見出し画像

【連載】覇権のOS:飛鳥の終焉 -サンライズ- 《その③》 feat. 天智天武兄弟 - 血を分けた革命家たちの競創 - from ロマン派史説

前回
飛鳥の終焉 -サンライズ-《その②》


どうやったやろか?

乙巳いっしの変から23年
中大兄皇子なかのおおえのみこは玉座に座らんかった

無冠のまま
改革を進め続けた

玉座に座らん事で
自ら実務を進められる環境をキープ

一方で改革の妨げになりそうな人物を
玉座から遠ざけ続けた

改革は
順調に進んでいる様に思えた


しかし


想定外の海外遠征
白村江はくすきのえで大敗を喫する

大和OS:飛鳥 Ver.2.0では
まだ盤石とは言い難いことが露呈した


そして668年


無冠の王は
ついに玉座に座る


しかし


満を持した即位やと思われたが
そう簡単には行かん


激動の飛鳥は
いよいよ終盤に突入していく


飛鳥の終焉には
何が待ち受けとるんやろうか?

一緒に見ていこか😁



▼この記事を1枚でまとめると





✦ ✦ ✦
第一章:
遅すぎた戴冠


668年正月
ついに中大兄皇子は

第38代 天智天皇(てんちてんのう)
として即位

乙巳の変から
23年が経っとった



なんで
このタイミングやったんか?
🤔



恐らく
もう「代理」は限界やったんや



白村江の戦いでは
総力を注ぎ込んで負けた

唐がいつ
攻めてくるかも分からん

豪族たちの結束は
かつて無いほどに揺らいどる


そんな状況で
国をまとめるには

自分自身がリスクを負い
名実ともにトップに立つしかなかった


しかも


斉明天皇さいめいてんのう の崩御
母親以上に玉座を預けられる相手はおらん


そして
この難局を乗り越える為


大海人皇子おおあまのみこ
東宮=皇太子 の座に就いたとされる

※ただし、大海人皇子の東宮就任については、後の政権による後付けやないかと疑う説も有力やったりするが、、、😅


まぁ
諸説あるにせよ

大海人皇子が
極めて重い立場やった事は間違いない


兄が天皇=トップ
弟が皇太子=No.2


兄弟による
盤石の体制っちゅうわけや


そして


即位した
668年10月

海の向こうで
決定的なことが起こる


高句麗が
唐と新羅に滅ぼされた
😅


これ、めちゃくちゃデカい


660年:百済 滅亡
668年:高句麗 滅亡


朝鮮半島は
完全に唐と新羅のものになった


つまり


唐と日本の間に
緩衝材が一つも無くなったんや


(次は、ウチやんけ😱)


天智天皇は
国内の整備を急ぐ


唐に対抗できる国家を
一刻も早く作らなあかんねん


焦りが
そのまま政策になっとった


そんな時期の
ある日の宴席で事件は起こる


藤氏家伝(とうしかでん)に
こんな話が残っとる

激高した大海人皇子が
長槍を手に取り

床板を
突き刺した


(何があったんや😱)


これを見た天智天皇は
激怒

弟を
殺そうとした

その場に割って入ったんが
中臣鎌足なかとみのかまたりやった

鎌足の取りなしで
その場は事なきを得たという話もある

※藤氏家伝は藤原氏の記録やから、藤原氏の始祖である鎌足の功績を強調しとる可能性はある。事件そのものの信憑性も確定はしてへん。


いずれにしても
火のない所に煙は立たん

この頃の兄弟には
確実に確執があったと見られる


そして


その亀裂を
繋ぎ止めとったんが鎌足やった


この話が
示唆することは重い


兄弟の緩衝材が
そのまま朝廷の安全装置

政権は
薄氷を踏みながらの運営となっていた


(ただでさえ外敵がヤバいのにー😱)


