『納得して従属すべき師匠』
「師匠」──この言葉に、どのような印象を抱かれるだろうか。
時代が令和に移り、価値観が多様化し、すべてがスピード優先で進んでいく現代社会において、「師匠」という存在はどこか遠いものになりつつあるように感じている。まるで昭和や平成の名残、ひと昔前の“人情物語”に登場する人物のように捉えられている節すらある。実際、今の会社組織において「師匠」と呼べるような存在に出会える人が、果たしてどれほどいるだろうか。
かつての日本には、「道」があった。
武道、書道、華道、茶道──そうした世界に身を投じれば、自ずと“師に倣う”という生き方が根づいていた。師匠の背中を見て、所作を真似て、言葉の奥にある意味を感じ取りながら、少しずつ自分の型を築いていく。そこには技術以上の学びがあり、人としての在り方すらも師から受け継ぐという文化があった。
しかし、私たちが暮らす現代の「一般社会」──とくにビジネスの世界では、そうした関係性はもはや“幻想”に近いものかもしれない。上司と部下の関係はあくまで「役割」であり、互いの距離はどこかドライで、ある種の線引きが必要とされる風潮もある。どこかで「プライベートに踏み込まないことがプロフェッショナル」だと信じられている節すらある。
そんな時代にあって、私は運よく出会っていたのだ──胸を張って「この方が私の師匠でした」と言える人物に。
その方は、社会に出たばかりの私にとって、最初に出会った直属の上司だった。
もちろん、最初から「この人が私の師匠だ」などと思っていたわけではない。むしろ、初めての社会人生活においては、“上司”という肩書きに対する不安や警戒心のほうが強かったくらいだ。学生気分を引きずりながら、社会に出る不安と期待が入り混じった心持ちの中で、私が配属されたその部署には、“少し変わった上司がいる”という前評判がついていた。
それでも、今振り返って思うのは、この人との出会いがなければ、今の私はなかっただろう、ということだ。
人は誰しも、自由を愛する。私も例に漏れず、型にはまらず、しなやかに生きていきたいと願っていた。理不尽な命令に盲目的に従うような生き方はしたくないし、ましてや「従属」という言葉には、どこか反発したくなるような自意識も持ち合わせていた。
そんな私が、心から納得して“従った”相手。
それが、その上司だった。
「従属」ではなく「信頼」。
「服従」ではなく「敬意」。
社会人としての原点であり、私という人間の“背骨”を形づくった最初の出会いだったのだ。
怪しげな紹介から始まった「出会い」
それは、社会に出てすぐのことだった。
28年前、私は新卒である大手企業に入社した。まだバブルの名残がかすかに残る時代で、世の中全体にどこか余裕があったように思う。希望に満ちた春、1ヶ月間の新人研修を終えようとしていた頃のことだった。
ある日、配属先を告げられる直前、人事課長から妙な一言をもらった。
「續池さん、ちょっと変わった上司に配属されると思うけど、大丈夫だと思うよ。君なら、きっと合うと思うから」
その“妙な”言い回しに、私は思わず首をかしげた。
「え、何ですかそれ……。なにか“ワケあり”ってことですか?」と心の中で突っ込みながらも、笑顔で「はい、ありがとうございます」と応じるしかないのが、新人の悲しき性である。
研修中のざわついた心を抑えきれずに、ついその上司の噂を耳にしようと社内の会話に敏感になった。「厳しい」「変わり者」「仕事が早い」「怒ると怖い」「けれど頭は切れる」──そんな断片的な情報ばかりが耳に入ってくる。結局、真相はわからぬまま、配属の日を迎えることになった。
当日。恐る恐る配属先の部署へ向かった私は、すっかり身構えていた。
「さあ来い、“変わり者の上司”。いつでもかかってこい」と、心の中では覚悟を決めていたのに、目の前に現れたその人は、拍子抜けするほど穏やかな人だった。
威圧感もなければ、大声で怒鳴るようなこともない。私に対しても、「まぁ、慣れるまではのんびりやればいいよ」と、拍子抜けするほど優しい言葉をかけてくれた。
「……あれ? ぜんぜん怖くないし、むしろ思ったより居心地がいいんですけど」
私のなかにあった警戒心は、3日も経たないうちにすっかり溶けていった。
部署の先輩たちも気さくで親切。仕事の進め方を丁寧に教えてくれて、お昼も一緒に食べに連れて行ってくれた。社会人生活、意外と悪くないじゃない──とさえ思い始めていた。
