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【ランニング/お仕事小説】ここから先は、私の想い 第5章 光と影の洗礼

前の話 第4章:覚醒〜ディープインパクト

第5章 光と影の洗礼

水戸での劇的なサブ3達成(2時間58分42秒)。そして、そこからわずか1ヶ月後のつくばマラソンで叩き出した、衝撃の2時間54分30秒。

短期間で異次元の進化を遂げた藤崎美由紀の走りは、雑誌『爽』の連載を通じて、瞬く間に多くの市民ランナーの知るところとなった。「フルタイムで働く証券会社員が、2時間54分台で走る」。そのインパクトは凄まじかった。
「藤崎さん、連載の反響がものすごいことになっていますよ! 同世代の働く女性だけじゃなく、目の肥えたシリアスランナーたちからも『どんな練習をしているんだ』って問い合わせが殺到してるんです」

編集の山田からの弾んだ声の通り、美由紀が日々の練習ログや、仕事のストレスをランニングで調律していく日常を綴るThreadsやXのアカウントは、またたく間に万単位のフォロワーを抱えるようになっていた。
しかし、光が強くなればなるほど、その背後に落ちる影もまた、濃く、深くなっていく。

12月のある夜。仕事を終え、自宅のリビングでストレッチをしながらスマートフォンを開いた美由紀は、画面に並ぶ見慣れない言葉の数々に、指を止めた。

『2時間54分台とか、もう一般の会社員を装うのやめてほしい。どうせ裏でメーカーから手厚いサポートとか貰ってるんだろ』
『結局、自己満足のタイム自慢。キラキラ営業女子の承認欲求に付き合わされるの、正直痛いわ』
『仕事も100%とか言いつつ、それだけの練習時間を確保してる時点で、どうせ会社では特別扱いされてサボってるんでしょ。周りの同僚の迷惑を考えろよ』

心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
指先が冷たくなり、喉の奥がキュッと縮まる。
証券会社の営業として、日々厳しい市場の波に晒され、顧客からの理不尽なクレームにも頭を下げてきた。メンタルは強い方だと自負していた。ビジネスの場であれば、「これは仕事だ」と割り切る冷徹さを持っていた。
けれど、これは違った。

誰かに強制されたわけでもなく、お金のためでもない。自分が毎朝5時に起き、暗闇の中で汗を流し、コツコツと自分と向き合いながら築き上げてきた純粋な聖域――「走ること」の喜びそのものを、見ず知らずの他人に土足で踏みにじられたような、激しい痛みが美由紀を襲った。

(私は……ただ、走ることが楽しくて、そのリアルを伝えたかっただけなのに……)

それ以来、スマートフォンを見るのが少しだけ怖くなった。更新ボタンを押す指が、どうしても躊躇してしまう。マナミが言っていた「外野の雑音」という言葉の本当の重さを、美由紀は身を以て知ることになった。

「何よそれ、完全にただのひがみじゃない」
12月の上旬、週末の昼下がり。代々木公園の遊歩道をゆっくりと歩きながら、梨沙が憤慨したように声を上げた。
無事に退院し、リハビリを兼ねて少しずつウォーキングを始めた梨沙の顔色は、以前よりもずっと健康的だった。
「気にする必要なんて、1ミリもないわよ。美由紀が毎朝毎晩、仕事で疲れてるにもかかわらずコツコツ走ってるか、その人たちは何も知らないのにね」
「うん……分かってる。分かってるんだけどね」
美由紀は苦笑いしながら、冬の澄んだ空を見上げた。
「営業の仕事なら、どんなに叩かれても平気なんだけどな。でも、ランニングは私にとって、一番嘘のない場所だから。そこを『会社の迷惑だ』とか言われると、なんだか自分が全否定されたような気がしちゃって。発信を続けるの、少しお休みしようかなって思ったりもして……」

歩みを止め、梨沙が美由紀の前に回った。そして、少し怒ったような、けれどどこまでも温かい目で美由紀を真っ直ぐに見つめた。
「美由紀、あのさ。私みたいに病気で体を動かすことができなかった人間や、そもそも運動が苦手な人間から見たらね、美由紀の運動も仕事も一所懸命にやる姿は、眩しいくらいの光なんだよ」
梨沙の言葉が、美由紀の胸にじんわりと染み込んでいく。
「美由紀の記事を読んで、『私も明日、ちょっとだけ歩いてみようかな』って思った人がどれだけいるか。外野の雑音なんかに、美由紀の大切なバトンを落とさせないで。それにね、私、美由紀の『爽』の記事を読んで、走れない側の人間として思ったことがあるの」
「思ったこと?」
「普通の人がね、新しく『走ることを始める』のって、実はもの凄くハードルが高いのよ。どんなウェアを買えばいいか分からないし、一人で外を走るのって最初は恥ずかしいし、苦しいだけで終わっちゃいそうだし。美由紀みたいに、自分で目標を決めて実行する楽しさを知る手前で、みんな諦めちゃうの。そこを解決して、一歩を踏み出せるような、寄り添ってくれる何かがあればいいのにね」

