岩波書店・漱石全集注釈を校正する36 大違いの勘五郎は荒肝を挫いて腑抜けの呆助だ
大違いの勘五郎ぞなもし
「好んで行くて、誰がぞなもし」
「誰がぞなもしって、当人がさ。古賀先生が物数奇に行くんじゃありませんか」
「そりゃあなた、大違いの勘五郎ぞなもし」
「勘五郎かね。だって今赤シャツがそう云いましたぜ。それが勘五郎なら赤シャツは嘘つきの法螺右衛門だ」
この「勘五郎」と「法螺右衛門」に関してはまだ定説が見られない。
これは江戸時代前期の歌舞伎唄方、杵屋勘五郎と玉水五郎右衛門(吾妻五郎右衛門,鈴虫五郎右衛門)のことではなかろうか、とまず疑ってみる。
あるいは「勘五郎」で有名なのは侠客の夕立勘五郎(伊賀屋勘五郎)であろうから、「法螺右衛門」は浪曲師・桃中軒雲右衛門と考えてみる。
いずれともいずれでないとも決めがたいところだが、そもそも萩野の婆さんの言った「勘五郎」と「おれ」が受け取った「勘五郎」が同一人物であるとは限らないので、私はこれら四人の任意の組み合わせが会話を成立させているのではないかと書き留めておく。後世の精査を待ちたい。
校長さんが、ようまあ考えてみとこうとお云いたげな
「あそこもお父さんがお亡くなりてから、あたし達が思うほど暮し向が豊かになうてお困りじゃけれ、お母さんが校長さんにお頼みて、もう四年も勤めているものじゃけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやしておくれんかてて、あなた」
「なるほど」
「校長さんが、ようまあ考えてみとこうとお云いたげな。それでお母さんも安心して、今に増給のご沙汰があろぞ、今月か来月かと首を長くして待っておいでたところへ、校長さんがちょっと来てくれと古賀さんにお云いるけれ、行ってみると、気の毒だが学校は金が足りんけれ、月給を上げる訳にゆかん。しかし延岡になら空いた口があって、そっちなら毎月五円余分にとれるから、お望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと云われたげな。――」
「じゃ相談じゃない、命令じゃありませんか」
「さよよ。古賀さんはよそへ行って月給が増すより、元のままでもええから、ここに居りたい。屋敷もあるし、母もあるからとお頼みたけれども、もうそう極めたあとで、古賀さんの代りは出来ているけれ仕方がないと校長がお云いたげな」
ここは語の注釈の必要がある箇所ではない。ただあまりにも読み間違えが多いので確認しておきたい。ここにあるように古賀さん、つまりうらなり君の左遷はお母さんが勝手に校長に直談判した結果であり、ここに赤シャツの関与はない。しかも月給十円の体育教師もいる中、五円の昇給はかなりの厚遇だ。

ところがこれを「おれ」が勝手に解釈してしまうから、多くの読者がつられてしまう。
「唐変木て、先生なんぞなもし」
「何でもいいでさあ、――全く赤シャツの作略だね。よくない仕打だ。まるで欺撃ですね。それでおれの月給を上げるなんて、不都合な事があるものか。上げてやるったって、誰が上がってやるものか」
この「おれ」の飛躍した勝手な解釈にひっぱられて、「うらなり君は赤シャツに左遷された」という間違った記憶が植え付けられることになる。
やがて坊っちゃんは、赤シャツがうらなりの婚約者であるマドンナへの横恋慕からうらなりを左遷したことを知り、義憤にかられる。
ウイキペディアにはこのように堂々と嘘が書かれている。それにしてもこのことは不思議ではなかろうか。
・読解力のない者が説明したがっている。
・読解力のない者が自分には読解力があると信じている。
・読解力がないのに私の本を読んで勉強しなおそうとしない。
・これを読んでいる人自身が、自分はそちら側ではないと無根拠に信じて居る。
・気が付いていなかったことを指摘されても驚かない。
つまり……ここは狸に化かされたと読まなくてはなるまい。
赤シャツの荒肝を挫いでやろう
おれはこの間から、うらなり君の顔を見る度に気の毒でたまらなかったが、いよいよ送別の今日となったら、何だか憐れっぽくって、出来る事なら、おれが代りに行ってやりたい様な気がしだした。それで送別会の席上で、大いに演説でもしてその行を盛んにしてやりたいと思うのだが、おれのべらんめえ調子じゃ、到底物にならないから、大きな声を出す山嵐を雇て、一番赤シャツの荒肝を挫いでやろうと考え付いたから、わざわざ山嵐を呼んだのである。
荒肝を挫いでやろう、はビックリさせてやろう、驚かしてやろうという意味で荒肝を抜いてやろうというのと同じ意味だ。
