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翼と牙を奪う――母が見た昭和の逃げられないもの

僕の同世代の団塊の世代ジュニアもそうだし、オタク第一世代の方々もそうだし、まして20代・30代の方々は、優しい。

ハラスメントやひどいことをする事例はあるけど、1970年代前半に「行き遅れ(24歳過ぎると周囲から圧がかかる)」として結婚した母の「逃げられなかった挫折」は、「なぜ離婚せずにそうなる」と、多くの方が困惑するかもしれません。あの時代を家族のために一方的に犠牲になるしか選択肢が無かった20代後半の母の来歴を、書ける範囲で正直に開示することにしました。

プライバシーと読者への配慮

当たり前だけど話したくない・書きたくない母に無理に書かせてはいません。すべて済んだことを、個人史・昭和の回想として記録しました。恩師のこととか、掘り下げが足らないとしたら、それは祖父や父のように家族・遺族として判断出来ないことも一因です。また、母の無念さとか心の傷もあると思うので、78歳の今、心身に負荷をかけることを避けています。
ここは母の能力不足ではなく、助手としての私の力不足であり、もし編集者さんが担当されれば工夫も出来ると思います。

端的に言えば、当時の母は社会、とくに「女性社会」から切り離され孤立していました。

書き残す意図

母世代の「落とし穴」を書くことで、現代で同種の問題を再発予防出来るかもしれないし、親や祖母の世代がなぜ自己犠牲しすぎるのか理解するための前提になると考えました。また女性だけでなく、「いい子」でいないと生き残れない立場を経験した方が、時代も環境も越えて「ここに私がいる」と思えたら、その方が「孤立」せずに済むかもしれない。
そう私は考え、母の語りを整える助手をしました。

裕福な家の父が貧しい家の母から奪うということ

体力が無い私が家事と仕事で潰れるのは
時間の問題でした

話が違うと離婚も考えましたが
大きな式も上げましたし苦労した父が
悲しむ姿が浮かぶので、耐える道を選びました

出典: 挫折、ブレーキ、感覚遮断――昭和のおばちゃんの来歴
URL: https://note.com/p_s_n/n/nc8354e3161ba

家事をやる。子どもの頃、火吹き竹でご飯炊いたり風呂沸かしたりしたよ。と、プロポーズする頃に父は母に話しています。嘘ではないです。ただ、電気炊飯器でご飯をおしかけせずに水入れて炊くだけが出来るようになったのは、亡くなる数ヶ月前くらいのことでした。
父はギャンブルしないし、貯金もするし、夏休みの家族旅行はするし、いいお父さんだと自認していたと思います。ただ、やってることは夫ではなく、妻への振る舞いが「長男」なんです。精神的な自立がおかしい。

彼は学区で一番いい工業高校に行き、大手企業の研究所に勤め、助手で終わると18歳で気が付き、夜学で数学を学び、私大の修士博士を出てキャリアを変更しました。家庭内暴力で苦しんだ彼ですが、この時期は家族の希望の星なので、応援があります。祖父は末っ子だから相続は無いけど、会社員として資産形成出来るし3回徴兵されたから金額は知らないけど軍人恩給もあるので裕福です。だから父はお金の苦労はしていません。

明治・大正の頃は『花子とアン』みたいに子守しながら登校する児童もいましたが、1950年代は無かったそうです。祖父が幼い母を背負い田畑で働き、母が眠くなると祖父の上着で即席のベッドを作り畑の脇の草の上で寝てる状態でした。当時20代前半の女性の担任(母のきょうだいの担任)が状況に気がついて、校長と調整して小学校に連れてこれるようにして下さったとのことです。臨時の母専用保育園です。

おそらく幼稚園くらいの4,5歳は自分用の椅子があり、授業を聴いたりしていたそうです。父は幼稚園行ってます。

母は私大の学費を全部働いて出してるし、本代も稼いでいます。足が悪いけど百貨店の紳士服売り場の売り子もするし、単位とってバイトして、祖父の仕事も家の仕事として手伝い、体を休めて、教育を受けました。祖母が生きていれば祖父も経済的余裕が出来るので、こう苦労せずに済んだでしょう。

