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芥川龍之介の『河童』をどう読むか⑤ 今の小生に欲しきものは

 同性愛婚ぐらい認めたらどうだというのが現在の日本の空気らしい。G7の中で同性愛婚を認めていないのは日本だけだそうである。確認はしていないが、そもそもG7というくくりと同性愛婚という制度の間にどういう関係があるのだろうか。
 それはG7の中で日常的に河童巻きが食べられているのは日本だけだというような話ではなかろうか。

 最近アンケートなどでも性別の選択肢に「その他」が当たり前になってきた。今では性別はグラデーションであるというのが科学的な見解であるらしい。勿論制度は科学だけで決められるべきものでもないので、そのことと婚姻制度の問題もまた別だろう。
 又婚姻制度と「結婚」そのものも亦別物と考えるべきなのだろう。

 現にバッグの話によれば、ある若い道路工夫などはやはり偶然この国へ来た後、雌の河童を妻にめとり、死ぬまで住んでいたということです。もっともそのまた雌の河童はこの国第一の美人だった上、夫の道路工夫をごまかすのにも妙をきわめていたということです。

(芥川龍之介『河童』)

 河童の国では人間と河童の結婚さえ認められている。男と雌との結婚だ。これはたまたま河童の世界であるからあり得たことで、人間の世界ではどのG7の国もそうした婚姻は制度としては認めないだろう。

 ところでここで芥川が奇妙な皮肉を挟んでいることにお気づきだろうか?

 夫の道路工夫をごまかすのにも妙をきわめていたとはどういうことか。それはただ単に夫の機嫌を取るのが上手だなどという意味ではなかろう。それでは「ごまかす」ということにはならない。

ごまか・す [3] (動サ五[四])
(1)自分にとって不利益な実態が表れないようにとりつくろう。「年を―・す」「身分を―・す」
(2)人目を欺いて不正を行う。金品を盗み取る。「店の勘定を―・す」「釣り銭を―・す」
(3)相手の問いかけにまじめに応ぜず,自分の弱点が表れないようにする。「その問いには笑って―・した」「適当な返事をして―・しておく」 〔「誤魔化す」は当て字〕

大辞林

 この雌の河童は化粧で年を誤魔化すように、夫の道路工夫を巧みに包み込む手練手管の持ち主だったのではあるまいか。そうでなくては、そもそも人間と両生類が結婚することは困難であろう。この雌河童は娶られることの前提に性交の成立することを想定し、たとえ相手が河童でなかろうと十分に満足が与えられる自信があったのだ。

 それにしても何故「僕」は性別が23328種類にも分かれるスエヒロタケの国ではなく、雄と雌しかいない河童の国に現れ、雄の河童とだけ親しく話すのだろうか。

 このことは確かにわざとらしく『歯車』でなぞられている。「僕」は女たちに怪しい視線を振り向けながら、書かれている部分では家族と肉親以外の女とは言葉を交わさない。『河童』では、やはり「僕」は清潔でご立派な生活をしているようにさえ見える。「僕」は雌の河童に手を出さないし、雌の河童から追いかけられることもない。
 
 書かれている部分では。

 しかしよくよく考えてみればある若い道路工夫の話はなんだったのだろう。仮にすべてが第二十三号の妄想や幻覚や幻聴であったとして、つまりそもそも河童など現実には存在しないとして、第二十三号の妄想や幻覚や幻聴の世界では河童の世界に迷い込んだ若い男は、河童の国第一の美人で、夫の夫をごまかす妙をきわめた雌河童を娶ることも可能なのだ。
 夢が願望充足だというのなら、第二十三号の願望の中には美人の雌河童を娶ることも含まれていないとも限らない。

 いやむしろ、

「それは基督教、仏教、モハメット教、拝火教なども行なわれています。まず一番勢力のあるものはなんといっても近代教でしょう。生活教とも言いますがね。」(「生活教」という訳語は当たっていないかもしれません。この原語は Quemoocha です。cha は英吉利イギリス語の ism という意味に当たるでしょう。quemoo の原形 quemal の訳は単に「生きる」というよりも「飯を食ったり、酒を飲んだり、交合を行なったり」する意味です。) 

(芥川龍之介『河童』)

 こうした河童の国の生活教の教えは、つまり『食えよ、交合せよ、旺盛に生きよ』という祝福は、動物的エネルギイの枯渇に苦しんでいた芥川が心底求めていた理想ではなかったか。

唯今の小生に欲しきものは第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第三に動物的エネルギイのみ。(昭和二年三月二十八日、書簡)

 固形物をほとんど口にしない『歯車』の「僕」も本当は『食えよ、交合せよ、旺盛に生きよ』という祝福を求めていた筈である。

 では第二十三号はどうか。『河童』という作品の中ではいかにもありがたみのない人間的な、いや河童的な教えのように書かれてはいるものの、「唯今の小生に欲しきものは第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第三に動物的エネルギイのみ」と書かれてしまうと、くるりと一回りして、逆にキリスト教なんかよりも生活教の方が本当は大切なんじゃないかと全く考えていなかったとは決めつけられない。確かに茶化してはいる。茶化してはいるものの、そもそも皮肉とはその中に虚をつくロジックが必要なものだ。前提を替えたところに現れるもう一つの真実が皮肉なのだ。

 僕は河童の国から帰ってきた後、しばらくは我々人間の皮膚の匂いに閉口しました。我々人間に比べれば、河童は実に清潔なものです。のみならず我々人間の頭は河童ばかり見ていた僕にはいかにも気味の悪いものに見えました。これはあるいはあなたにはおわかりにならないかもしれません。しかし目や口はともかくも、この鼻というものは妙に恐ろしい気を起こさせるものです。 

(芥川龍之介『河童』)

 人間の皮膚の中で一番臭うのはどこだろう。人間の頭の中で如何にも気味悪い髪型は何だろう。

「帰りたい」と思い出したのです。河童の国は当時の僕には故郷のように感ぜられましたから。

(芥川龍之介『河童』)

 そう思うからには、第二十三号にはさぞかし河童の国の良い点が見えていたに違いない。『食えよ、交合せよ、旺盛に生きよ』という動物的エネルギイに充ち満ちた世界が河童の国ならば、第二十三号は雌河童に追いかけまわされ逃げ回るよりはむしろ、(仮にすべてが妄想や幻覚や幻聴であったとして、そしてそれは書かれていないことだとして、)生活教的な精神を謳歌していたと考えるべきではなかろうか。

 小学校の女生徒に一人前の女を感じる『歯車』の「僕」は賺しだとは思う。しかし雌の河童の体重が大きくても五十ポンドだとしたら、……第二十三号は人間の国でも小さな女の子が好きだったのだろうか。

 あるいは小さな女の子におどりかかりはしなかっただろうか。

 それなら隔離されても仕方あるまいが、ただ好きなだけなら放っておくべきだろう。



※(参 樋渡恒一『生の根源を探る ゾウリムシの世界』岩波新書 1986年)


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