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現代に生きる世捨て人⑤ イチロー──競争の果てに見えたもの

勝つために続けた人が、最後に見つめた空白

人生の前半、私たちは競争の中を生きている。

学校では成績を比べる。仕事では成果を比べる。収入や肩書、人からの評価も、いつの間にか比較の対象になる。

競争は人を鍛える。努力を促す。若い頃には、競争の中でしか得られない成長がある。

けれども人生後半になると、少しずつ別の問いが現れる。

勝った先には何があるのだろう。競争が終わったあと、なお続けたいものは何だろう。

その問いを、人生そのもので体現している人物の一人が、イチローである。


イチローは、日本プロ野球でもメジャーリーグでも頂点を極めた人である。数々の記録を残し、長く第一線に立ち続けた。

しかしイチローという人を考えるとき、単なる勝者として見るだけでは足りない。

彼の言葉や姿勢に触れると、華やかな成功者というより、修行者のような印象が残る。

彼は、続けた人である。

同じことを、毎日繰り返した人である。身体を整え、道具を整え、心を整え、試合に向かった人である。結果よりも、その結果を支える準備に心を置き続けた人である。

多くの人は、勝利の瞬間を見る。

しかし、その背後には見えない時間がある。

誰も見ていない練習。毎日の準備。同じ動作の反復。自分の感覚を磨き続ける孤独な時間。


イチローが繰り返し語ってきたのは、小さな積み重ねである。

小さなことを積み重ねる。それが、思いもよらない場所へ行く道になる。

この考え方は、人生後半にも深く響く。

若い頃は、大きな目標が人生を支えてくれる。しかし人生後半になると、暮らしを支えるのは小さな習慣である。

朝、起きる。散歩する。本を読む。庭に水をやる。誰かに短い連絡をする。同じ時間にお茶を飲む。

外から見れば、何でもない。けれども、その何でもない反復が、人の心を支えることがある。


現代社会は、結果を見たがる。

何を達成したか。どれだけ稼いだか。何人に認められたか。

しかし人生の多くは、結果ではなく過程でできている。

一日一日をどう整えるか。身体とどう向き合うか。今日の自分に何を積み重ねるか。

イチローの姿は、結果の裏側にある日々の静けさを教えてくれる。


ニーチェは精神の成熟を、ラクダ・ライオン・子どもという三つの姿で語った。

ラクダは重い荷を背負う。義務を背負う。苦しみに耐える。

イチローの現役時代にも、このラクダの姿がある。

自分に課す重荷。絶えない準備。記録を背負う孤独。外からは華やかに見えても、その内側には重い荷があった。

しかしやがて、ラクダはライオンになる。ライオンは「否」と言う存在である。

イチローにも、このライオンの気配がある。

記録を求められる。天才と呼ばれる。成功者として見られる。しかし彼は、そうした言葉に完全には乗らない。人が作った評価の枠に、自分を簡単には預けない。

競争の中にいながら、競争に飲み込まれていない。

成功しても、成功に所有されていない。

そしてニーチェの最後に現れるのが、子どもである。ラクダとして重荷を背負い、ライオンとして否と言ったあとで、なお世界を新しく受け取り直す力である。

イチローの晩年の姿には、この子ども性が少し見える。

記録のためだけではない。野球そのものを味わう。身体を動かすことを味わう。一つの技術を深め続けることを味わう。

良寛が子どもたちと遊んだように、南方熊楠が粘菌に夢中になったように、タモリが地形を面白がったように、イチローもまた野球という一つの世界を最後まで面白がっていた人なのだと思う。


人生後半にも、この問いが大切になる。

誰から評価されなくても、何を続けたいのか。結果が出なくても、どんな行為なら続けられるのか。

若い頃は、競争が行為を支えてくれる。勝ちたいから練習する。認められたいから続ける。

しかし人生後半には、その外側の支えが弱くなる。

定年後、昇進はない。人から評価される機会も減る。役割も変わる。

そのとき、人は空白に出会う。

何をすればいいのだろう。何を続ければいいのだろう。

この空白は、怖い。けれども同時に、人生後半の入口でもある。

競争が終わったあとに残るもの。それこそが、その人にとって本当に大切なものかもしれない。


イチローは、現役引退後に大きな空白と向き合った人でもある。

毎日の試合もなくなる。記録を追う日々も終わる。観客の歓声の中で打席に立つ時間も変わる。

それは大きな喪失である。

しかし、野球そのものが消えるわけではない。

競争としての野球は終わっても、野球への関わりは続いていく。

仕事としての自分は終わっても、経験は消えない。肩書がなくなっても、積み重ねてきた感覚は残る。

競争が終わっても、道は残る。

人生後半とは、その道をもう一度、自分のものとして歩き直す時間なのかもしれない。


トルストイは、成功の先に意味を問うた。ユングは、役割の先に魂を問うた。五木寛之は、登山の先に下山を見た。

イチローは、競争の果てに何が残るのかを、人生そのもので問い続けているように見える。

その答えの一つが、習慣である。

競争が終わっても続くもの。評価がなくても続くもの。誰も見ていなくても続けたいもの。

人生後半には、この問いが大切になる。

私は何を続けたいのか。収入にならなくても、何に時間を使いたいのか。勝ち負けを離れても、何に心が向かうのか。

競争の中では、この声は聞こえにくい。しかし競争が終わると、静かな声が聞こえてくる。

本当は好きだった。本当は結果より過程が好きだった。

人生後半は、その声を拾い直す時間でもある。


続けることには、危うさもある。

続けることに自分が縛られることもある。やめられない。休めない。いつも同じ水準でなければならない。

修行は、時に自分を追い詰める。

だから人生後半には、続けることと手放すことの両方が必要になる。

登り続けた人ほど、下山は難しい。競争を生き抜いた人ほど、競争の終わりを受け入れるのは難しい。

しかし、そこを通らなければ人生後半は始まらない。

空白は、失敗ではない。次の人生が入ってくる余白である。


タモリは、力を抜く自由を教えてくれた。黒柳徹子は、自分の好奇心を生きる自由を教えてくれた。五木寛之は、下山する自由を教えてくれた。養老孟司は、自然に戻る自由を教えてくれた。

そしてイチローは、競争の果てに自分の道を続ける静けさを教えてくれる。

イチローは競争の中にいながら、競争だけで自分を測らなかった。成功の中にいながら、成功だけを語らなかった。結果の世界にいながら、準備と習慣の世界を大切にした。

競争は終わる。記録もいつか過去になる。

しかし、日々積み重ねたものは残る。誰も見ていないところで続けてきたこと。自分の身体で覚えたこと。自分の感覚を信じて磨いてきたこと。

それは、人生後半にも残る。


今回の問い

あなたは今、何のために頑張っているだろうか。

そして、もし競争が終わったとしても続けたいことがあるとしたら、それは何だろうか。


Kashimono / Karimono
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