しかし


二人はこのバランサーを失う事になる
それはこの翌年の話や




✦ ✦ ✦
第二章:
藤原氏のはじまり


669年5月初旬
山科(やましな)の御猟場

中臣鎌足が
馬から転落し背中を強く打った


時に56歳


蹴鞠の場で
若き中大兄皇子の沓を拾い上げてから

24年もの
歳月が流れとった

入鹿を討ち
改新の詔を書き上げ

白村江の敗戦を受け止め
兄弟の間を取り持ちながろ改革を進めて来た


飛鳥の激動を
隣で支え続けてくれた側近中の側近


天智天皇は
すぐさま見舞いに駆けつける


その病床で
鎌足が漏らした言葉が今も残っとる

「生きては軍国に務無し」


私は軍事において
何の役にも立てませんでした


やと?


これは
白村江の大敗を受けての話やと思うが

乙巳の変を成功させ
改新の詔を書き上げ

国のカタチを
立派に作り変えて来たやんか😢

しかし

鎌足は生死の境を彷徨う病床でさえ
自責と向き合う国士やった



同年
10月15日

天智天皇は
病床の鎌足に三つ贈りモノをする



▼大織冠(たいしょくかん)
当時の冠位の最高位

▼内大臣
政権の最高位の官職

▼「藤原」の姓
これからも天皇家を末永く支え
一族が長く繁栄してほしいという願い

※藤がしなやかにツルを伸ばし、絶えることなく長く広がる姿に由来(諸説あり)




天智天皇からの
回復を祈願した粋な計らい😁


因みに


この大織冠という冠位は
制度的に647年から685年の間しか存在せん

その期間に授かったんは
日本史上で鎌足ただ一人だけやねん

せやから
藤原鎌足の代名詞(尊称)として使われる

文字通り
唯一無二の称号となった


(しかし、完全にフラグ立ってもうてる😢)


翌日
10月16日

鎌足は
息を引き取った


享年56


「藤原」という姓を
鎌足が名乗れたんはたった一日やった

(でも間に合って良かった😢)


ここから
1000年にわたって

日本の中枢に君臨し続ける
藤原氏

その壮大な歴史の起点が
この時やってん



余談やけど
大阪府の阿武山古墳(あぶやまこふん)から

豪華な棺と
金糸で飾られた絹の冠が出土しとる

埋葬されとったのは
50代の男性

そして

背骨に
骨折の痕があった

この人物こそ
鎌足なんちゃうか?


という説が
根強くある古墳やねん😁


もし
そうやとしたら


阿武山古墳で出土したあの冠こそ
この世に一つしかない

大織冠
ということになるんとちゃう?

(ロマンあるなぁ😆)



ただし


この国は
鎌足という安全装置を失った



この後の顛末は
次章以降で明らかにしていくわ



✦ ✦ ✦
第三章:
兄と弟と


鎌足を失っても
天智天皇は歩みを止めへんかった


(いや、止まるわけには行かんかった😎)


670年
日本初の全国的な戸籍を作った


庚午年籍(こうごねんじゃく)


今でこそ当たり前やけど
当時としては画期的なことやってん

主な目的は3つや


▼1. 税(班田収授の法)の土台

誰がどこに住んでいるかを把握し
土地から税を確実に集める為の基本台帳

人々に 土地=口分田 を配り
土地ごとの適切な税を管理する


▼2. 兵士を集める

誰の家に戦える年齢の男性が
何人いるかを正確に記録

軍を編成する際の根拠や
不正逃れを防ぐ


▼3. 氏姓うじかばねを正しく固定

身分を偽って
税を逃れる不正を防ぐ為

曖昧だった豪族や民衆の
「氏(名字)」と「姓(身分のランク)」を
公式に登録し変更できないようにした



646年
改新の詔にて

「人民一人ひとりを登録し
 土地を公平に割り当てる」


と宣言してから
24年

その理念が
ようやく実装された瞬間やった


(やっとやな😅)


どこに誰が居るのか?
そこに何人おるか?

