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この苦しみを生き延びたら、いつか、美味いお好み焼き屋で乾杯しよう: 安心して絶望するための人文知セット

この二つのエッセイの、私の基盤を整理しようと思います。SEKAI NO OWARIの作品を冒頭に掲載したのは、個人的な記憶と、読者が安心して読むことの境界を願ってのことです。



お好み焼き屋さんのソースの香りは、うちの残念な父の好物なのでタイトルに選びました。ラーメン店ではお話ししにくい、高級レストランは不慣れなので、だいたい日本全国にあるかなぁと思い選びました。うなぎの老舗なども、お話しするのに素敵ですね。塩焼き美味しい。

コンビニでおにぎり買って、公園でピクニックとかもいいですね。

はじめに

不幸自慢は意図しません。7歳、小学一年生の冬に研究者だった父が鬱病に倒れました。父方の家系が、多発家系の可能性があります。12歳、小学六年で父が自死しました。また、早生まれだから4学年下、年齢で5つ下のきょうだいは進学校から大学へ進み卒業式で総代のスピーチを頼まれた頃に、メンタルを壊し療養生活に(卒業できています)。そして、2017年に急に意識を失い事故で亡くなりました。

父方の親族で診断を受けていない方もいるので、病名がついている者だけでも、伯父・父・きょうだい・私の4人分の無念を背負っています。

例えば父は、伯父のことを母に隠すために嘘をついたことが露見した時に「俺だって親になりたかった」と言いました。父は、夫というより妻に対して息子みたいになる精神性だから、父や夫は向いていません。なお、その子ども2名は独身で親になっていません。私は人生の選択を、全て病気のせいにするつもりは無いです。しかし父は、自死せずに自分の行動の結果と向き合い、説明責任を果たすことが、「俺だって親になりたかった」という言葉を守ることになると思います。

単純に、12歳で壮年の彼を亡くしているから、話してみたかったという気持ちはあります。工業高校出身で手先の器用な人だから、教えれば、水餃子の皮に具を等しく乗せるとか、綺麗に包むことも覚えるかもしれない。そんな時間が、一生に3時間でいいから持てたら良かったのに、とは思います。

けれど、1980年代の医療と、彼自身の専門以外の教養の欠落から、あれが限界なのだろうと考えています。

読者への説明と約束

①本稿は文学と哲学を用いて生きることの実践です。私は医学や心理学の訓練を受けておらず、資格も持ちません
②苦しみ助けを求めているのではありません
③本稿の末尾に希死念慮に関する情報源などがあります
④治るとか効くという話はしません
⑤押し付けは誰も幸福にしないから、ネットにこうして文章を置いておきます。必要な方は、ご利用ください

私の理解する希死念慮

私の体験では希死念慮は5レベル(パターン)の組み合わせに思えます。

  1. Lv1:気分

  2. Lv2:考え

  3. Lv3:誘惑(心地よいもの。電車などに引っ張られる感じ)

  4. Lv4:直感の暴走(理屈抜きでべき思考が降ってくる感じ)

  5. Lv5:マグマみたいな衝動(癒えない傷そのものかもしれない)

上記だとLv4まで経験しましたが、一人暮らしで事故を起こさないのは幸運だったと感じます。Lv5に関しては未経験です。おそらく、精神科の閉鎖病棟での高度な安静が必要でしょう。

「Lv1:気分」は、健康な方も「もう嫌だ、うんざりだ、限界だ」といった形で経験するかもしれません。「消えてしまいたい」も、私はここだと考えています。

「Lv2:考え」は、どう考えても詰んだと、自分で反証出来ない状態です。納得が伴うかはともかく、視点の柔軟さが保てていません。

「Lv3:誘惑(心地よいもの。電車などに引っ張られる感じ)」は、電車に引っ張られることが心地よいのではなく、引っ張られ方が不快ではないのが怖いのです。美しい浜辺と波の引く力のイメージ。危険を察知しにくい静かな力。