旋風のように身を回して去るのを見れば、例の凄味の女である。番地の附いている名刺に「十一時三十分」という鉛筆書きがある。金井君は自分の下等な物に関係しないのを臆病のように云う同国人に、面当をしようという気になる。そこで冒険にもこの Rendez-Vous に行く。腹の皮に妊娠した時の痕のある女であった。この女は舞踏に着て行く衣裳の質に入れてあるのを受ける為めに、こんな事をしたということが、跡から知れた。同国人は荒肝を抜かれた。金井君も随分悪い事の限をしたのである。しかし金井君は一度も自分から攻勢を取らねばならない程強く性欲に動かされたことはない。いつも陣地を守ってだけはいて、穉い Neugierde と余計な負けじ魂との為めに、おりおり不必要な衝突をしたに過ぎない。
青空文庫でも他には国木田独歩と小山清(太宰治の門人)くらいしか使用例がなく、吉川英治も「ど肝を抜かれて」という現代的表現に切り替えている。つまり「荒肝を挫いでやろう」はおそらく今の若い人にも年寄りにも通じまい。荒肝がそもそも胆力があるという意味で、(吉川英治は「荒胆」と書く。)と云っても胆力が通じないかもしれない。肝っ玉の据わった、でなんとなく理解される程度か。
時代性にかんがみ、こうした使用例の少ない言い回し、現代では別の表現に置き換わっている言葉には注解が必要であろう。
赤シャツは腑抜けの呆助だ
おれはまず冒頭としてマドンナ事件から説き出したが、山嵐は無論マドンナ事件はおれより詳しく知っている。おれが野芹川の土手の話をして、あれは馬鹿野郎だと云ったら、山嵐は君はだれを捕まえても馬鹿呼ばわりをする。今日学校で自分の事を馬鹿と云ったじゃないか。自分が馬鹿なら、赤シャツは馬鹿じゃない。自分は赤シャツの同類じゃないと主張した。それじゃ赤シャツは腑抜けの呆助だと云ったら、そうかもしれないと山嵐は大いに賛成した。山嵐は強い事は強いが、こんな言葉になると、おれより遥かに字を知っていない。会津っぽなんてものはみんな、こんな、ものなんだろう。
この「呆助」の意味の説明にそもそも『坊っちゃん』が持ち出されることが多く、全く要領を得ない。
ほう助 愚人をいふ。語源を知らず。一說に呆助なるべしといへど、呆は嵌
と同じく、ほうの音なし。葢しあほうの上略に助を付けたるなるべし。東京語。

さすがは幸田露伴。鋭い。ここで山嵐が「ほう助とはどんな字だ?」「呆助たああほうの呆に助平の助よ」「いや、呆の字の音にほうはない」と返せば「おれより遥かに字を知っている」となるほけだ。漱石がそこまで考えて書いていたのかどうかは不明ながら、ここは「東京語」であり、語源も不確かで「呆助」は当て字であるという説明があってしかるべきであろう。

花晨亭
そうこうするうち時間が来たから、山嵐と一所に会場へ行く。会場は花晨亭といって、当地で第一等の料理屋だそうだが、おれは一度も足を入れた事がない。もとの家老とかの屋敷を買い入れて、そのまま開業したという話だが、なるほど見懸からして厳しい構えだ。家老の屋敷が料理屋になるのは、陣羽織を縫い直して、胴着にする様なものだ。
陣羽織を縫い直して、胴着にするとは如何にも瓦解を感じさせる文句だ。漱石作品はこうして明治大正という時代を作品に編み込んでいく。
うらなり君の送別会の行われた「花晨亭」のモデルは「梅廻家」とされるが詳細は解らない。梅廻家では図画教員石川恒年の送別会が催され、中村色男が「紀伊の國」、左氏珠山翁が義太夫、梅木忠升助が「日清談判破裂して」とやったらしい。
延岡は僻遠の地で
昨日「日向の延岡」について書いた。
赤シャツが座に復するのを待ちかねて、山嵐がぬっと立ち上がったから、おれは嬉しかったので、思わず手をぱちぱちと拍った。すると狸を始め一同がことごとくおれの方を見たには少々困った。山嵐は何を云うかと思うとただ今校長始めことに教頭は古賀君の転任を非常に残念がられたが、私は少々反対で古賀君が一日も早く当地を去られるのを希望しております。延岡は僻遠の地で、当地に比べたら物質上の不便はあるだろう。が、聞くところによれば風俗のすこぶる淳朴な所で、職員生徒ことごとく上代樸直の気風を帯びているそうである。心にもないお世辞を振り蒔いたり、美しい顔をして君子を陥れたりするハイカラ野郎は一人もないと信ずるからして、君のごとき温良篤厚の士は必ずその地方一般の歓迎を受けられるに相違そういない。吾輩は大いに古賀君のためにこの転任を祝するのである。終りに臨んで君が延岡に赴任されたら、その地の淑女にして、君子の好逑となるべき資格あるものを択んで一日も早く円満なる家庭をかたち作って、かの不貞無節なるお転婆を事実の上において慚死せしめん事を希望します。えへんえへんと二つばかり大きな咳払をして席に着いた。