仕事の内容はというと、まだ新人で営業職でもなかった私は、基本的に毎日デスクに座り、書類を読んだり社内の資料を整理したりするような“見習い期間”だった。プレッシャーもなく、静かに本を読める日々が続いていた。
だが、それは“嵐の前の静けさ”だったのだ。
そう、その上司が本気を出すまでの、“準備運動”のような時間だったのだと、今ならわかる。
「準備体操終わり」から始まる怒涛の日々
その穏やかな日々は、およそ3ヶ月ほど続いた。
新人らしい緊張感も徐々に薄れ、会社にも同僚にも慣れ始めたころ。私はすっかり“社会人デビュー”を満喫していた。
「なんだ、社会人って意外と楽しいじゃないか」
「怖い上司って誰のことだったんだろう?」
…と、心のどこかでタカを括っていたのだと思う。
ところがある日、急に空気が変わった。
直属の上司が、ひょいと私の席に現れ、いつもの口調でさらりとこう言ったのだ。
「……準備体操は終わり。そろそろ本番いこうか」
その言葉を境に、私のデスクには、信じられないスピードと量でタスクが降り注ぎはじめた。
書類作成、会議資料の準備、社内他部署との折衝、部門間調整、時には社外とのやり取りまで──
それまでは“内勤の新入社員”という名の温室にいた私が、いきなり現場の最前線に引っ張り出されたのだった。
「これはさすがに無理じゃないですか……」と心の中で何度も叫びたくなった。
でも、それを口にする前に、次の仕事が飛んでくる。
しかも驚いたことに、この上司は“教えてくれない”のだ。
やり方を示してくれるわけでもなく、「こうしたらいいよ」とアドバイスしてくれるわけでもない。ただ黙って、手配するべき相手や調べるべき資料だけを淡々と指示してくる。
一見すれば、不親切な上司。
でも、そこにはちゃんとした“意図”があったのだと、あとになって気づいた。
「やり方」ではなく、「考え方」を学ばせようとしていたのだ。
わからなければ、自分の足で他部門へ出向いて聞きに行く。
誰に聞いたらいいのかわからなければ、まず仮説を立てて、資料を読み込んで、仮の答えを持ってから尋ねる。
上司が欲しがっているのは、「正解」ではなく「思考の跡」だった。
最初のうちは必死すぎて氣づけなかったが、振り返ってみれば、これは極めて実践的で、かつ厳しい“育成法”だったのだと思う。
そしてこの頃、私に社内で妙な噂が立ち始めた。
「新人のくせに、あちこちのフロアをうろついてる変なやつがいる」
「なに? あの子、あの変わり者の直属なんだって?(苦笑)」
そんな風に、周囲からは半ば面白がられ、半ば呆れられながらも、私は毎日目まぐるしく動き回っていた。
次第に顔を覚えられ、仕事を頼まれることも増えた。
それはつまり、上司の思惑通り、私が“社内の小間使い”として機能しはじめたということでもある。
でも不思議と、いやな感じはしなかった。
むしろ、任せてもらえることが嬉しかったし、自分が少しずつ“使える存在”になってきているという実感が、何よりのモチベーションになっていた。
教えてくれない。でも、見捨てもしない
この上司の最大の特徴は──“教えてくれない”ことだった。
よくある指導のように、仕事の手順を丁寧に説明してくれるわけではない。
マニュアルを渡されたり、「こうやればいいよ」と教えられることも、ほとんどなかった。
それでも、不思議と不安にはならなかった。
なぜなら、この上司は“見捨てない人”だったからだ。
たとえば、タスクを渡されたとき、明らかに私の知識や経験では太刀打ちできそうにないものも少なくなかった。
しかしそのたびに、「わからない」と言えば、「それなら、○○部の△△課長に聞いてみるといい」とだけ、そっとヒントをくれた。
答えは言わない。
だけど、答えにたどり着くための“道筋”だけは、かすかに照らしてくれる。
あるとき、会議資料の構成案を練っていたときのこと。内容に自信が持てず、何度も見直しては、どうにも行き詰まっていた。
上司に相談すると、資料に目もくれず、たった一言だけ返ってきた。
「その資料、君が“誰を納得させたいか”を、もう一回考えてみてください」
それだけだった。
けれど、その言葉にハッとさせられた。
私は“何を言いたいか”ばかりに意識が向いていたけれど、“誰にどう伝えるか”という視点が抜け落ちていたのだ。
自分が見落としていた視点を、的確に突いてくる。そのさじ加減が、絶妙だった。
そう、彼は“教えない指導者”だった。
