『THE ORIGIN OF ULTRAMAN』はなぜ作られたのか?――60年目の問い直し
先々週の日曜日、11歳の娘ちゃんと2人で、ひらかたパークで開催されていた「ULTRAMAN EXHIBITION - ウルトラマンシリーズ60周年展」の最終日に、滑り込みで行ってきました。
娘ちゃんは、入場特典やウルトラショットに推しトラマンの「X」がいなかったため、最初は少し意気消沈していました。
ところが、最後のウルトラマン大集合コーナーで「X」を見つけると、大興奮で駆け寄り、写真を撮りまくっていました。
その姿を見られただけでも、連れて行ってよかったかなと思います。

かくいう私は、怪獣の着ぐるみコーナーで「早く行こう」と娘に急かされるレベルで、怪獣を凝視しまくっていました。
怪獣の着ぐるみって、本当に良いものですね。

さらに、話題になっていた「with U」のムービーでは、「こんなの見せられたら泣くに決まってるやん!」という、情緒が壊れる状態に。
3つのスクリーンの間に生じる圧倒的な映像体験は、まさに歯車的感動の小宇宙でした。
そして翌週末には、新番組『ウルトラマンテオ』の放送が開始。
さらにその翌日には、大阪まで遠征して『THE ORIGIN OF ULTRAMAN』を観に行くという、まさしくウルトラマン漬けの1週間を過ごしました。
直訳すれば「ウルトラマンの起源」と題されたこのドキュメンタリー作品を見終わった後、まず思ったのは、この映画と『ウルトラマンテオ』の放送開始のタイミングが重なったことは、意図的なものだったのではないか、ということでした。
本作は円谷プロが「ウルトラマン60周年」を迎えるにあたり、
「ウルトラマンとは何なのか?」
「何のためにウルトラマンを作り続けるのか?」
という問いを、自らに問い直し、再定義する試みだったのではないでしょうか。
それでは、その再定義とはどういったものだったのか。
ここから、私の感想を書いていきたいと思います。
解説・あらすじ
特撮ドラマシリーズの金字塔「ウルトラマン」の60周年を記念して製作されたドキュメンタリー。
1966年に放送開始された特撮テレビドラマ「ウルトラマン」は、最高視聴率42.8%を記録し、社会現象を巻き起こした。誕生から60年が過ぎた現在も、円谷プロダクションは新たなウルトラマンシリーズ作品を次々と世に送り出し、世代や国境を越えて愛され続けている。
本作は「怪物」「万引き家族」などの映画監督・是枝裕和が企画を手がけ、映画・特撮・デザインなど各分野を代表するクリエイターが多数出演。映画監督のギレルモ・デル・トロ、是枝裕和、ニコラス・ウィンディング・レフン、ゲームクリエイターの小島秀夫、アニメ監督の庵野秀明、特撮監督・映画監督の樋口真嗣ら国内外の第一線で活躍する人々が独自の視点で語りつくし、「ウルトラマンとは何なのか」という疑問をひも解いていく。主人公がヒーローでありながら怪獣のバックグラウンドも丁寧に描くという世界観や、ウルトラマンと怪獣双方の造形が持つ強い魅力に迫るとともに、円谷英二や当時のスタッフの発想と仕事にも光を当て、ウルトラマンがどのようにして世界へ広がっていったのか、その歩みをたどる。
2026年製作/105分/G/日本
配給:TOHO NEXT、円谷プロダクション
劇場公開日:2026年7月3日
ーーーーココからネタバレーーーー
◾️これはトリビアを楽しむ映画ではない
このドキュメンタリー映画で語られていたのは、単なるウルトラマン誕生の裏話や、制作当時のトリビアではありません。
もちろん、ウルトラマンのデザイン、怪獣の描写、初代『ウルトラマン』が持っていた思想性など、ファンならある程度知っている話も多く登場します。
怪獣を、善悪二元論の単なる「悪」として描かない姿勢。
アルカイックスマイルをたたえた、弥勒菩薩のようなウルトラマンの表情。
一神教的な絶対正義ではなく、自然や異物や異界を含んだ、多神教的な感覚。
本作は、そうしたウルトラマンの本質を、名だたるクリエイターたちの証言によって改めて確認していきます。
その意味では、マニアが驚くような新情報は多くありません。
けれど、それでいいのだと思います。
この映画は、新しいトリビアを披露するための作品ではありません。