中央政府で
それらを管理出来る様になった事で


税も兵も
正確に集められる様になった


特に
軍事については


白村江では
大規模な軍を編成しながらも

豪族が自分の兵を連れてくるだけの
寄せ集め集団やった為に 

倭国は大敗を喫し
大きな痛手を被る事になった教訓がある


当時の管理体制では
中央は兵召集の号令は出せても

統合された司令を出す事も
効率的な行軍運用も不可能やった

だって
名簿すら無い軍隊やってんから😅


勿論
税制も大幅改善


民への課税は豪族ごとにバラバラ
豪族から朝廷への納税も豪族次第やった

そんな状態から
全国統一基準で課税できる様になり

朝廷は
豪族たちから適切に回収出来る様になった



この様に
天智天皇は確実に不具合を修復していった


そして


671年正月
天智天皇は新人事を発表する


行政のトップである太政大臣には
大友皇子(おおとものみこ)

行政No.2 の左大臣には
蘇我赤兄(そがのあかえ)

行政No3の右大臣には
中臣金(なかとみのかね)



おっと
待て待て 蘇我赤兄 やん!


有間皇子ありまのみこを罠にかけた
あの男や

19歳の皇子を売った功績で
順調に出世して

とうとう
左大臣にまで昇りつめた

(ちゃっかりしとるなー😅)


そして


もう一人
注目して欲しいんは


太政大臣に
就任した 大友皇子や

大友皇子は
天智天皇の息子や

そして

太政大臣というのは
政権の最高位


つまり

「次の天皇は息子やで😎


という
明確な意思表示に見える


しかし


当時の皇位継承の慣習は
親から子よりも兄から弟の方が自然やった


つまり


天智天皇の次に天皇となるのは
同母弟で皇太子である大海人皇子のはず


しかし


天智天皇は
そのルールを書き換えようとした



(そら揉めるわなー😅)



しかも
もう鎌足はおらんねん

668年の宴では
兄弟の間に割って入ってくれた安全装置

もはや
二人を取り持てる男は存在せん



671年10月
察した大海人皇子は即座に動く

「私は出家します😇


そう申し出て
髪を落とし吉野へと退いた

争う意思はない
そう示すことで命を守ろうとした

(賢い判断やな😎)



その2か月後



671年12月3日
天智天皇が崩御してしまう


享年46歳


即位から
たった4年しか経っとらん

遅すぎた戴冠は
あまりにも短かってん😢



そして



跡を継いだんは
24歳の大友皇子やった

天智天皇の弟は
既に出家して吉野におる

この構図で
何も起こらんはずやってけど、、、



✦ ✦ ✦
第四章:
血戦


天智天皇の死から
半年

吉野の大海人皇子のもとに
不穏な報せが届く

「朝廷があんたを討つ準備しとるで」


黙って殺されるか?
それとも立ち上がるか?


672年
6月24日


大海人皇子は
吉野を脱出して東国へ向かう


ここからの動きは
えげつないほど的確やから驚く😱


まず


不破(ふわ)と鈴鹿(すずか)
二つの関所を押さえる


これは
何が狙いなんか?


朝廷が東国で兵を集めようとしても
使者は関を通れへん


つまり


大海人皇子は
相手の動員システムを遮断した


要するに


朝廷側としては
ネットワークを切断されたも当然


しかも


大海人皇子には
強力な後ろ盾が存在しとった


それは


美濃、尾張、三河…
かつて自分が治めとった縁のある土地

そこから集まってくる
豪族たちや



一方



朝廷の方は
どうやったかと言うと

吉備にも筑紫にも使者を送ったけど
どこも兵を出さんかった


ここで


歴史にしばしば現れる
皮肉の女神がここにも降臨する


天智が作った庚午年籍
全国から兵を動員できる仕組み


それを


十分に使いこなせる状態にする前に
天智天皇は崩御してしまった


結果


正規で軍を集められるハズの朝廷が
兵を集められず

反乱軍であるハズの大海人皇子が
より多くの兵を集めた


(運用でけへん実装は意味ないな😅)


