フォビア:失くしたい記憶②
不思議と、小学生の頃のような、鳥肌立って、貧血起こしそうな、呼吸さえできないような恐怖の毛虫との遭遇はしばらくなかった。毛虫を見たら走って逃げるというぐらいなことは常にあったけど。その静けさの分だけ、やつらは大人になった私に悪夢を見せた。
19年前の記憶:食感
日本にも進出している会員制倉庫型スーパーCostco(日本ではコストコというらしいけど、アメリカではコスコ)のイチゴは安いし、オーガニックのものもあるし、いっぱいあるし大好きだった。何しろいっぱい食べられることが食いしん坊の私にはうれしかった。当時オレゴン州に住んでいた私たち。
トラウマで詳細は覚えていないけど、リビングルームでドラマか映画を見ながらイチゴを食べてた。器に入ってる最後のイチゴをガリっとかじったとき、何やら固いものがあって吐き出した。なんだろう?イチゴにもこんな固い部分ってあったっけ?そう思って最後の一口を更に口の中に押し込もうとした、そのとき。
胸をざわざわさせる何かが私の目に入った。黄緑と表現するには明るすぎる異物。ライトグリーンとカタカナ書きした方がしっくりする明るい異物。
イチゴのヘタは緑だ。このライトグリーンは何!?小さなフサフサは何!?
ホラー映画の主人公の気持ちとはこんなものだろうか。見ちゃいけない、
開けちゃいけない、と分かっているのに、人間の意識の根底に存在する
好奇心が、「見ちゃいなよ、開けちゃいなよ」と思わせる。止めておいた方がいいという頭脳からの指令をも無視させる。
毛虫かもしれないと思った時に、夫にバトンタッチしてしまえば良かった。「でも毛虫じゃなかったらバカバカしいし恥ずかしいよね」と思っていよいよ真剣にライトグリーンの異物を凝視した。細長くてフサフサしてて頭の方に小さな黒い丸。
これ毛虫でしょ。
これ毛虫の目でしょ。
ダメ。ここで取り乱したらダメ。気が狂う。
私「これ」
夫「ん?」
毛虫だよ、と言おうとして、毛虫という言葉を発生するのも嫌なぐらい
私は毛虫が怖くて毛虫にまつわるトラウマは既に容量いっぱいなことを思い出した。
「ぎゃああああああっ」っと叫んで、発狂寸前で器を放り投げた。器はスローモーションのごとくソファに落ち、ソファをすべり落ちて床へ。夫は落ちた床を見つめた。
ティッシュをつかみ、毛虫をつまみ上げ、キッチンに向った夫。
夫がキッチンにいる間、「あーーーーーーーっ」「わーーーーーーーっ」「ギャああああああああああああああああああああああ」「うぎゅああああああああああああああ」と叫び続けた私。

ひっきりなしに叫び続けた私に、当時元気だった先代猫Miaと先代犬Moniqueは怯えて、Miaはキッチン奥にあるダイニングルームに走って
テーブルの下に隠れ、MoniqueはMiaのボックス型ベッドに潜り込んで隠れていた。
夫は慌しく残りのイチゴ全てをゴミ袋に入れて外に出て行った。毛虫を処分した夫は「看護婦さんに聞いてみよう」と言った。当時、アメリカには地域によって登録された看護師が常駐している電話相談があった。「そんな話聞いたこともないしデータとしてないので分かりません。食中毒関連の相談番号がありますのでそちらでお聞きになってください」とのこと。
食中毒対応番号にかけると「毛虫を食べたということは気持ち悪いことかもしれないけど、消毒薬を食べることに比べたらなんでもないのよ。」「歯を磨いてうがいをしてイチゴを買ったお店に商品を撤去するよう電話をすることね。」とそんなことなんでもない、緊急事態でもないという対応だった。
「なんだ、大丈夫なんだ」という安心感を誘ってくれたものの、毛虫を食べてしまった事実を消すわけではない。
もう生涯イチゴは食べられないだろう。
翌日の朝Cosctoに電話すると、「え?本当ですか?本当にうちの店舗ですか?」と何度も確認された後で「ただちに商品管理者に伝えます。レシートか商品を持参していただければ返金します。」と言われた。
返金なんていいよ。商品は食べちゃったんだってば!毛虫がうごめいてるようなイチゴ売らないでよ(涙)もう生涯イチゴが食べられないよ(涙)