けれども、手を差し伸べるタイミングを見誤らない。
部下を突き放すでもなく、甘やかすでもなく。
自ら考えさせ、行動させ、責任を持たせたうえで、背後から支える。
まるで、子どもが転びながらも歩き始めるのを、見守る親のようだった。
そして、もう一つ、彼を象徴するような“仕事の流儀”があった。
それは──いつも席にいない、ということ。
冗談のような話だが、彼のデスクが空いていることは、珍しくなかった。
後になって知ったのだが、あまりに頻繁に上司や他部署から“つまらない話”で呼び止められ、集中して仕事ができないため、彼は自分のタスク処理のために“秘密の作業部屋”にこもっていたらしい。
でも、そんな彼でも、私が困ったときにはどこからともなく現れて、さらっとヒントを置いて、またどこかへ去っていく。
不思議と、その距離感が心地よかった。
この“放任”と“絶妙な介入”のバランスは、当時は理解できなかったが、いま思えば最高の学びだったと思う。
上司と部下の関係というよりは、“見えない糸”でつながった同志のような感覚さえあった。
私は、その背中を、いつの間にか追いかけるようになっていた。
社内に広がる噂と「変人の右腕」
日を追うごとに、私の業務はさらに多岐にわたるようになった。
会議資料の作成、販売データの分析、原価管理の補佐、商品の開発会議に同席させられることもあった。まだ社会に出て一年目の、右も左も分からない新人が、本来なら中堅社員が担当するような業務を容赦なく割り振られていた。
もちろん、内容のほとんどは理解できない。わからない言葉が飛び交い、専門用語に目を白黒させながら、私はただ、がむしゃらに食らいついていった。
氣がつけば、日々の業務が「新人研修」などというレベルを遥かに超えていた。上司に課せられたタスクの一部を、“右腕”として肩代わりしているような感覚すらあった。
私にとっては必死だったが、周囲からは奇異に映っていたのかもしれない。
しばらくすると、社内のあちこちからこんな声が聞こえてくるようになった。
「最近、若いのがあちこちのフロアを歩き回ってるけど、何者?」
「ああ、あの子ね。あの変わり者課長の下についてる新人らしいよ」
「……なるほど。納得」
まるで都市伝説か何かのように、“変な新人”の存在が一部で話題になっていた。
しかし、私自身はそんな周囲の目など氣にしていられなかった。
日々のタスクをこなすことに精一杯で、自分がどんなふうに見られているかなど考える余裕すらなかったのだ。
ただ一つ、確かなことがある。
それは、タスクの一つひとつを乗り越えるたびに、自分の中に“知識”と“経験”が静かに積み上がっていったということだ。
たとえば、会計の基礎が少しずつ理解できるようになり、マーケティング用語に馴染み始め、生産管理の現場感覚も徐々に身についていった。
私は決して“優秀な新人”ではなかった。
ただ、ひたすら現場に揉まれていた。
それこそが、実地で学び、生きた知識として体に刻み込んでいくという、非常に密度の高い“社会人としての初期教育”だったのだと思う。
氣づけば、上司の仕事の一部を代行するような形で、部署内外の業務に関わるようになっていた。もちろん、それは上司にとっても都合がよかったのだろう。
「お、だいぶ鍛えられてきたな」と思われていたのかもしれない。
だけど、私はその期待に応えたかった。
いや──期待されていたかどうかすら分からなかったけれど、ただ、この人の役に立ちたいと思っていた。
それは命令だからではない。
信頼されていると感じたからでもない。
私の中で、いつの間にか「この人についていきたい」という気持ちが芽生えていたのだ。
そして、社内でもこんな風に言われるようになる。
「あの課長のところで生き残ってるってことは、たいしたもんだよ」
「あの人の下でちゃんと育った新人って、珍しいんじゃないか?」
やがて、私は“変人課長の右腕”という、ある種の異名を持つようになっていた。
そう呼ばれることが、なぜか少し誇らしかった。
「師匠」と気づいたのは、別れのときだった
あっという間に、2年が経った。
社会に出てからの最初の2年間は、本当に濃密だった。
右も左も分からなかった私が、少しずつ業務を理解し、部署内外で“使われる人”から“任せられる人”へと変わっていった。自分でも、それを自覚できるほどだった。
もちろん、すべてが順風満帆だったわけではない。