ここで
改めて構図を整理しとく



◆大友皇子(おおとものみこ)

天智の息子
24歳

亡き父から
政権を託された若き後継者

※実は大友皇子が正式に即位したかどうか記録がはっきりせぇへん。玉座は空位のまま、政務だけ執っとった可能性が高い。(明治になってから弘文天皇として追号されてはいる)




◆大海人皇子(おおあまのみこ)


天智天皇の弟
40歳前後 ※諸説あり詳細不明

出家して吉野へ消えたはずが
身の危険を察知して挙兵

一説によれば

急速な改革と朝鮮半島での大敗により
不満が溜まった豪族たちの為

用意周到な計画のもとに
挙兵に及んだとも言われとるねん



中央で改革を引き継ぐ大友皇子か?
地方の豪族に推される大海人皇子か?


叔父と甥
血族同士の玉座を巡る戦いは


国家を二分する
日本古代史上最大の内戦へ発展した



672年
壬申の乱(じんしんのらん)



戦は序盤から
二つのルートに分かれて大きく動いた



▼大和(奈良)戦線
大海人皇子方の将軍
大伴吹負おおとものふけいが古巣の飛鳥寺を急襲

一進一退の激しいゲリラ戦の末
奈良盆地を制圧



▼近江(滋賀)戦線
大友皇子の朝廷軍が
美濃へ向けて進軍するも

身内の内紛や指揮官の暗殺など
まともに戦えず自滅



開戦から一か月足らずで
大海人皇子の軍勢が優勢に立つねん


そして


7月22日
瀬田橋(せたのはし)での決戦

朝廷軍は
決定的な敗北を喫し

翌7月23日
大友皇子は自ら命を絶った


国を二分した古代史上最大の内乱は
わずか1ヶ月で決着した



飛鳥時代にも
天下分け目の決戦があったんやなぁ😅


因みに


戦後処理において
ある男が裁きに掛けられる

有間皇子を売り
左大臣にまで昇りつめた蘇我赤兄や

大友皇子側についた罪で
流罪となり歴史の表舞台から消えていった


(因果応報やな😑)


そして


翌673年
大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位


第40代 天武天皇(てんむてんのう) 即位


これが
壬申の乱の顛末や



ここで
ちょっと考えてみたいねんけど



なんで
壬申の乱は起こってもうたんか?



個人的には
これを兄弟の私怨が原因とは思わへん

確かに
要素としてはあるやろ

しかし

一番の問題は
大和OS:飛鳥 Ver.2.0 には

天皇継承ルールに
バクがあったからやと思う

▼645年〜654年
孝徳こうとく天皇 ※叔父に座ってもらう

▼655年〜661年
斉明さいめい天皇 ※母に座ってもらう

▼661年〜668年
玉座不在(称制) ※誰も座らさへん


20年以上も
イレギュラー運用で回してきた為

継承ルールが曖昧になり
正式なルールがよう分からんくなっとった


兄弟継承なんか
親子継承なんか
誰が決めるんか
何を根拠に決めるんか


それらは「慣習」という
ふわっとした各自の価値観に委ねられとった


せやから


天智が息子に継がせようとした瞬間
それを止める仕組みも

正当性を証明する仕組みも
どこにも無かった


しかも


ここ数十年は
暗殺やクーデターが頻繁に起きとった

お互いに
やらなきゃやられると思って当然


そうなると


身を守る為の手段は
相手を亡き者にするのが確実や


つまり


武力行使が
正当化されやすい状態になってまう



要するに


大和OS:飛鳥 Ver.2.0 には
正式な継承プロセスが欠落しとった



これこそが
Ver.2.0最大のバグやったんちゃうか?