むしろ、制作者やファンが「ウルトラマンとは何なのか?」をもう一度問い直すためのセレモニーだったのだと思います。
そして私にとっては、「ウルトラマンが、自分に何を信じさせてくれていたのか」を思い出す映画でもありました。
◾️ウルトラマンが子どもに渡してきたもの
本作で是枝監督が提示しているのは、根源的な問いかけでした。
「ウルトラマンはなぜ必要なのか」
「なぜ、60年経った今も作り続けられるべきなのか」
本作はその問いに対して、各国のクリエイターたちが自身の子ども時代を思い返しながら、それぞれの言葉で証言していく映画でした。
そこで強く感じたのは、子どもの頃にどんな物語に触れるのか、何に心を動かされるのかが、その後の人生に大きな影響を与えるということです。
ウルトラマン以前のヒーロー番組は、勧善懲悪の色が強い作品がほとんどでした。
しかし、ウルトラマンに登場する怪獣や宇宙人には、「本当に倒すべき悪なのか?」という問いがありました。
自分とは違う存在と、どう向き合うべきなのか。
強い力を、何のために使うのか。
ウルトラマンは、そうした問いを子どもたちに物語として届けてきました。
そこには、先の大戦の記憶と、戦後の価値観の転倒が色濃く残る時代を生きたクリエイターたちだからこそ描けた、強さへの疑いがあったのだと思います。
圧倒的な力を持つ者が、その力を断罪のためではなく、誰かを守るために使う。
その姿を通して、ウルトラマンは「強さとは何か」「正義とは何か」を問い続けてきました。
しかも、その問いを子どもに向けて本気で投げかけていた。
そこには、「子ども番組だからこそ、子ども扱いしない」という矜持があったのだと思います。
それが、ウルトラマンという物語だったのではないでしょうか。
◾️私にとってのウルトラマン
人は、親や先生から教えられたことだけで育つわけではありません。
本、テレビ番組、映画、漫画、ゲーム。
そうしたものを浴びながら、少しずつ自分の輪郭を作っていく。
私にとって、そのひとつがウルトラマンでした。
小学1年生の時、テレビの再放送で観た『帰ってきたウルトラマン』が、私にとって初めてのウルトラマン体験でした。
当時の私は、ウルトラマンというヒーローの格好良さに夢中でした。
それ以上に、毎週登場する怪獣の魅力に強く惹きつけられていました。
まだビデオがなかった時代です。
放送時間になると何を置いてもテレビの前に正座し、画面を食い入るように見つめていました。
そんな中でも、「怪獣使いと少年」は、子どもだった私の心に大きな衝撃を残したエピソードでした。
あまりにも有名な話なので、ここでは詳しく書きません。
ただ、この話を観たとき、幼心にも物語の中に世界の不条理や情緒を感じました。そして、「正義」という言葉が、ときに暴力にもなり得ることを、ぼんやりと嗅ぎ取っていたように思います。
この話を観終えた時、私は「パン屋のお姉さんのような人間になろう」と強く思ったことを覚えています。
それは今でも、私の中でひとつの人生の指標として残っています。
だからこそ、クリエイターたちが語る「ウルトラマンとは何だったのか」という問いは、単なる作品論には聞こえませんでした。
それは、自分が子どもの頃に何を受け取り、何を信じて大人になってきたのかを、彼らの言葉を通してもう一度確かめる時間でもありました。
◾️レフン監督が語ったウルトラマン評
その意味で、海外クリエイターたちの証言は非常に印象的でした。
彼らはウルトラマンを、単なる日本の特撮番組としてではなく、自分自身の人生や美意識、倫理観に関わるものとして受け取っていました。
なかでも強く心を動かされたのが、ニコラス・ウィンディング・レフン監督の言葉です。
「ウルトラマンを見て、女性よりも美しいものがあることを知った」
「自分の中に良きものがあると信じられる」
この言葉には、深く感銘を受けました。
ウルトラマンをどうしても「コンテンツ」として享受してしまいがちな日本のファンからは、なかなか出てこない言葉だと思います。
レフン監督は、ウルトラマンを単なる巨大ヒーローとしてではなく、「美」や「善性」への信仰に近いものとして受け取っている。
美しく、異様で、神秘的で、こちらの価値観を根本から揺さぶる存在。
だからこそ、「自分の中に良きものがあると信じられる」という言葉は、ウルトラマンという存在の核心を見事に言い当てた、本作の中でも特に素晴らしい評だったと思います。