理不尽なことも、失敗も、叱責もあった。それでも、常に“次のタスク”が用意されていて、立ち止まって落ち込んでいる暇などなかった。走って、転んで、また立ち上がって、走り続ける──そんな毎日のなかで、私は社会人としての筋肉を身につけていったように思う。
そして、入社3年目。
世の中では『Windows95』が発売され、オフィスの風景が少しずつ変わろうとしていた時代だった。
まだ、個人にパソコンが1台ずつ割り当てられるなんて夢のまた夢という空気のなか、私は運良く部署の中でいち早くノートPCを与えられた。社内でも「おお、パソコンだ!すごいな!」と、ちょっとした話題になった。
嬉しさ半分、不安半分。
なにせ、誰も使い方を知らない。
私自身もまったくの初心者だった。
そんなとき、あの上司はいつものように飄々とこう言った。
「これ、續池さんのPCだから。
早めにマスターしといて。
手引書は経費で買っていいですよ(棒)」
……それだけ。
ああ、やっぱりそう来るよねと、思わず苦笑いした。
それでも、私は本屋に駆け込み、ExcelやAccessの分厚い解説書を買い込み、夜や休日の時間を使って、ひたすら独学でスキルを身につけた。PCは手段であり、目的ではない。だからこそ、使えるようにするしかなかった。
やがて、それまで手書きで時間のかかっていた業務が、格段に効率化されていった。
すると、上司は何も言わず、さらに業務を任せてくるようになった。
「おっ、できるようになったな」と言う代わりに、どんどんタスクが増えるのだ。
褒められることも、評価されることもなかった。
でも──分かっていた。
それが、この人なりの“信頼の証”なのだと。
やがて、私の存在は部署内外で認識されるようになった。
「あの課長のもとで育った子」というだけで、ちょっとした“印籠”のような効力が生まれていた。
それはつまり、変わり者の課長が、徐々に社内で“認められ始めた”ということでもあった。
その年の春、上司の異動が発表された。
異動先は、社内でも有力とされる部署。
つまり、栄転だった。
その報せを聞いたとき、不思議なくらい嬉しかった。
「やっとこの人が、評価された」
まるで、自分が褒められたかのような気持ちになった。
そしてそのとき、初めてはっきりと自覚したのだ。
この人は、私にとって“師匠”だったのだと。
プライベートな話は、ほとんど交わさなかった。
趣味も価値観も、おそらくまったく違っていた。
けれど私は、この人の姿勢に学び、この人の流儀を真似し、この人の背中を追いかけていた。
「この人みたいになりたい」と、心のどこかで思っていた。
それはまぎれもなく、師弟の関係だったのだ。
そして、師匠が去った後も──私は、走り続けることができた。
転職と独立、そして再会
師匠の異動から、数年の時が流れた。
私は、変わらずその会社に在籍していた。
上司が去ったあとも、部署内ではそれなりに重要な役割を任されるようになり、少しずつ後輩の指導にも関わるようになっていた。社内での居場所もでき、仕事に慣れ、成長を実感できる日々。
だが、心のどこかに、ぽっかりと穴が空いたような感覚もあった。
何かをやり切ったような、もうここでは十分やったような──そんな思いが胸の奥に静かに溜まっていった。
そして、入社8年目の春。
私はその会社を辞める決意をした。
いわゆる「脱サラ」。
安定した大企業の肩書きを自ら手放し、まったく別の世界に飛び込むという選択だった。
転職先は、大手企業が出資して立ち上げたばかりのジョイントベンチャー。
潤沢な資本金と華々しいコンセプトはあったが、組織としての成熟度は皆無で、チームワークなどあってないようなものだった。
理想と現実のギャップ。
私は、早々にその会社の限界を感じていた。
そして、わずか1年で解散。
人生で初めて「解雇通告」を受けるという経験をした。
けれど、不思議と怖さはなかった。
なぜなら、私はすでに「安定」を手放すことを自分で選んでいたし、失敗を恐れる感覚よりも、「次はどこで、自分の力を試そうか」という前向きな気持ちの方が強かったからだ。
この時期、私は営業職に初めて本格的に取り組んだ。
それまで避けてきた“数字と向き合う仕事”。
だが、脱サラという覚悟を決めた以上、逃げるわけにはいかなかった。
私は、地道に、がむしゃらに動いた。
営業先に頭を下げ、断られてもめげずにアプローチを繰り返し、泥臭く実績を積み上げた。
そのうち、ほんの少しずつ成果が出始めた。