革命政権は
強いリーダーを失うと脆いもんや

しかし

多くの革命家は
自分が居ない世界の解像度が低い


壬申の乱は
起こるべくして起こった悲劇やった😢



✦ ✦ ✦
最後に


壬申の乱を制し
天武天皇となった大海人皇子

その妃の名は
鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)

なんと
天智天皇の娘や🫢


そして


彼女の母は
遠智娘(おちのいらつめ)

なんと
蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだ の いしかわまろの娘や😳


権力闘争の結果
男系が表舞台から消え失せる事は多い


しかし


女たちの血は生き続け
その子孫は勝者たる天武天皇の妃となった

そしてこの鸕野讚良皇女うののさららのひめみこ
後の持統天皇となるお人や


女系には女系の
生き残りを賭けた戦略があんねやろうな


いつか
じっくり考察してみたいテーマや😁



ちょっと
話が脱線してもうたんで

話題を
天智天皇と天武天皇に戻さしてもらう



日本書紀によると
二人は同じ父母から生まれた兄弟や


しかし


近年では
こんな異説も囁かれとる

「この二人は本当に
 同父母の子なんか?」


その根拠は
大きく4つの疑問点に集約される


▼年齢の逆転:
記述から計算すると弟
の天武が兄の天智より年上になる点

▼生年の非公開:
日本書紀で
天武天皇の年齢だけが隠されている点

▼異例の多重婚:
天武が天智の娘を
4人も后に迎えている点

▼位牌の排除:
皇室の菩提寺で
天武系の天皇だけが祀られていない点

※学界における主流派は日本書紀の記述通り「同父同母の兄弟」で扱っとる。


真相は
誰にも分からんけど、、、


一つだけ
確かなことがある


血が繋がっとろうが
繋がって無かろうが玉座はひとつ


古人大兄皇子
孝徳天皇
有間皇子
大友皇子


玉座をめぐって
短期間に多くの血が流れ過ぎた

すべては

大和OS:飛鳥 Ver.2.0の
継承ルールがバグってたからや


ほな
このバグを誰が直すんか?


それは


壬申の乱を制した
天武天皇

律令という
最新鋭の概念を導入し

法で国家を統治するという
全く新しいシステムの構築に挑む


次回

覇権のOS
飛鳥の終焉 -サンライズ- 《その④》

feat. 天武天皇
設計者の見た夢


百年にわたる開発リレーが
ついに完結する

次回も
お楽しみに😁



筆者:Khaosan
波乱万丈な人生はこちら


【次回記事】


【連載】覇権のOS
飛鳥の終焉 -サンライズ- 《その④》

feat. 天武天皇
- 日本の設計図 - from ロマン派史説


【付録】 まとめ資料



【Khaosanの舞台裏】


大学中退のバンドマンが、遅めの社会デビューから叩き上げて、マニラで散って、再生して、20年を越えるBiz-dev人生の修羅場を通じて《日本精神》に辿り着いた。

その真相と現代ビジネスに効く独自考察を高尾から発信してます!

そんな Khaosan の 波乱万丈な人生 とこれまでの 全考察記事一覧 は、このリンク先で包み隠さず大公開中やで 😁


✦ ✦ ✦


📝 この記事について
この記事は学術的な通説とは異なる点を多く含んでおります。あくまで一つの「妄想」として楽しんでもらえたら嬉しいです。

この記事は、AI戦略アシスタント「コマちゃん」との対話をベースに執筆しました。

Khaosan / 2026年8月


【連載】覇権のOS:飛鳥の終焉 -サンライズ- 《その③》 feat. 天智天武兄弟 - 血を分けた革命家たちの競創 - from ロマン派史説

いいなと思ったら応援しよう!

Khaosan |Biz-dev × 日本精神 |名無志《ナナシ》のひとりごと ありがとうございます! 励みになります😁