何故島田雅彦は文学界から追放されないのか?② 先生はゲイではない
突っ込みどころの一つ目は、なぜ自分とKの事情を明らかにした遺書を、最近知り合ったばかりの年下である<私>に遺したのかということです。
島田雅彦はここに「創造的誤読」として出鱈目な解釈を与える。「先生はゲイ」で<私>にも恋愛感情を抱いていたからだ、と。
はい。失格。
記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たのです。始めてあなたに鎌倉で会った時も、あなたといっしょに郊外を散歩した時も、私の気分に大した変りはなかったのです。
記憶してください。それだけです。なにも創造しなくていいです。それは汚染データです。
その一方で<私>は感覚ではなくロジックに至っている。
私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感が後になって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、馬鹿ばかげていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉うれしく思っている。
この「私だけ」の意味が分かっていない人は『こころ』について何か書く資格はない。
私は私の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己の過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。」
この「あなた限りに」だから「私だけ」という理窟になる。つまり「どうしても近づかなければいられない」という直感の根拠は先生の遺書の中にあったということになる。
一方、『彼岸過迄』は大学を卒業したものの働かずにフラフラしている男が、仕事を紹介してほしいと知り合いを訪ねるところから始まります。
はい。失格。
敬太郎はそれほど験の見えないこの間からの運動と奔走に少し厭気が注して来た。元々頑丈にできた身体から単に馳け歩くという労力だけなら大して苦にもなるまいとは自分でも承知しているが、思う事が引っ懸ったなり居据って動かなかったり、または引っ懸ろうとして手を出す途端にすぽりと外れたりする反間が度重なるに連れて、身体よりも頭の方がだんだん云う事を聞かなくなって来た。
少々抽象的に書かれているがここは「就職活動に奔走するもなかなか職が見つからないで疲れた」と読まなくてはならないだろう。
また当時の学士の就職問題、
「すべての方面に希望を有っています」
田口は笑い出した。そうして機嫌の好い顔つきをして、学士の数のこんなに殖ふえて来た今日、いくら世話をする人があろうとも、そう最初から好い地位が得られる訳のものでないという事情を懇ろに説いて聞かせた。
こうしたところを読み落としている。つまり高等遊民の二重の意味を理解していない。
この時点での敬太郎は、近代文学の語り手や主役にありがちな「特性のない男」、もしくは「フリーター」です。
はい。失格。思いこみで読んでいる。
その上敬太郎は遺伝的に平凡を忌む浪漫趣味の青年であった。
けれども彼の異常に対する嗜欲はなかなかこれくらいの事で冷却しそうには見えなかった。彼は都の真中にいて、遠くの人や国を想像の夢に上して楽しんでいるばかりでなく、毎日電車の中で乗り合せる普通の女だの、または散歩の道すがら行き逢う実際の男だのを見てさえ、ことごとく尋常以上に奇なあるものを、マントの裏かコートの袖に忍ばしていはしないだろうかと考える。そうしてどうかこのマントやコートを引ひっくり返してその奇なところをただ一目で好いからちらりと見た上、後は知らん顔をして済ましていたいような気になる。
この特性は、谷崎潤一郎の『秘密』の裏返しのような猟奇趣味である。
いつも見馴れて居る公園の夜の騒擾も、「秘密」を持って居る私の眼には、凡べてが新しかった。何処へ行っても、何を見ても、始めて接する物のように、珍しく奇妙であった。人間の瞳を欺き、電燈の光を欺いて、濃艶な脂粉とちりめんの衣装の下に自分を潜ませながら、「秘密」の帷を一枚隔てて眺める為めに、恐らく平凡な現実が、夢のような不思議な色彩を施されるのであろう。
ここまで理解してなお「それは特性と見做さない」と書いているのだとして、ここは見落としていよう。
敬太郎の頭にはその時から怪しい色をした雲が少し流れ込んだ。その雲が身体の具合や四辺あたりの事情で、濃くなったり薄くなったりする変化はあるが、成長した今日に至るまで、いまだに抜け切らずにいた事だけはたしかである。
田川敬太郎はかなり怪しい、特別な男なのだ。
何か一つ間違ったことを書いたから、永久追放されなくてはならないという決まりはない。しかしすごくシンプルな話、算数のできない算数の先生は駄目だろう。
その程度の意味で、読解力、記憶力のない誤読の名人は文学界には不要だろう。
夏目漱石に関して汚染データを流し続ける作家というものにも退場してもらいたい。
