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見返り鬼譚《耳あり芳一外伝》【第七夜】峠の雷、祠の誓い(連作短編)

清閑寺の女が語る、夜ごとの鬼譚。
語られるのは、祇園に生きた誰かの結末――
けれどその結末は、ひとつではない。
同じ怪異、異なる結末。
読み手の耳に委ねられた真実。
『耳あり芳一』外伝 “見返り鬼譚”、ここに開帳。


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第七夜 角一と彦七の忠義 其のニ    
    峠の雷、祠の誓い

──ポロン。

静かなる夜に、琵琶の糸がひとつ鳴る。

「峠越えと申しますは、足の早さや力業ばかりでは務まりませぬ。
必要なのは、ひとつ、ただ、進むという心──
されど、その“進む”が、いかに困難かを、今宵はお聞きいただきとうございます」


◇◇◇◇◇


今宵お聞かせするのは、ふたりの下知役が越えた、山と雨と、そして“迷い”の物語。

京を目指し、武蔵国を発ったのは、梅の香がかすかに漂い始めた朝でございました。

北条の館を背に、角一と彦七は馬を駆る。
野にはまだ霜が残り、農人らは鍬を持ちつつも空を見上げ、ふたりを見送っておりました。

「なにかあったんですかい?」
と、問う声に答えず、ただ無言で通り過ぎるふたり。

行き交う村人たちは、不穏な空の色に気づいていたかもしれません。

川を渡り、野を越え、小田原へと向かう道。
この時代、道といえば獣道。馬の蹄もときおり石に弾かれ、進みは容易でございません。

しかしながら、ふたりは黙して進む。

途中、竹林のあいだでひっそりと咲く梅の一枝に、彦七が目を止めた。

「角一……春だな」

「いや、まだ冬だ」

「ふっ……相変わらずだなおぬしは」

そんな短いやり取りも、旅の息継ぎのひとつ。
だが足を止めることはない。なにしろ、背負った使命が重い。

やがて、山が近づき、湿り気を帯びた風が肌を撫でる。
それは、箱根の峠へと誘う風。

登り坂に差し掛かる頃、馬の足取りがにわかに重くなる。

「……角一。道が、泥だ」

「……雨のあとか」

ふたりは馬を下り、手綱を引きながら峠の麓へと進んでいった。

そのとき、遠くで──

ごろろろろ……

雲の底が、低く唸る。

角一が空を仰ぎ、彦七が舌を鳴らす。

「こりゃ来るぞ。嵐だ……」

道は狭く、崩れかけ。馬では、とうてい登れぬ。

ふたりは、互いに顔を見合わせ、鞍を外して馬を放した。

「……すまねえな」

彦七が馬の首を軽く撫でる。
そして、鞍から護符と荷を取り出すと、足元を固めて登り始める。

そのとき──

ゴロロロォォ!!

天が、裂けた。

雷が、山を揺らした。

「……ぬお……!」

雲が裂けるような音とともに、
空の底が砕けたかのような、雷の声が響いた。

「角一、来やがったな……」

彦七が歯を食いしばりながらつぶやく。
ひとしきりの雷に続き、天より大粒の雨が降り始める。

ザザザァァア!!

細い山道、すでにぬかるんでいた地面は、たちまち泥と化す。
足を取られ、進むも退くも容易ではない。

「……! 角一、あれを見ろ、社だ……!」

木立の影に、ひとつの朽ちた祠があった。
屋根は傾き、軒には苔が生え、注連縄も千切れて久しい。

「入るぞ!」

ふたりは、黙してその祠に駆け込んだ。

ザー...ゴロロぉ...

風が抜け、雨が叩き、遠くでまた雷が鳴った。

「はぁ……はぁ……まったく、なんて旅だ」

祠の中で、彦七が髪から落ちる雨を手で払う。

「角一、聞いてるか……。
おれぁ、怖いとは言わねえが……なんだか、こう……胸がざわつくのよ。
まるで、誰かが“行くな”って、そう囁いてる気がする……」

角一は、濡れた衣を絞りながら、静かに頷いた。
そして一言。

「……俺も、そうだ」

「へっ? おぬしでもそんなふうに感じるのか」

「……感じる。だが、歩みは止めぬ」

「……ふん、だよな。俺たちゃ下知役。背中を見せるなんて、できるわきゃねえ」

ふたりの会話の傍ら、祠の柱に、不思議な墨跡が浮かび上がっていた。

──西より呪、解けし時
 この峠を越ゆるなかれ


「……角一、こいつぁ……」

「気にするな。ただの昔の言い伝えだ」

「そうだな……行こうぜ。どのみち、おれたちゃ決めてる」

ふたりが祠を出るとき、空はまだ暗く、
雨の隙間から雷光が一閃、遠く山の向こうを照らした。

「忠義とは、歩みを止めぬことだ」

「わかってるさ。前へ──ただ前へ、だな」

そしてふたりは、また歩き出す。

◇◇◇◇◇

「……ええ、あの夜のこと。
雷が鳴く山にて、ふたりの男は進むを選びました。
戻るも道、進むもまた道──
ですが、彼らの背は、けして山を向かなかったのです」

──ポロン。

琵琶の音がまた、夜を割る。

◇◇◇◇◇


山の雨は、地を叩き、葉を打ち、
やがて峠の奥へと音を吸い込ませた。

その後の道は、泥と水の混じった細流のようであった。

靴の裏に重く絡む土。
濡れた木の根がすべるたびに、彦七が呻く。

「くそ……この足じゃ、京まで三十日ってとこだな」

「馬なら十日で済むがな」

角一がぼそりと漏らすと、彦七は顔を上げて笑った。

「言ってくれるぜ。だがな、角一。
いまさら馬に戻っても、あの道は崩れてる」

「ならば、歩くしかあるまい」

「まったくだ。戻るって選択肢は、ねえしな」

ふたりは肩をすくめ、雨のなか笑い合う。
この旅路が、果てあるかも知れぬ道であることを、互いに知りながらも。

やがて雨がやみ、空にわずかな光が差した。

振り返れば、峠のむこうに青空が覗く。

振り返らず、ふたりはまた歩く。

角一は足を止めぬ。彦七もまた、沈黙のまま進む。

この峠の先には、まだいくつもの難所がある。
人の情、鬼の囁き、闇にまぎれる怪異ども……

だが、このふたりにとって、
“進む”以外に選択肢はなかったのでございます。


◇◇◇◇◇


──ポロン。

「さあ、雷の山を越えたふたり。
この先に待つは、もっと冷たい風、もっと深い闇。
ですが……忠義とは、けして声高に叫ぶものではございません」

琵琶の胴をやさしく叩く。

「小さき祠の屋根の下、
ふたりの男は誓いを交わしたのです。言葉ではなく、歩みで──」

──ポロン。



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