世上洒落見絵図③~しゃれすぎるとどうなるか、江戸のマンガはこう描く
しゃれの多い江戸時代に、しゃれがいきすぎる様子を描いたマンガ作品。
黄表紙「世上洒落見絵図」は、山東京伝(1761~1816)作、菊亭画、寛政三年1791年に蔦屋重三郎から出版された。菊亭は、京伝の別名。
三巻三冊の現代語訳(かなり意訳)を三回にわたって紹介する三回目、最終回。
下巻
十三

かくて京伝は、世の中のしゃれてきた様子を草双紙に中巻まで書き、その後の工夫を考えていたところへ、戸をたたく者あり。京伝、それを聞き、
「ははあ、蔦屋の主人かな。草双紙の催促なら、まだようやく中巻までできて、下巻はまだできぬぞ」
と言えば、
「いやいや、そのような者ではない。われは、去年もなんじの筆でえがかれた天帝なり。ここを開けよ」
と、のたまう。
京伝「僧はたたく、月下の門。これは推敲の故事成語だ。おう、と言えど、たたくや雪の門。そのような風流な者ではあるまい。悪くしたら借金取りかもわからねえ」
十四

天帝のたまうは、
「ここは、さしずめ、なんじの夢の中に出てくる場所なれど、こんなしゃれの世の中に、そんな古い趣向では、読者にスコタンと思われるのも残念なので、実際に出てきたなり。さて、なんじ、このごろ世の中のしゃれた草双紙を作っていることを知ったので、しゃれた結果がどうなるかを見せようとやって来たなり。早く、おれと一緒に来い。また、読者が夢の話だと思ったらこまるので、ねむそうなら、よ~く目をさまして歩きやれ」
と、天帝、おどけまじりに、のたまう。
十五

天帝は京伝を連れて、どこへともなく行きけるが、どこか海の端のようなところへ行き、そこらを見れば、土ではなく、石でもなく、木でもない、なんだか朽ち果てたかたまりが、いくつもある。
天帝のたまうは、
「これがみな、しゃれがこうじた者じゃ。このひとかたまりが武士、百姓、職人、商人、儒者、仏者、神道者、医者、俳諧師、芸者、太鼓持ち、そのほかいろいろな人のしゃれたものじゃ。
なかでもひときわしゃれているのが通人と女郎のしゃれたものじゃ。なんと、もとの姿がわかるまい。こうでもない、ああでもないと、だんだんしゃれしゃれして、ついには、こんなわからないものになる。今どきのしゃれは、しゃれてえ、しゃれてえで、みんなその場かぎりのものだから、本当の意味を失って、このように、もとの姿をなくしてしまう。しゃれだしゃれだと思って、もとを忘れることが多いから、こうなってしまう。なんと、珍しいものを見ただろう」
と、のたまう。
通人と女郎のしゃれたのは、こんな姿になっても、やっぱりしゃれを言っている。
「世の中の野暮なやつらは、こういうひねった姿は知るまい」
「こんな粋な姿が流行っていることも知りませんのさ」
十六

たとえば、海にある貝殻がしゃれるようなもので、はじめはサザエやアワビのごつごつした貝なれども、こうでもない、ああでもないと塩にもまれ、波に打たれて、ついにはなんだかわからない形になってしまう。それと同じで、草双紙も、あまりにしゃれると本意を失う。
「なんじは、しゃれてはいないと思えども、それ見ろ」
と、天帝が鏡を見せれば、京伝の体も、だんだんしゃれてきて、ついに朽ち木のようになる。
京伝「人のことばかり目くじら立てて、おれはしゃれぬと思っていたが、これはたまらぬ、もう半分しゃれかかった、だれぞ、とめてくれ~」
天帝「おれも、とめてやりたいが、おれにもどうしようもない。しゃれての後のご了見さ」
京伝「これはどうだ秀郷、としゃれたら、また半分しゃれてきた。しゃれが高じて物狂いと言ったら、みんなしゃれてしまった」
天帝「過ぎたるは及ばざるがごとしと古語のいうとおり、味噌は味噌くさいのは困るけど、武士は武士くさく、町人は町人くさいのがよい。しゃれすぎると、みんなこうなるぞ」
十七

天帝つらつら思いたまうは、これはつまらぬものじゃ。なんでも、このしゃれた連中を、もとのとおりの人間にしなくちゃならねえと、造化の神を集めてご相談のところへ、大千世界の幕の中から、
「しばらく、しばらく」
と声をかけて出てきたのは、まだ草双紙には初舞台の弥勒菩薩なり。弥勒菩薩は、五十六億七千万年後に、この世に現れて、人々を救済するといわれている。
弥勒菩薩「しゃれた連中を、もとのごとくするためには、われらが受け取る。さあさあ、われらに渡したまえ」
と、のたまう。
天帝「おれの相談の場所へ、しばらくしばらくと声をかけるやつは、なにやつだ、ええー」
京伝は、こんな姿になっても、気ばっかりは強くて、同じように、
「なにやつだ、ええー」
と言う。
弥勒菩薩「当時繁盛、北郭青楼、意気発行、天地てんつんの、すががきに浮かれいでたる大通仏、大千世界の花道の、こなたに安置したまえば、ちょっと待ってくれの鐘、遠からん者は音に聞け、近くはよって聞け、弥勒菩薩のこのセリフ、だれもちっともうれしがらねば、これを弥勒しゃれ損ともうしたてまつる。
われをだれと思うか。姓は慈、名は弥勒、字は阿逸多、見知ってくだせえ。ああ、ばかばかしい」
十八

かくて天帝は、
「世の中を弥勒仏に渡すのは、まだ何億万年も後のことだが、人間の風俗だけは直してくりゃれ」
と、たのみたまえば、弥勒菩薩、請け合って、例のしゃれた連中を集め、古い人形を直すように、色を塗り直し、衣装を着せ替えた人間は、すなわち、昔の絵のようになり、少しもしゃれのない世の中となり、若やぐ春にも、もちろんしゃれず、やっぱり古風に、
めでたしめでたし
江戸時代の話ではありながら、何か今の時代を彷彿させるような物語。
江戸から学ぶことはまだまだありそうだ。
最近はテレビのコマーシャルにも出てくるようになった天帝が出てくる京伝の作品は、
最終十八場面で、昔風の挿絵が出てくるが、こういう挿絵の変遷を京伝が絵師として描いた作品はこちら、
