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岩波書店・漱石全集注釈を校正する24 天保調の長州征伐は久音の不思議薫

天保調

 岩波書店『定本 漱石全集第一巻』注解に、

天保調 俳句界で、江戸末期、天保時代風のマンネリ化した作風をいう。ここでは古くさいという意味。

(『定本 漱石全集第一巻』岩波書店 2017年)

 ……とある。子規は「天保(てんぽう)以後の句は概ね卑俗陳腐にして見るに堪へず。称して月並調といふ」(『俳諧大要』)「天保頃になると、総タルミの天保調、いはゆる月並調となつてしまふた」(『病牀六尺』)としている。

天保調天保時代は俳諧の墮落時代と謂はれ、天保調といへば月並調の代用語のやうに思はれてゐる。

『連俳史』樋口功 著麻田文明堂 1928年

 確かに単に古くさいものを天保調ということもあったが、ここは作中繰り返された「月並み」の意味も込められていると見てよいだろう。それを迷亭が「そうさ、到底日露戦争時代のものではないな」と「古くさい」という方向にもっていったという連句的な流れがあったと考えるべきであろう。それを寒月が真面目に返すから面白い。つまり苦沙弥が単に「古くさい」という意味だけで天保調といい、迷亭が「古くさい」を繰り返しているとすれば、いわばつき過ぎていてつまらない。意味の変化をつかまなければ、ここはまさに天保調の読みになってしまう。

長州征伐

「実際これは爺が長州征伐の時に用いたのです」と寒月君は真面目である。「もういい加減に博物館へでも献納してはどうだ。首縊りの力学の演者、理学士水島寒月君ともあろうものが、売れ残りの旗本のような出で立ちをするのはちと体面に関する訳だから」

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり、江戸幕府が、京都で禁門の変を起こした長州藩の処分をするために長州藩領のある周防国、長門国(以下、防長二州と記す)へ向け征討の兵を出した事件を指す。長州征伐、長州出兵、幕長戦争、長州戦争などとも呼ばれる。
特に慶応元年(1865年)5月の将軍・徳川家茂の進発(出陣)に始まり、慶応3年(1867年)1月23日の解兵令に至る第二次長州征討は「長州再征」とも呼ばれ幕末政治史上の一大事件となったが、長州側の立場から当該事件を歴史的に捉えた場合は四境戦争と呼ぶ向きもある。

(ウイキペディア「長州征討」より)

 ここにも注はない。様々な呼び方がある中から選ばれた長州征伐の文字には、薩長連合による新政府に対する江戸っ子の抵抗意識のようなものが現れてはいないだろうか。
 征伐というからには長州は悪者である。

久音の女性

 ここにも注はない。さて、この言葉、意味が解る人がどのくらい存在するものだろうか?

「うむ」と主人は寝ながら茶を飲む。「鼻って誰の事です」「君の親愛なる久音の女性の御母堂様だ」「へえー」「金田の妻という女が君の事を聞きに来たよ」と主人が真面目に説明してやる。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 真面目に調べられた形跡もない。これは単に久しく合わないこと、すなわち「久遠」の当て字ではあろう。そのくらいは誰でも解るだろうと高をくくっているとたちまちドライブが始まってしまう。


不思議薫不思議臭の喩の如く

 ここにも注がない。これもシンプルに「不思議薫不思議習の喩の如く」のもじりであろう。

 ……といいながら、ここはさすがに説明が必要ではなかろうか。ところが「不思議薫不思議習」が説明しにくい。とにかく現識は不思議熏變を因とし、分別事識は境分別と無始の戲論習氣……


宗門無尽燈論

築山


近頃は勝手口の横を庭へ通り抜けて、築山の陰から向うを見渡して障子が立て切って物静かであるなと見極めがつくと、徐々そろそろ上り込む。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 庭園などで、山に見立てて石または土砂を盛りあげてきずいたもの。案外こんなことは解っていない人が多いのではなかろうか。あるいはそもそも見たことのない人が多いのではなかろうか。昔の家にも必ずあったものでもないし、文字でしか知らない人も多いだろう。
 そして間もなく雪隠にも注が必要な時代が来ることだろう。

解剖

 しかしその油断の出来ぬところが吾輩にはちょっと面白いので、吾輩がかくまでに金田家の門を出入するのも、ただこの危険が冒して見たいばかりかも知れぬ。それは追って篤と考えた上、猫の脳裏を残りなく解剖し得た時改めて御吹聴仕まつろう。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 これはそもそも註釈でもなんでもないが、巨人の大工が解剖される話を読んでいて、

 こんな話を読み返してみると、

 やはり夏目漱石はタイムトラベラーなんじゃないかと思えてくる。

 これは夏漱石作品をリアルタイムではなく、その死後、改めて読むという者だけに生じる不思議な感覚であり、作品そのものではなく、読み手の立ち位置の問題ではある。しかし「不思議薫不思議習の喩の如く」と真面目腐って書いていると、こういうところにも漱石作品を読む面白みがあるなとつくづく感じてしまう。


[余談]

 今回は会話の流れに関するやや尖った解釈を示した。いわゆる「つける」という遊びを知らない人には何を書いているのか意味が解らないかもしれない。しかし案外こういうことが夏目漱石作品の読みに於いて抜けてはいなかっただろうか。
 例えば『二百十日』では豆腐屋の意味の変化が面白い。意味の変化が見えないと意味が分からなくなる。意味は変化のうちにある。つまり現識は不思議熏變を因とし、分別事識は境分別と無始の戲論習氣……



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