民間の企業で教育産業に従事しているので、結婚する頃は、父が助手のはずだから所得は母の方が多い段階です。共稼ぎが出来なくする、足の悪い妻が努力して得た経済力を失わせる(キャリアを壊す)ことが残酷だと、父は理解出来ていません。

西洋美術館も遠い

月にいちどは西洋美術館へ行って
心のバッテリーをチャージする必要がありました

企画展は多くの方がこられるので
西洋美術館が混雑します
そんな時は上野の森を動物園や不忍池など
美術館の外の自然を楽しみ
チャージが済むと家に戻りました

自分の中にたまった何かを放電し
西洋美術館の好きな絵の前に立っていられる静けさや
上野の森から無形の何かを受け取り
灰色の町へ戻る、そんな人生の季節がありました

出典: 放電と充電――灰色の町で息をすること
URL: https://note.com/p_s_n/n/n37db68e1b459

父は新婚時に都内にマンションを買い、神奈川にマンションを買い、神奈川で戸建ての家を買っています。慎ましく暮らす倹約家ではありますが、経済的に不自由はしていません。妻に「実家行っておいでよ」「西洋美術館行ってきなよ」と、休日に子どもを見てるから行けと言える経済力はあっても、気遣いが出来ない人です。

黙ってるから、何も問題は無いのだろうと考えたのだと思います。
父は悪意の有る人間ではないけれど、時代の限界があったとはいえ、迷惑な人です。

なぜ逃げられないのか

母は気の弱い少女ではありません。1950年代の農村のいじめは現代や1990年代とは質が違います。卑怯なことをするなが通じるので、ワルガキもそれはお前が悪いと先生や大人から叱られます。

小学5年生で松葉杖を隠されて下校出来なかった時。クラスメイトはすぐ帰るし、クラスの後ろに立て掛けてある松葉杖を取りに行き下校するので、母は行動が遅いです。クラスの中は机で体を支えられる。松葉杖無いと気がつく。隠されたことはすぐ分かる。当直の先生がいずれ来ることは分かるので、それを待って、事情を話し、先生が探してくれるのを待つ胆力があります。泣いたりパニックを起こさないタイプ。

対して、「貧乏・母がいない・足が悪い」と、健康優良児と表彰されるジャイアンみたいな子が、おそらく勉強などで敵わないので、そうやって侮辱や挑発を繰り返したので、耐えかねた母は、小学5,6年の頃、掃除の時間は机を移動して広くなるから、パッとそのジャイアンを捕まえて、馬乗りになって押さえつけたそうです。マウントとって総合格闘技みたいにボコボコにしたのと質問すると「取り返しのつかない怪我はさせない」とのことで、優等生の母が荒事やっているので、クラスメイトがすぐに先生を呼んできて、引き離されたそうです。でも理由をきかれて説明できるので、母は叱られていません。ジャイアンも、懲りたようです。

骨結核で片足が不自由になっても、戦う力のある11,12歳が、10年少し過ぎると「詰む」のは祖母がおらず母が相談出来る人が不在だったのもあります。友達は海外で働いていたりしますし。結婚三ヶ月で離婚し一人暮らしではなく、実家に戻る可能性があります。親族には「あんなにいい縁談」と叩かれるでしょう。

まとめ

個人的な不満を言いたいのではなく、限界まで自助努力する人間が、なぜ感覚遮断を選び一方的な犠牲を払って家族の幸福を維持する必要があるのか、当時の時代の空気や文化は何だったのか、母の犠牲と忍耐の上の「平和と幸福」を享受した者として、理解しようと取り組んでいます。

仕事は、足の悪い母の、翼みたいなものであり、もぎ取ることは残酷だと思う。父はステレオタイプで動くから、アンコンシャスバイアスが高いともいえるでしょう。悪気はないけど、無自覚に抑圧してしまう。

喧嘩は嫌なんだ。と、母の闘争的な部分も黙らせて、自分に従わせたのだから、ずるいと思うのです。羽や牙をとってしまうことは、愛ではないと思うから。


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三澤直己 | カラストラガラ / Trgr | フォロバ100% ここまでお読み下さり感謝。各種SNSでのシェアも励みになります。非営利の取り組みが多いため、チップのご検討、助かります。