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宝来山古墳は垂仁天皇陵か、行燈山古墳は誰の古墳か

箸墓に続く西殿塚古墳の被葬者を古事記の記述の通り、崇神天皇に比定すると(古事記における崇神天皇陵=山辺道勾岡上陵は西殿塚古墳|古墳時代史解題)、それでは行燈山古墳は誰の古墳かということになってきます。普通に考えれば、行燈山古墳は西殿塚古墳に続く次代の王ですから、垂仁天皇陵と考えるのが自然で、続く渋谷向山古墳が景行天皇陵で、纏向の大王陵は終わりと考えるのが、一番記紀と延喜式の歴代王に矛盾の無い解釈になってきます。しかし問題は垂仁天皇陵(菅原伏見(東)陵)は宝来山古墳に比定するしかないということです。これをどう考えたら良いのでしょうか?

その答えですが、垂仁天皇の名前=イクメイリヒコにあると思います(日向国宮崎郡の(九州最大の前期の古墳群の)生目古墳群に関しては後日記事にします)。それを考える前提として、崇神天皇はミマキイリヒコですが、皇后がミマキ姫で、魏志倭人伝に彌馬升は卑弥呼の邪馬台国のNo.2の役職です。つまり卑弥呼に対する彌馬升は大彦命(ミマキ姫の父)ではないか?こう考えると、魏志倭人伝の卑弥呼の邪馬台国のNo.1の官の伊支馬は垂仁天皇皇后(日葉酢媛命)の父の丹波道主命に引き継がれていて、丹波道主命がイクメで、丹波道主命の墓を垂仁天皇陵と取り違えたのではないかとなってきます(邪馬台国の官の解析と狗奴国王との争い|古墳時代史解題)。これは垂仁天皇陵築造当時、文字記録はなかったことを示唆します。

そもそも宝来山古墳とは垂仁朝の田道間守伝承に由来しますが、田道間守の但馬は丹波に含まれている訳です。当時は。また、佐紀古墳群に神功皇后が眠りますが、神功皇后には丹波の血が流れています。娘の日葉酢媛命も佐紀古墳群に眠ります。佐紀古墳群の一帯を領していたと思われる狭穂彦王を倒したのが上毛野君の日向八綱田ですが(登美首の祖の日向の剣(富雄丸山古墳)|古墳時代史解題)、狭穂姫命の次の皇后が日葉酢媛命とされます(日向の西都原古墳群の男狭穂塚・女狭穂塚については後日検証します)。丹波道主命の墓に相応しい古墳は特には丹波にありませんから(また、後日取り上げます)、田道間守を派遣したイクメとは丹波道主命であって不思議は無いと思います。丹波道主命は世代的に垂仁天皇と同世代です。

そもそも垂仁天皇と佐紀(菅原)の地を結びつけるのには無理がある訳です。元々皇后の兄(狭穂彦王)の土地だったと思われますが、文献上は狭木之寺間陵の日葉酢媛命が継承したように思われ、日葉酢媛命から景行天皇に継承されたように思いますが、日葉酢媛命の父が一帯に葬られて不思議はありません。菅原は野見宿禰の関与を想起しますが、野見宿禰は因幡だと思われ(後日検証します)、(但馬を含む)丹波とは隣りあっています。垂仁天皇の母は大彦命の娘ですが、大彦命の後継者(武渟川別)は垂仁朝も健在で、メスリ山古墳の主だと思われます(武渟川別が出雲を支配し、吉備氏(モモソ姫一族)と関係の深い三輪氏が大国主神後裔となったことを示すメスリ山古墳|古墳時代史解題)。つまり、渋谷向山古墳(墳丘長300m)の被葬者と見られる景行天皇と違って、垂仁天皇は武渟川別や丹波道主命といった有力な王と併存していたと思われますが、それでも歴代に数えられるのは、纏向の王だからなのであって、つまり圧倒的に行燈山古墳の被葬者であった方が自然である訳です。宝来山古墳を記紀・延喜式を鵜呑みにして、垂仁天皇陵とした場合、行燈山古墳(ないし西殿塚古墳)の被葬者が訳分からんことになります。勿論こうした見方は台与(豊鍬入姫命)を日本の史料から王ではないと断定することが前提になりますが(モモソ姫(卑弥呼)は何故死んだのか?|古墳時代史解題(有料記事))。

こうした見方はイクメを伊支馬という官職と見る見方前提で、魏志倭人伝の記述をイクメを垂仁天皇個人名のように書く記紀に優先させています。勿論外国史料より日本の史料の方が日本史ですから重要ですが、矛盾するように見える場合、日本の史料の解釈が許せば、同時代の報告に近い魏志倭人伝の方が事実に近いのではないかと思われます。これはモモソ姫が巫女か王か問題でも同様です。

なお、宝来山古墳(奈良県奈良市尼ヶ辻町字西池)は古墳時代前期の築造とされ、形象埴輪を有します(形象埴輪については後日考察します)。墳丘長は227m。周濠の南東部は後世に拡張。これに対して行燈山古墳(奈良県天理市柳本町字行燈)も古墳時代前期の築造で、形象埴輪を有し、墳丘長242mです。周濠の一部は後世の改変。

2026年2月19日)垂仁天皇の事績としては、①丹波攻略に関わったこと。その根拠として、崇神天皇紀の丹波氷上人名氷香戸邊の皇太子活目尊(丹波道主命の間違いの可能性もありますが)に対するアドバイス、丹波道主命が垂仁天皇と同世代であることが挙げられ、②丹波道主命の娘の日葉酢媛命を娶って、その娘の倭姫命を斎宮として伊勢神宮を創始していることも重要な事績であり、③狭穂彦王の乱を(登美首の祖の)日向八綱田に鎮圧させたこと(登美首の祖の日向の剣(富雄丸山古墳)|古墳時代史解題)(大彦命の娘の母からの継承で、トビ(や磐余)が地盤だったのではないか?)も挙げられ、④同じ理由(大彦命の娘の母からの継承)で、父(崇神天皇)の為に西殿塚古墳を築き(恐らく母の為に東殿塚古墳を築き)、特殊器台の祭祀を行った(磐余(十市郡南東部及び磯城郡南西部)に吉備の地名あり)。

見出し画像はウィキペディア「宝来山古墳」全景(Saigen Jiro)。

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