◾️庵野秀明監督への物足りなさ
一方で、庵野秀明監督の発言には、私としては正直、物足りなさを感じました。
庵野監督が語るウルトラマンは、ディテールやフォーマット、映像表現への関心が中心にあるように見えたからです。
ウルトラマンという「型」への呪縛。
もちろん、それもひとつの深い愛情の形だと思います。
作品の構造、記号、引用、ディテール、フォーマット。
そこに強い愛情を注ぐこと自体を否定するつもりはありません。
彼が脚本を担当した『シン・ウルトラマン』も、初代『ウルトラマン』の「型」を現代的に再構成した作品としては、よくできていたと思います。
ただ、今回のドキュメンタリーを観て、私の中ではひとつ答え合わせができた気がしました。
『シン・ウルトラマン』は、ウルトラマンの「映像表現」や「形式」には非常に意識的でした。
けれど、ウルトラマンが何を描こうとしていたのかという「思想」には、あまり踏み込んでいなかったのではないか。
なぜウルトラマンは人間を助けるのか。
なぜ人間はウルトラマンに憧れるのか。
ウルトラマンは、人間の何を肯定しているのか。
『シン・ウルトラマン』は、そういった部分の描写が薄かったように思います。
だから、作品としては「よくできた再構成」ではあっても、観たあとに「自分の中にも良きものがあると信じられる」映画にはなっていなかった。
これは、かなり大きな違いです。
私の勝手な想像ですが、昭和40年代生まれのオタク的感性の多くは、庵野監督的「型」への執着が強いかもしれません。
どのように作られているか。
何を引用しているか。
どのフォーマットを、どう再現しているか。
そこに強い関心を向ける。
それはそれで、ひとつの誠実なファンのあり方です。
しかし、ウルトラマンという作品が本当に問うてきたものは、その先にあるのではないかと思います。
「どのように作られているか」ではなく、「何のために作られているのか」。
「何を再現するか」ではなく、「何を信じさせるのか」。
『THE ORIGIN OF ULTRAMAN』が照らし出していたのは、まさにその差だったのではないでしょうか。
◾️円谷プロが語り直すウルトラマン史
また、本作では、円谷プロがオフィシャルな立場から、これまでのウルトラマン史を語り直そうとする姿勢も感じられました。
成田亨氏のオリジナリティをきちんと認めること。
金城哲夫氏の戦争体験が作品に与えた影響に触れること。
飯島敏宏氏が第2話のラストについて抱いていた後悔を語ること。
そして、これまで「監修」として扱われることの多かった円谷英二の存在を、改めて開祖として位置付けること。
そこには、ウルトラマンを単なるキャラクタービジネスではなく、作家性と思想を持った文化として位置づけ直そうとする意思があったように感じました。
一方で、実相寺昭雄と佐々木守の名前が出てこなかったことは、少し気になりました。
ウルトラマンが持つ文学性や社会批評性を語る上で、この2人の不在はやはり欠かせない。
この映画が「ウルトラマンを信じ直す」方向に重心を置いた作品だからこそ、あえてそこには深く踏み込まなかったのかもしれません。
◾️だからウルトラマンは必要なのだ
この映画で、私と同じように長年ウルトラマンを愛してきた人たちの言葉に耳を傾けるうちに、ウルトラマンが60年続いてきた理由を、実感できた気がしました。
ウルトラマンは、子どもにただ「強くなれ」と言うヒーローではありません。
時代とともに、「正義」や「正しさ」のあり方は変わっていきます。
それでもウルトラマンは、力を持つ者こそ、力を持たない者の痛みに想像力を向けなければならないのだと見せてくれる。
その力は、勝利のためではなく、誰かの孤独や悲しみに手を差し伸べるためにある。
そして大人になった私たちにも、まだ自分の中に良きものが残っていると信じさせてくれる。
だから、ウルトラマンは今も必要なのだと思います。
ウルトラマンとは何だったのか。
ウルトラマンはなぜ必要なのか。
その答えは、決して懐かしさの中だけにあるのではありません。
これからもウルトラマンを観た子どもたちが、自分も誰かの痛みに気づける人間でありたいと思えること。
そのために、ウルトラマンはこれからも作り続けられていくのだと、私は思います。