でもオーガニックってそういうことなんだよね。農薬がかかってないから、毛虫も安心して育つってことなんだよね。当時は生涯イチゴは食べられないって叫んでたけど、「1年後」に食べられるようになった。食いしん坊がフォビアに勝ったんだろう。そして相変わらず、どこのお店で買うにしても選択肢があるならオーガニックを選んで食べている。農薬を食べることより毛虫を食べる道を選んだとは言いたくない。変わったのは、夫が必ず、イチゴを小さく切ってくれるようになった。万が一に備えて。もし見つかったとしても私には言わないことになっている。私の精神上の安定のために。
19年前の記憶:住処
オレゴン州に住んでいたある日の週末、先代犬Moniqueを連れて、ポートランド市のForest Parkへ。広さ5000エーカーで都市部では全米で最大の保安林らしい。あの日は暑かったから、少しでも涼しい場所でMoniqueを歩かせたかった。

駐車場に車を止めて数歩先のハイキングコースの入り口に入った時点からそこは森だった。背の高い木々が空を覆って日差しが入ってこない。周りを見渡す限り木、木、木。

最初に入った小さいハイキングコースから、メインのハイキングコースに入ってほんの数歩、夫とMoniqueの写真を撮った直後のこと。

毛虫を恐れてる私には地獄のような光景が広がっていた。ハイキングコースの道の幅が狭いので、夫とMoniqueを先頭に私が後ろを歩いていた。夫とMoniqueは何も気付かず、どんどん歩みを速めて行ったんだけど、私にはその異様な光景が目に入ったときから動けなくなった。
黒いモノが右から左へ、左から右へと横断し続けていた。結構な数の黒いモノが。それも日本で見かけるようなゲジゲジではなく、筋みたいなものが浮き出ていて、筋肉がある毛虫のようで、ゲジゲジよりもおぞましい姿だった。毛虫も国が違えば形を変え、大きさも変わるのだろう。
「ぎゃああああああああああああああああああああああっ」
「ぎゃーっっ」
「ぎゃああああああああああああああああああああああっ」
3回ぐらい半泣きの叫び声を出すので精いっぱいだった。夫がびっくりしてMoniqueと戻ってきた。戻ってきたMoniqueがその毛虫たちを踏んづけながら私の方に向かってくる。可愛い、トイプードルが、毛虫を踏みつけながら近づいてきたのだ。

可愛いからこそ、より一層ホラーだった。
「NOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO」
「来ないでぇっ」
立ち止まった夫。立ち止まった瞬間もMoniqueは前足で毛虫踏んづけてた。
私「毛虫がそこら中にいる」
近付いてきた夫は、半泣きの私を見てとりあえず微笑んだ。「仕方ないよ。
ここは彼らの居場所で僕らがお邪魔させてもらってるんだよ。」
気が付いたら背後の道にもいたし右左の草木にも毛虫はいた。
パニックに陥った私。「ギャーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ」
と叫んで夫に飛びつき、夫が大木でもあるかのように、夫の体を登ってぶら下がった。身長差51cmあるからできることだ。夫にぶら下がりながら叫んで泣いて叫んで泣いて。叫んで泣きすぎて呼吸もできなくなってきた。慌てた夫。「分かった。引き返そう」「歩ける?」
歩けないっ
「僕が押すように歩くから前だけ見て歩いて。下は絶対見ないで」夫が言ってる間も叫んで泣いて叫んで泣いて。
あのとき、他の散歩客がいたら相当恥ずかしかっただろうけど、駐車場に数台の車が止められてあったのに誰も通らなかった。あれだけの音量で叫んで泣いてるのに誰も通りかからなかった。広いということがときとしてアダになる。犯罪を犯すにはとっておきの場所ではないか。
静寂の中響き渡る私の絶叫と泣き声は、誰にも届いていなかった。
夫がなんとかして右腕で私の背中を押して、左腕でMoniqueを歩かせた。でもMoniqueが私の絶叫と泣きようにびっくりして、私が動かない限りMoniqueも動かない。
このときの私には、毛虫を踏んづけて歩いたMoniqueを抱っこするほどの余裕がなかった。夫よりも私が好きだったMoniqueは私を見つめて動けないでいた。夫が何度もMoniqueを押すように引っ張っても、振り返り振り返り私を見る。他人が見たらものすごく奇妙な動きをして歩いていた私たち。
どうやって駐車場にたどりついたのか覚えていない。ずーっと泣き叫んでいたことしか覚えていない。
大人になってから体験したこの2つの悪夢は確実に私の「フォビア」を完成させた。でも毛虫たちはこれだけでは終わらせてくれなかった。