「行動が意識を変える」という言葉の意味を、私はここで体で知った。
考えていても何も変わらない。
まず動くこと。小さな結果が自信になり、自信がさらに行動を促す。
そうしていつしか、「自分はやれる」という新しい“自画像”が育っていた。
解雇日が迫る中、私は次なるステージを探した。
そして、運命的な出会いがあった。
ある小さなITベンチャー企業──マンションの一室が唯一オフィス、社長は私より1歳年上、社員は社長とアルバイトのたった2人という超零細企業だった。面談は、その狭い四畳半のような事務所で行われた。
でも、私は即決した。
「ここだ」と直感が叫んでいた。
給料は大企業時代の半分。
待遇も環境も雲泥の差。
それでも私は、「この社長と一緒に働きたい」と心から思ったのだ。
そして、そこからの4年間は、人生でも指折りの激動期となった。
がむしゃらに走り抜けた毎日。事業の拡大、組織の整備、資金繰り、採用、現場対応──あらゆる業務に飛び込み、気づけば取締役として事業全体を管掌する立場にまでなっていた。
そして、ついに会社は東証マザーズ上場を果たす。
想像を絶するようなプレッシャーと疲労の中にあっても、「自分の手でここまで来た」という達成感は、何ものにも代えがたい恍惚のようなものであった。
だが、私は上場直後、その会社を離れる決断をした。
周囲は驚き、反対し、惜しんでくれた。
東京証券取引所での挨拶の席では、こう言ってくださった方もいた。
「續池さんがいたから、上場承認まで漕ぎ着けたのに……」
その言葉は私にとって、何よりの評価だった。
けれど、私にはもう、次へ進む準備ができていた。
初めて「師匠」と向き合った日
上場を終えて退任し、自分の会社を立ち上げた──そのとき、私はふと思い立った。
「あの人に、報告をしよう」
もう長らく連絡を取っていなかった、あの上司。
私を育て、突き放し、引き上げてくれた“師匠”に、今の自分の姿を見せたいと思った。
連絡先をたどり、ようやく再会が実現したのは、出会いから12年が経った頃だった。
久しぶりに対面したその姿は、以前より少し痩せて、小柄に見えた。
でも、話し方も所作も、あの頃とまったく変わらない。懐かしくて、嬉しくて、どこか胸が熱くなった。
私が独立したことを報告すると、師匠は短く、こう言った。
「独立か。續池さん、本当にすごいね。おめでとう」
──初めて、褒めてもらえた瞬間だった。
あの厳しくも優しい目が、真正面から私を認めてくれた。
言葉にできないほど、嬉しかった。
12年越しの、師弟の再会。
その一言が、私の中で何かをそっと、温かく閉じてくれた気がした。
最後に──誰かの「師匠」になるということ
あれから、私も年を重ね、気がつけば「指導する側」に回ることが増えてきた。
社員を育て、後輩にアドバイスし、若いプロサッカーの挑戦を後押しする──
そんな役回りが、日常になった。
そしてふと、自分の言動が、かつてのあの人に似てきたことに気づく。
「全部は教えない」
「でも、ヒントは渡す」
「手は貸さない。でも、見捨てない」
まさに、あの“師匠”が私にしてくれたことを、私はいま、自分なりに実践しているのだ。
もちろん、あの人のようには到底なれない。
でも、「あのときの自分が必要としていた言葉」を、誰かに渡せたらいい。
そう思いながら、私は今日も、誰かの“背中を押す”ような仕事を続けている。
「師匠」とは、教える人ではない。
“生き方”を示し、“背中”で伝える存在だ。
人生のある一時期、ただ黙々と働きながら、いつの間にか誰かの方向性を決めてしまう。
言葉は少なくても、距離はあっても、その人の姿勢が、言葉にならない形で深く刻まれる──それが、師匠という存在なのだと思う。
現代社会では、“師弟関係”は古臭いと思われるかもしれない。
しかし私は、それが人を深く動かす“最も自然なかたちの学び”だと思っている。
もし今、あなたに「師匠」がいるなら、大切にしてほしい。
そしてもし、まだ出会っていないのなら──
もしかすると今、あなたの目の前にいる少し不器用で、少し厳しい誰かが、未来の「師匠」になるかもしれない。
そして、あなた自身が誰かの“師匠”になっていくかもしれない。
そのときには、どうか胸を張って言ってほしい。
「私にも、かつて“師”と呼べる人がいた」と。
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