「Lv4:直感の暴走(理屈抜きでべき思考が降ってくる感じ)」は、「Lv2」と比較して自分の制御権を持ってかれるイメージです。直感は、論理的思考能力より早くてパワフルなので、お手上げです。とはいえ直感も私であり価値観は同じだから(私の一面だから)、真面目な性質を利用して、私は、「絶対に他人に迷惑かけない方法ある?」と疑問を与えました。そして、直感が律儀に考え続けて、脳が疲れてパワーダウンしたところで、予約外で受診しました。人生で一度だけの経験です。眠れぬ夜の攻防でした。

「Lv5:マグマみたいな衝動(癒えない傷そのものかもしれない)」は、例えば担任に2年間悪意を向けられたことや、父の自死など、未成年が受けても自衛しにくい傷を受けているため、心の底の底にマグマのようになった癒えない傷がある、感触や気配を感じます。

経験則ではストレスや疲労などで、例えば不眠が現れるパターンと似ているため、負荷をかけると「Lv」も大きくなり複雑化すると理解しています。ようは、ガソリンスタンドにいるのなら火気厳禁なように、リスクを大きくしないような管理の仕方をしています。

絶望の話

絶望とは、論理的思考能力の副産物だと思う。カフカや村上春樹が描いたシステムと疎外、それは人身売買は禁止なのに労働力は市場で取引できることに伴う「私の一部の抽象化」や、共同体が影響力を失い都会化が進み孤独を感じやすくなること、つまり文明の恩恵とトレードオフの疎外と近いと思われます。つまり、絶望の耐性は現代人は獲得すると有利です。

絶望と希死念慮は似てるけど違う

絶望は、希死念慮と似ていますが、異なります。

「もうだめだ」は共通しても、「だから信じられないとか憎悪するとか」は絶望「だから生きていたくない・生きていられない」は希死念慮でしょう。

希死念慮はストレスと因果関係があります。絶望も、おそらくストレスと相関関係はあるでしょう。そしてどちらも、医学や心理学の知識が効果的ですし、哲学・神学・宗教学・歴史・文学などの知識を持つと、対処しやすくなります。私の父は、ここが無防備だったのです。

哲学の実践

希死念慮は、答えられない問いを問うという身の守り方もあります。「メンタルの疾患や障害を診断されていて、症状として希死念慮が起きる。それ、どこまで私の真意だろう? 病が影響していないだろうか」と問うと、100%真意と答える根拠を、私は知りません。(スイスなどの安楽死とは、区別して私のケースに限定しています)

  1. アリストテレス「では形而上学はいかがかな」

  2. ジャン=ポール・サルトル「実存は本質に先立つから、あなたが決めていい」

  3. アルベール・カミュ「その不条理、シーシュポスみたいに反抗しよう」

  4. ヴィクトール・フランクル「人生が私に何を問うているか考えてみませんか」

  5. レヴィ=ストロース「では構造を抽出しましょう」

  6. ジャック・デリダ「脱構築しましょう」

  7. ジュディス・バトラー「パフォーマティビティーで考えると、それは社会からのどんな要請? 自己決定出来ることは理解している?」

まず、哲学はこんな感じで、「絶対絶望させない打線」が強いです。とくに、実存主義と形而上学は絶望の耐性として有用です。

絶望とは何か、形而上学的に考え抜けるし、「絶望があったとしてだからなんだ」という姿勢を保てるのが実存主義です。

認知行動療法との親和性

  1. 認知行動療法の「解釈の選択」は、サルトルの「実存は本質に先立つ」という考え方と共鳴します。つまり、私たちは自分自身の意味づけを選ぶ自由があります。そう思えない日があっても、投げ捨てなくて大丈夫。

  2. カミュの「不条理への反抗」のアイデアは、認知行動療法で言うところの「苦しくなる解釈をわざわざ選ばなくてもいい」という考え方と通じるものがあります。反抗は立ち向かうだけでない、総合的な判断です。

  3. フランクルの「人生が私に何を問うているか」という問いの逆転は、認知行動療法などのリフレーミングの一種と見ることもできます。

認知行動療法における「リフレーミング」や「外在化」は、基本的に「事実」を所与のものとして受け入れた上で、その「解釈」や「意味づけ」を変更する試みです。

例えば:
リフレーミング: 「失敗した」という事実は変えずに、その意味を「貴重な学習機会だった」と再解釈する
外在化: 「不安」を自分自身から切り離して、対象として観察する