さてこれは難解なところである。いくら山嵐も渡り者なのだとして、二年もいれば延岡が大分よりは遠いものの、そう遠くはない場所であることが知れた筈である。しかし山嵐は堂々と「延岡は僻遠の地で、当地に比べたら物質上の不便はあるだろう」と言ってしまい、誰もそわそわしない。誰も地理を知らない筈もないのに赤シャツと山嵐の主張を通してしまう。これではまるで、嘘つき村のおとぎ話ではないか。
あるいはまさに「不浄の地」だ。少なくともここで山嵐が「延岡は僻遠の地」と言ってしまっているところには何か注釈が必要だろう。
はっきり言えることは山嵐の意図は明確ではないにせよ、漱石がここで明確に疑わしさを嵌め込んできたことだ。
実は赤シャツと山嵐はグルだったなれば、皆人間不信に陥るだろうか。
いや、そもそも「おれ」は強烈な人間不信の中にいた。
憐れな奴等だ。小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねっこびた、植木鉢の楓みたような小人が出来るんだ。無邪気ならいっしょに笑ってもいいが、こりゃなんだ。小供の癖に乙に毒気を持ってる。
この『坊っちゃん』を英語版で読んだ人たちの感想の中に、ジェローム・デイヴツド・サリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』の主人公ホールデン・コールフィールドに似ているというものがあった。なんのことはない翻訳者の注釈の受け売りである。社会との折り合いが付けられない若者という捉え方である。しかも「おれ」はホールデン・コールフィールドに比べて遥かに苛立っている。この時点で「おれ」はすっかり山嵐を信頼し、読者もそれに釣られているところで、漱石は明らかに疑惑を仕掛けている。単純な正義や悪などなく、物事には必ず裏面があるものだとしつこく念押ししているかのようである。『坊っちゃん』は「おれ」が悪者赤シャツを退治する話ではない。ここはそう読まなくてはならないところだろう。

またここでマドンナに対して「不貞無節なるお転婆を事実の上において慚死せしめん事を希望します」と攻撃して、松山市の観光協会の皆さんに喧嘩を売っているにもかかわらず、誰もその喧嘩を買わないことに注目したい。慚死とは恥じて死ぬこと。 また、死ぬほど深く恥じることである。夏目漱石に関して何か知った風なことを書いていて、間違っていたと気がついても慚死しない鈍感力……などというものは何の価値もない。
恥じる力、反省し、学び直す力がなければ夏目漱石など読む必要はない。時間の無駄だ。その程度のものは柄谷行人でも読んでいればいいのだ。
[付記]
合理的な説明で追いきれない要素として、マドンナが母であることは既に指摘した。そしてその不合理はマドンナに大塚楠緒子を代入することで、うらなり君への「おれ」の猛烈な肩入れと、「野だ」に対する猛烈な嫌悪と共にするりと解決する。
そうは云ってもこの「延岡問題」は日向神話の説明如きでは解決しない事柄がまだいくつもある。本当に生きているうちに間に合うだろうか?
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— bioshok(INFJ) (@bioshok3) December 14, 2022
や、ヤベェ
日本語で適当に喋らせたい言葉を入れたらアバターが喋ってくれる映像が生成されるサービス!(100カ国語くらいに対応しているらしい)
親父の留守中にビールが届いたんですけど、守ってる感が強めなるるが可愛い pic.twitter.com/cBUQtZbGZK
— 𓆛𓆜𓆝𓆞𓆟 (@turi2018) December 14, 2022
— 会話 (@bad_texter) December 14, 2022
⚠️注意⚠️ pic.twitter.com/vQv9rWXhtf
— あきほ@秋田犬会館 (@akitainuho) December 13, 2022
昭和3年刊の『變態蒐癖志』にラブレターの蒐集家が紹介されており、蒐集物の中から若い女性の筆になる恋文が掲載されている。見てみると、「可」「免」「須」「乃」「者」等の変態仮名がまだ使われていて、言文一致体なのに「被下つた」には候文の名残がある。 pic.twitter.com/LReNkQ5VQy
— 贅壻 (@herrlich123) December 14, 2022
