おかえりと言えるまで――「ただいま」を失った女と、十二歳年下の従弟の大人の恋 6
第六章 山桜を、探しに
椿が終わろうとしていた。
三月に入って最初の週、白糸屋の前を通ると、ショーウィンドウの前に作業員が二人いた。深紅の椿のパネルを外し、新しいものを運び込んでいた。山桜だった。まだ完全には設置されておらず、白い背景の上に淡い色の花が半分だけ見えていた。
莉子は立ち止まらずに歩いた。
椿が終わる。金木犀はもう散って久しい。季節がまた一つ、先へ進んだ。
レシートは今日も財布の中にある。毎朝確かめるわけではないが、確かめなくてもそこにあることがわかる。五ヶ月以上、持ち歩いてきた。捨てようとは、もう思わなかった。
大阪の結論は、まだ出ていなかった。
渉から先週、短いメッセージが来た。「会社と話しています。もう少しだけ待ってください」と書いてあった。莉子は「わかった」と返した。それだけだった。待つ、という言葉が二人の間を行き来した。
*
白糸屋から連絡が来たのは、その翌日だった。
春キャンペーンのビジュアル最終確認を、メインの取引先に見てもらいたいという依頼だった。会計的な確認ではなく、関係者への事前披露の意味合いが強い。莉子の事務所に対してそういう依頼が来るのは、長い付き合いの証でもあった。
日程は三月の第二週。場所は白糸屋本店の会議室。
参加者のリストに、アーチ・クリエイティブの名前があった。
*
会議室に入ると、渉は窓際に立っていた。
山桜のビジュアルを印刷した大判の資料を手に持って、長谷川部長に何か説明していた。仕事の顔だった。研ぎ澄まされた、集中している顔。莉子はその顔を知っていた。知っていて、少し遠く感じた。先月の霙の中での「まだです」という声と、今ここにいるスーツ姿の渉が、同じ人間だということを確認するのに、一瞬かかった。
渉が莉子に気づいた。目が合った。
渉は軽く頭を下げた。莉子も頭を下げた。
打ち合わせが始まった。
山桜のビジュアルは、染井吉野ではなく山の中に勝手に咲く桜を使っていた。葉と花が同時に開く、遠目には地味な桜だ。でも近づくと清潔な美しさがある。コピーが白い文字で入っていた。
見つけてくれた人だけに、咲いている。
長谷川部長が「春らしくて良いですね」と言った。担当者が頷いた。莉子はコピーを読んだ。もう一度読んだ。財布の中のレシートが、遠くに感じられた。
打ち合わせは一時間で終わった。
*
帰りのエレベーターで、渉と二人になった。
「少し歩けますか」
渉が言った。
「どこへ」
「どこでもいいです。少しだけ」
エントランスを出ると、三月の光があった。冬の光より柔らかく、でもまだ温かくはなかった。二人で銀座の裏通りに入った。人が少なかった。
「大阪は」と莉子は言った。
「二週間、待ってもらっています。来週中には返事をしなければならない」
「そう」
「莉子さん」
「なに」
渉は歩きながら、少し前を見た。
「あのコピー、莉子さんに向けて書きました」
莉子は歩調を変えなかった。
「知ってた」
渉が歩みを緩めた。
「知ってたんですか」
「途中から」
渉は少しの間、黙った。
「金木犀の頃から、ですか」
「椿の頃には、たぶん」
「そうですか」
それだけで、コピーの話は終わった。決め台詞にはならなかった。ただ、確認した。お互いが知っていたことを、確認した。
二人でしばらく歩いた。並木の枝に、小さな芽がついていた。まだ開いていなかった。でも、そこにあった。
*
路地の奥に、小さなカフェがあった。
前に一度、渉と入ったことのある店に似ていたが、別の店だった。二人で入って、窓際に向かい合わせに座った。コーヒーを頼んだ。運ばれてくるまで、会話がなかった。
渉がコーヒーを受け取ってから、カップを持たずにテーブルを見た。
「莉子さん」
「うん」
少しの間があった。
「変なことを言ってもいいですか」
「聞く」
「莉子さんが動いてくれた後で、こんなことを言うのは」
渉は言いかけて、止まった。
