は渉の肩ではなく、冷たいガラスに。

 携帯電話が、もう鳴ることはなかった。

        *

 帰宅して、コートを脱いで、椅子に座った。

 お茶を淹れる気にもなれず、そのまま座っていた。

 賢人が渉を見た、という話が頭の中にあった。病室で、一ヶ月前に、長い間じっと。怒りではない目で。何かを知っている目で。

 賢人は気づいていた。莉子はそれを確信した。気づいて、何も言わなかった。それが賢人だった。莉子が賢人に言えなかったことを、賢人もまた、莉子に言わなかった。二人はそういう夫婦だった。言わなくていいことを、言わないでいられる夫婦だった。

 それが、幸せだったのかどうかを、莉子はまだわからないでいる。

 スマートフォンを手に取った。

 渉にメッセージを打った。三文字ではなかった。

「賢人の目のことを聞いてよかった。あの人はそういうことに気づく人だった。気づいて、黙っていた。怒っていなかったと思う。あなたのことを、嫌いじゃなかったと思う。それだけは」

 送った。

 しばらくして、渉から返信が来た。

「ありがとうございます」

 一行あいて、もう一行来た。

「莉子さん」

「なに」と打った。

「神楽坂で、電話が鳴らなかったら」

 莉子は画面を見た。

 文章は、そこで終わっていた。続きはなかった。

 莉子はスマートフォンを持ったまま、長い間動かなかった。

 返信を打つべきか、打たないべきか、考えた。考えながら、自分が答えを知っていることに気づいた。知っているから、打てなかった。

 スマートフォンを、枕の横に置いた。

 電気を消した。

 暗い部屋の中で、賢人の目のことを考えた。渉の顔が、石畳の光の中にあったことを考えた。一回だけ大きく鳴った心臓のことを考えた。

 眠れなかった。

 眠れないまま、夜が深くなった。

 枕の横のスマートフォンが、もう一度光った。

 渉からだった。

「おやすみなさい」

 それだけだった。

 莉子は「おやすみなさい」と打った。

 打ってから、それだけでは何かが足りないような気がした。でも足りない分を埋める言葉を、まだ持っていなかった。

 画面が暗くなった。

 莉子は天井を見た。暗い天井に、さっきの路地の光が、まだ残っているような気がした。

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