岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する105 夏目漱石『こころ』をどう読むか482 こんなふうに人の意見をつまむのか
静
私の知る限り先生と奥さんとは、仲の好い夫婦の一対であった。家庭の一員として暮した事のない私のことだから、深い消息は無論解らなかったけれども、座敷で私と対坐している時、先生は何かのついでに、下女を呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は静といった)。先生は「おい静」といつでも襖の方を振り向いた。その呼びかたが私には優しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子も甚だ素直であった。ときたまご馳走になって、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の間に描き出されるようであった。
岩波はここに注を付け、
静 [新] 先生の奥さんは作中で名前が与えられている数少ない一人。注二九五15参照。
とする。他はお光と関で、「私」は「某」と酒を飲むというくらい限定されている。そして注二九五15には、
其妻を一所に連れて行く勇気は無論ない 前に「奥さんの名は静といつた」(二四頁)とあり、(乃木夫人の名も静子)、また後に、「私に乃木さんの死んだ理由がよく解らないやうに」(二九八頁)とある点からみて、このあたりに独自の乃木評が託されていることは十分に考えられる。
としている。
十分に考えていないじゃないか。
漱石は日記で乃木夫妻の死に関して二度言及している。そこで乃木大将の死とその妻の死を別々に捉え、神聖か罪悪かと自問している。
講演では乃木大将の殉死は立派だが模倣はいけないと述べている。
ここにある懐疑が「乃木評」などという枠組みに収まるわけもないことは明らかであろう。大袈裟に血を見せて死に、妻を生かす前提で遺書を書きながら、妻を死なせてしまった責任のすべてが乃木希典個人にあったとは考えづらい。注釈者は又「妻を生かす前提で遺書を書きながら」という最も重要なポイントを見逃してはいまいか?
ともかくも先生は血を見せず、妻を生かす前提で遺書を書き、妻を生かした。いまさら乃木夫妻殉死に異議を唱えても何がどうなるというものではない。しかしどうも森鴎外と夏目漱石は黙っていられなかったようだ。
異性と抱き合ふ順序として……
私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった。
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」
「恋に上る楷段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」
「私には二つのものが全く性質を異ことにしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし……」
ここに岩波は注を付けて、
異性と抱き合ふ順序として…… [新] こうした先生の発言などを通して、「私」と先生、先生とKとの関係を同性愛的なものとしてとらえ、その背景にある男同士の絆で結ばれた社会の枠組みを問い直そうとする試みが行われている。
とする。なんだか他人事だな。試みが行われているとはどういうことだろうか。まさか、
こんなことでもあるまい。
何度も書いたように、ここで先生の発言は「同性愛は異性愛の為の通過儀礼」という一つの偏見を述べているのに過ぎないのであって、先生が本質的な同性愛者ではないことを寧ろ明確に示しており、自分にはその気がない「ノンケ」であることも正確に伝えている。またこのことは先生の遺書の中でも、
始めてあなたに鎌倉で会った時も、あなたといっしょに郊外を散歩した時も、私の気分に大した変りはなかったのです。私の後ろにはいつでも黒い影が括ッ付いていました。
として念押しされている。「こうした先生の発言などを通して、「私」と先生、先生とKとの関係を同性愛的なものとしてとらえ」ている人がいたとしたらただの馬鹿である。
ここで「私」は先生に近づきたい理由を自覚していない。それは後に、
私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感が後になって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、馬鹿ばかげていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉うれしく思っている。人間を愛し得うる人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入いろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――これが先生であった。
このように「その私だけにはこの直感が後になって事実の上に証拠立てられた」のだからその理由は「私」だけに託された先生の遺書の中にあったと見るよりほかない。それを「私」の資質としての同性愛にしてしまえる人はただの馬鹿である。
※ちなみに「先生」をアセクショナルではないかと書いていた人もいたが、先生は「人間を愛し得うる人、愛せずにはいられない人」なのでそれも違う。
其頃流行り始めた所謂新しい言葉
私は奥さんの理解力に感心した。奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注意に一種の刺戟を与えた。それで奥さんはその頃流行り始めたいわゆる新しい言葉などはほとんど使わなかった。
岩波はここで四苦八苦する。「自覚」「覚醒」かもしれないとして、さらに「翻訳によって生じた概念語で一般に普及し始めたものを漠然と指しているとも考えられる」……さすがにこれには笑ってしまった。
流行語新語はいつの時代にもある。三国干渉以前には三国干渉という言葉はない。しかし「自覚」だの「覚醒」だのと限定することもあるまい。
[余談]
お金がなくて本が買えないのではなく、すべてのテキストデータが無料であるべき、すべてのコンテンツが無料であるべき、と考えている人が私をフォローしているのかな?
それならばせめて、優良記事として推薦してくれるとか、そういう形で応援してくれないものだろうか。
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