「情けないですが」
「いいから言って」
渉はテーブルを見たまま、続けた。
「怖いんです」
「怖い」
「受け取り方が、わからない。十四年、ずっと待っていたから。待つことは知っています。でも、選ばれた後に何をすればいいのか。莉子さんが来てくれた後に、どうすればいいのかが」
渉の声は静かだったが、いつもの安定した静かさではなかった。何かが揺れていた。揺れているのに、抑えようとしていた。
「こんな話を莉子さんにするべきじゃないとわかりながら、言いたくなってしまいました」
莉子は渉を見た。
渉は顔を上げなかった。テーブルの、コーヒーカップの少し手前を見ていた。この人はずっと待ってきた、と莉子は思った。十四年間、選ばれない側にいることで、自分を定義してきた。その定義が今、ずれようとしている。喜べばいいはずの瞬間に、足場がなくなる感覚がある。そういうことが起きているのだと、莉子はわかった。
何か言うべきかもしれなかった。
大丈夫、とか、怖くない、とか、そういう言葉を莉子は探した。でも、そのどれも嘘みたいだった。大丈夫かどうかは、わからない。怖くないとは言えない。莉子自身も怖いのだから。
莉子の手が、少しだけ動いた。
止まった。
もう一度動いた。テーブルの上に、出した。渉の手に、重ねた。
渉が動かなかった。
莉子も動かなかった。
触れた。それだけだった。指と指の間に体温があった。渉の手が、思っていたより少し冷たかった。外を歩いてきたからかもしれなかった。
「私も怖い」と莉子は言った。「あなたも怖い。それは一緒」
渉は何も言わなかった。
莉子の手の上に、渉の指が静かに折り重なった。握るのではなく、ただ重なった。
窓の外を、人が通った。三月の光の中を、普通に歩いていた。世界は普通に動いていた。このカフェの窓際だけで、何かが少し変わっていた。
どれくらいそうしていたか、わからなかった。コーヒーが冷めかけた頃、渉が息をついた。
「ありがとうございます」
「何が」
「言わせてくれたことへ」
莉子は渉を見た。渉が、ようやく莉子を見た。
目が、少し赤かった。泣いていないのに、赤かった。こらえているわけでもなく、ただ何かが顔に出ていた。この顔を、莉子は見たことがなかった。
「渉」
「はい」
「大阪のこと、会社と話してみて」
「はい」
「それから、また話しましょう」
渉は頷いた。莉子は手を引いた。引いてから、少しだけ名残があった。
*
カフェを出た。
二人で白糸屋の前まで歩いた。もう並んで歩くことが、前ほど不自然ではなかった。距離が、三月の光の中で少し変わっていた。
白糸屋のショーウィンドウに、山桜のビジュアルが設置されていた。
見つけてくれた人だけに、咲いている。
莉子はそれを通り過ぎた。立ち止まらなかった。
渉が歩調を合わせた。二人で、ポスターの前を通り過ぎた。
「見なくていいんですか」と渉が言った。
「もう見た」と莉子は言った。
「さっきの会議室で」
「そうですね」
「渉」
「はい」
「山桜って、誰かに見てもらうために咲いているわけじゃないんでしょ」
「そうです」
「でも」
莉子は少しだけ歩調を緩めた。
「見つけた人が、いる」
渉は何も言わなかった。
でも歩みは続いた。並んで、同じ速さで、三月の銀座を歩いた。
駅の前で別れた。
「また連絡してもいいですか」と渉は言った。
「どうぞ」と莉子は言った。
渉は軽く頭を下げて、人込みの中に入っていった。消えた。
莉子はしばらく、その場に立っていた。
財布の中のレシートが、そこにあることを確かめた。確かめながら、少し笑った気がした。自分が笑ったことに、気づいたのはその後だった。
大阪の結論は、まだ出ていない。
でも今日、渉の手が冷たかったことを、莉子は覚えていた。そして指が重なったことも。言葉より先に触れたことも。
それで今日は、充分だった。
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