一方、デリダの「脱構築」はより根源的な質問を投げかけます。それは「その事実は本当に事実なのか」という問いです。脱構築は「事実」とされているものの中に隠された前提、二項対立、権力構造を暴き出し、私たちが「事実」と呼んでいるものが実は社会的・言語的に構築されたものであることを明らかにします。

具体的には——

  1. 事実性の問い直し: 「私は無価値だ」という「事実」と思われているものを、その構築性において問い直す(認知行動療法なら「反証」を書きますよね)

  2. 二項対立の解体: 「成功/失敗」「希望/絶望」といった単純な二項対立を解体し、その間に存在する豊かで複雑なグラデーションを見出す。うちの父は、白か黒かみたいなバイアスがある人でした。

  3. 意味の延期:デリダの「différance(差延)」という概念を通して、絶望的な状況の「最終的な意味」は常に先送りにされること、つまり未来が常に開かれているという認識に至ります。たとえば「今は絶望的に見えるが、それが後にどう解釈されるかは未定である」といった視点です。これは、判断材料は必ず足りなくなることを理解した上で持つ、知的な謙虚さとも言えるでしょう。

神学・宗教学・仏教など

私にとって神学は、プロテスタントの神学が中心です。宗教学は、人が神を作ったことを説明できます。また、仏教の知識など一神教以外の、かつての共同体で信じられていた考え方や世界観を理解しています。これは、異なる視点を伝統の側から持つことができます。

この領域が強いのは、伝統的な世界観の範囲なら、生きる意味は明確である点です。

歴史は見通しが良くなる

歴史は宇宙の始まりから現代までのおおよその流れ、魚、両生類、爬虫類、鳥、哺乳類という脊椎動物のおおまかな歴史、そしてホモサピエンスの歴史。

農業革命、科学革命、産業革命、情報革命という流れで一万年くらい流れています。メソポタミア文明などから五千年。歴史は、我々に時間的な見通しを持たせてくれます。また、無数の失敗があるので、現代起きていることを読み解くのに重要です。


言葉にならないことをどう言葉にするのか?

そして文学。言葉にならないから、写真や動画にしたり、プレゼントを作ったり、料理に心を込めるのではないでしょうか。ところが、言葉にならない気持ちを、言葉で作品にするという無茶なことを人は行えます。それはどんな工夫でしょう?

例: 夏目漱石『吾輩は猫である』の工夫

例えば、漱石のデビュー作を振り返ってみましょう。

漱石のリズムとグルーヴは、「長文の中に生きるユーモア」「語彙の豊かさ」「猫の語り手というユニークな視点」によって形作られています。滑らかで軽妙な語り口は、音楽に例えるなら、クラシックとジャズが混ざったような「変拍子の中の整った旋律」かもしれません。おしゃれですよね。

落語のリズム

『吾輩は猫である』の語りは、どこか「長屋の噺家」のような調子です。話が逸れては戻り、ユーモラスに締める語り口は、まさに落語の世界観に通じます。テンポの良さと「間」が、読者に心地よい笑いを誘います。

江戸言葉

猫の語りには「べらんめえ調」や、庶民の言い回しも多く登場します。たとえば「箆棒め」「べらぼうめ」などは、単なる言葉以上に江戸の文化的背景を背負っています。これにより、文語体から移行した新しい言文一致文体に、生活の匂いと地域性が加わりました。

漢語の知識

語彙の中には「獰悪」「形勢」「気焔」など、高度な漢語が自然に混ざっています。これにより文体に格調が加わり、「猫である」という滑稽な主語とのギャップが、逆に知性とユーモアを際立たせています。

英語の知識

漱石は英文学者としての教養を持ち、英国風の構文的思考や比喩、観察眼を日本語文体に取り入れています。構文が長く論理的なのも、英語的リズムの影響といえます。

イギリスのユーモア(皮肉・風刺)

猫の視点で人間社会を俯瞰し、教師や芸術家、家庭人の滑稽さを描く手法は、ジョナサン・スウィフトやディケンズの系譜を想起させます。とくに、漱石自身の職業(教師)を皮肉るくだりなど、知識人である自分自身をも俯瞰して笑いの対象にする姿勢は、非常にイギリス的です。