走る手前にある、高いハードル。
その梨沙の言葉は、美由紀の脳裏に、全く新しい視点を与えてくれた。
これまでの自分は、どうやってサブ3を達成するか、どうやって速くなるかという「ランナー側の視点」しか持っていなかった。しかし、世の中には、仕事で落ち込んでいたり、毎日に退屈していながらも、「走る楽しさ」に出会うきっかけすら掴めずにいる人が、星の数ほどいるのだ。

「山田さんもマナミさんも、みんなその楽しさを必死に伝えようとしてる。私も、もっとたくさんの人に、心からそれを伝えたいな」
美由紀の胸の奥で、小さく萎みかけていた火種が、梨沙の言葉によって再びパチパチと熱く燃え上がり始めていた。タイムを追う楽しさを知ったからこそ、今度はその先にある「価値」を誰かに届けたい。美由紀が以前サトシに語った微かな憧れは、今や明確な意志へと変わりつつあった。

つくばマラソンでの2時間54分30秒という驚異的な記録は、美由紀を完全に次のステージへと押し上げていた。そして、季節は1月へと向かっていく。
美由紀にとって、1月末の大阪国際女子マラソンは、2年連続の出場となる特別な意味を持つ大会だった。
1年前のあの日、猛烈な向かい風に抗い、這うようにしてフィニッシュした原点の舞台。病床から応援してくれた梨沙、不器用に見守ってくれる家族、そしていつも味方でいてくれるサトシの、みんなの温かい思いを背負って、自分の持てるすべてを出し切る最高の場所。

「今年も、あの舞台を全力で走りたい。あそこは、私にとって毎年戻ってきたい、最高の楽しみの場所だから」

しかし、その強い想いとは裏腹に、現実の壁が容赦なく美由紀に襲いかかった。
12月から1月にかけて、証券会社は年末年始の強烈な繁忙期に突入する。
営業の数字目標は跳ね上がり、顧客の資産運用に関する相談は夜遅くまで続いた。さらに新入社員のフォローや引き継ぎのサポートも重なり、タスクは膨れ上がる一方だった。

美由紀の美学は、ここでも彼女を追い詰めた。
「中途半端な仕事をして、会社やチームの仲間に迷惑をかけることだけは、絶対に嫌」
朝5時に起床し、つくばを経てさらに強度の上がったエリートメニューをこなすため、凍てつく暗闇の中で息を切らせて走る。出社すれば、夜まで一瞬の隙もないほど完璧に営業としての職務を完全にこなす。夜、帰宅してからは、疲労で鉛のようになった身体でプランクとランジウォークを行う。
睡眠時間は削られ、肉体も精神も、完全に極限状態に達していた。

「美由紀、少し顔色が悪いよ。無理しすぎじゃないか?」
サトシが心配そうに覗き込んでも、「大丈夫、自分で決めたことだから」と強がるしかなかった。
多くのランニング関係者と交流し、梨沙の言葉を聞いたことで、「ランニングの素晴らしさを同世代の人たちに、もっと自由に、もっと深く伝えたい」という想いは、今や抑えきれないほど大きく膨らんでいる。
けれど、会社員としての本業を完璧に全うしようとすればするほど、その活動に割ける時間もエネルギーも、物理的に限界を迎えていた。
両方を100%でやり続けることは、もう不可能なのかもしれない。

(でも、どちらかを中途半端にするくらいなら)

軋みを上げる日常の中で、美由紀の心は、激しい葛藤の渦に巻き込まれていた。
ランニングが教えてくれた「自分で目標を決め、自分で人生をコントロールする楽しさ」を、本当の意味で体現するためには、私はどう生きるべきなのか。
その明確な答えを出せないまま、美由紀は、すべての始まりの舞台である、1月の大阪国際女子マラソンのスタートラインへと向かおうとしていた。彼女の人生の歯車が、最も激しく、静かに回転を始めようとしていた。

次の話

本小説は「ここから先は、私の時間」の続編です

証券会社で働く藤崎美由紀は、何気なく参加した労組のイベント「皇居ラン」を機にランニングの世界へ。仕事と違って自分の意思で自由に走れる魅力に惹かれた彼女は、地道な練習を重ねるうち、低心拍数のまま高いペースを維持できる「天性の心臓の強さ」という眠っていた資質を覚醒させる。着実に実力をつけた美由紀は、ついにエリートランナーの証である最高峰の舞台「大阪国際女子マラソン」の出走権を掴み取る。
だがその裏で、親友の梨沙や家族の日常に予期せぬ影が差し込む。激しい葛藤のなか、美由紀は彼らに明日を生きる勇気を届けるため、「サブ3」を掲げて大阪のスタートラインに立つ。
レース終盤、猛烈な疲労と激しい向かい風の壁に阻まれながらも、大切な人たちの祈りを背に死力を尽くしてゴールへ突っ込み、倒れ込んだ。目標に僅かに届かなかったものの、全てを出し切った美由紀は、病床の梨沙に完走タオルを手渡し、次の未来へ走り出す。

小説「ここから先は、私の時間」 ダイジェスト

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