猫の視点という発明

猫という「無責任な第三者」でありながら、家の中に入り込め、かつ社会を俯瞰できる存在を語り手にしたことで、漱石は批評する自由な視点を得ました。猫自身のミステリアスで哲学的な様子に、漱石がアテレコしたら文学になったのですね。


言葉にならないことを、語るための工夫を、例えば漱石はこう行いました。他の文学作品もぜひ分析なさってください。

このように、言葉にならないことを、古今東西のあらゆる人々が言葉にしてくれているから、自分で0から考えなくても、先人から学ぶことができます。

私の中の絶望の答え

まず、希死念慮はストレス、心の傷、症状などと関係すると認識しています。
次に、答えは、自分で掴み取るものだと思います。例えば答えがないと断言する方は、それを選ばれたのでしょう。

その上で、絶望とは、論理的思考能力の副産物だと思えるのです。

例えば答えがない問題や、トロッコ問題みたいにどちらを選んでも選択肢が酷い問題もあります。そして、仮に答えがあったとして、その答えに納得できるかは別問題です。

「そういうことなら、私の抱える無念も理不尽も、仕方ないですね」とは、なかなか言えないでしょう。一度きりのユニークな人生だからこそ、受け入れ難い。

我々は自分の足元の影に怯えることはありません。あるのが当たり前で、見慣れているからです。

絶望は、論理的思考能力の誤用で起きると、私は思います。希死念慮は、ストレスや心の傷などと関係します。どちらも、影と同じだと、私は認識しています。
絶望と希死念慮は、そこから行動に結びつくことが危ないので、そこを丁寧に慎重に扱えば、足元の影と同じくらい無害な存在になります。

絶望や希死念慮自体が本当に問題でしょうか? 

経験しても、自暴自棄な行動(自死や拡大自殺など)と結びつかず、心の中の奥の奥に誰にも触れさせない深い藍色の静かな領域がある状態であれば、それは誰の人生も破壊せずに、穏やかに共存出来ると私には想えるのです。

読者への説明と約束

そんなことあるのかな? 是非、疑って検証してください。ネットに書いてあることを、鵜呑みにせずに確認することは、とても大切なことです。この文章も、例外ではありません。

この記事の終わりに

お好み焼き屋さんのソースの香り、鉄板の音と熱気、浴衣の人々が集まる縁日。神社の参道の両脇にずらっと並んださまざまな屋台。夜桜の幽玄さとは異なる、祝祭的な熱気だけれど、黒く染まる夜と人工的な光のコントラストの向こう、百鬼夜行的に何か混ざっていても不思議がない空気感も懐かしいです。

石窯で焼くし味も違うけれど、そんな縁日にピザ屋さんも出店してくれたら嬉しい。縁日なら、両方少しずつ立ち食い出来ますね。

巻末メモ

形而上学
アリストテレスも本を書いている哲学の領域です。存在とは何か? みたいな高度に抽象的で、定義が難しいことを扱えます。答えを出すというよりは、考える道具を他の領域に提供する分野に思えます。

脱構築
エッセイにも書いたように、脱構築は前提を疑い、「それは何なのか」という問い自体を揺さぶる哲学です。もしこれを絶望の文脈に応用するなら、私たちがどのように自己を選択するか、そして解釈が常に複数存在するという点は、認知行動療法やナラティブアプローチにも通じます。脱構築は、その根拠である「事実」自体の構築性を検証することができるのです。

パフォーマティビティー
社会からの要請で、繰り返し役割などを演じることで、我々のアイデンティティが形成される理論です。ジェンダーの議論から生まれていますが、人の本質への理解の深さから、様々な領域で援用できます。これも、自己決定に根拠を与えてくれる視点です。


Photo by Min An from Pexels:

https://www.pexels.com/photo/moon-and-stars-813269/


関連note

英語でも書いてます





部活動

プロフィール・文責

自著

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Audibleでオススメ教えありますか? エッセイやビジネス書、講演録が好きです。



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三澤直己 | カラストラガラ / Trgr | フォロバ100% ここまでお読み下さり感謝。各種SNSでのシェアも励みになります。非営利の取り組みが多いため、チップのご検討、助かります。