古事記における崇神天皇陵=山辺道勾岡上陵は西殿塚古墳
古事記に崇神天皇陵は御陵在山辺道勾之岡上也とあり、延喜式諸陵式に手白香皇女の衾田墓が守戸は無く山辺道勾岡上陵の陵戸が兼守です。衾田墓は考古学的に西山塚古墳が継体天皇皇后手白香皇女の母(衾田墓)として確実視されていて、山辺道勾岡上陵(古事記の崇神天皇陵)は始祖王に位置づけられていると考えられる西殿塚古墳とするのが自然です。これは箸墓が後裔のいない女王の墓であるという日本の史料の記述に符合します。西殿塚古墳が第2代の女王の墓であるならば、西山塚古墳が築造された意味が不明です。つまり崇神天皇陵に関して、古事記の記載が正しく、日本書紀と日本書紀を踏まえた延喜式諸陵式の本文は治定を変えて間違っています(それこそ魏志倭人伝を見て、台与の墓が西殿塚古墳と勘違いしたのかもしれません。卑弥呼=神功皇后説には矛盾しますが)。天孫降臨でニニギ(男性)を包んだのが衾ですから、衾田墓(手白香皇女墓)の名称は欽明朝において、西殿塚古墳は崇神天皇陵と理解されていて、推古朝(古事記)にもそれは継承されていたと考えるべきでしょう。

「箸墓が卑弥呼なら、西殿塚古墳が台与なら時代が符合する」との見解ですが、台与は13歳で後を継いだとするので、台与が早世しなければ、符合しません(そんなに若くして実権があったはずがなく、日本書紀は父の崇神天皇が即位したと書いています)。寧ろ日本の史料は豊鍬入姫命の墓を伝えておらず(口伝はありますが)、箸墓に接続する西殿塚古墳の年代は日本の史料の記述に符合し(垂仁天皇紀一云には崇神天皇は寿命が短かったとあります)、豊鍬入姫命は垂仁朝まで存命で、初代王とされる崇神天皇がモモソ姫の孫世代で(まさに天孫降臨)、箸墓の主と伝わる倭迹々日百襲姫命は豊鍬入姫命の曾祖母世代です。日本の史料の記述を無視しないと台与=西殿塚古墳説は成り立ちません。
追記)西殿塚古墳。吉備系の特殊器台を出土し、(多くの古墳からなる)大和古墳群の盟主墳と言われ、(女王であるがゆえに始祖王に位置づけられなかったモモソ姫の)箸墓に次ぐ倭国の王陵(2代目)と目されている巨大前方後円墳(墳丘長230m)です。考古学的には大和古墳群の西山塚古墳が手白香皇女墓(衾田墓)と目され、衾は天孫降臨を意識していますから、古事記及び延喜式の手白香皇女墓記事に見える山辺道勾岡上陵(西殿塚古墳)が本来の(モモソ姫=天照大神から誓約で素戔嗚尊(孝元天皇)の系統に移って孫世代のニニギにあたる)崇神天皇陵(ハツクニシラスの陵)で、日本書紀と延喜式の崇神天皇陵(山邊道上陵=行燈山古墳)が「3代目の」別の大王陵(恐らく垂仁天皇陵)だと考えるのが自然でしょう。勿論宮内庁が衾田墓に比定したのは誤りですし、崇神天皇陵は山辺道勾岡上陵(記)であって、山邊道上陵(紀)ではありません(通説も誤りです)。
崇神天皇はミマキイリヒコという諱を持ちますが、魏志倭人伝の卑弥呼の時代の邪馬台国のNo.2の官の彌馬升(ミマキ)は大彦命が順当ですから、イリヒコは入り婿程度の意味で、崇神天皇の皇后(垂仁天皇の母)のミマキ姫に対する従ではなく、(延喜式には墓が見えない)大彦命の権勢が外戚としてそれだけ強大であり、大彦命の助力を得て、崇神天皇は即位できたと考えるべきです(大彦命の墓は桜井茶臼山古墳と考えられます)。
なお、崇神天皇紀に御間城天皇(崇神天皇)に因んで、彌摩那国と名付けられたとされます。本来は奴国担当だった(筑紫国造を後裔に持つ)大彦命の官職にも因んで名付けられた可能性も高いと思いますが、その国司(クニノミコトモチ)は(モモソ姫の一族の)吉備氏だったと思われます(雄略天皇紀)。狗邪韓国(鉄を産する金官国)に卑弥呼が利権を持っていたからでしょう。やはりモモソ姫=天照大神利権を歴史上から消そうとして、消しきれなかった(痕跡が残っている)のだと思います。
吉備系の特殊器台は崇神天皇がモモソ姫の正統な後継者であることを示します。娘の豊鍬入姫命(台与)に祭祀を引き継がせて、実権は持っていたからでしょう。豊鍬入姫命が王ではないことは、記紀の記述からは自明です。また魏志倭人伝の記載からも13歳の少女に実権があったはずがありません。外国の王の部下に国内統治の必要上、倭国王は頭を下げられなかったとも考えられます。
西殿塚古墳の東の東殿塚古墳(墳丘長139m)ですが、ミマキ姫の墓と考えるのが順当だと思います。垂仁天皇皇后の日葉酢媛命陵から、天皇陵級の大陵を皇太后(母)の為に築く習慣があったことが示唆されるからです。東殿塚古墳は大きさこそ天皇陵級ではありませんが、崇神天皇陵の隣に築かれた特別な古墳だと理解できます。その意味では豊鍬入姫命の墓の候補でもありますが、後継者レースからは外れているので、兄の豊城入彦命と同じく大和古墳群に眠っている可能性の方を考えています(豊鍬入姫命の古墳としてはホケノ山古墳が伝承地ですが、周辺に古墳群が築かれることから、三輪氏の始祖王=大田田根子の墓と考えるべきだろうと思います。
なお、東殿塚古墳の被葬者は近江と密接な関係を持つとも言われており、山陰系・東海系の土器も出土するようですから、いずれも大彦命との深い関りを考えていいと思います。私は大彦命の父の孝元天皇の母が近江ではないかと考えています。2026年2月19日注)大彦命の根拠地の磐余/十市県と近江の深い関係を想定していています。孝元天皇/素戔嗚尊の母(イザナミ?)は近江出身だった?(息長氏の謎解き)|古墳時代史解題(有料記事)。
また、東殿塚古墳と西山古墳は相似形とも言われます。西山古墳は手白香皇女ですから、白髪部とミマキ姫(の父の大彦命)の関係を考えることになりますが、近江に白髪部は確認され、その本拠は白鬚神社(滋賀郡→(大彦命後裔は筑紫国造で奴国と関係が深く志賀島に由来するか)が怪しいです。白鬚神社のすぐお隣が鉄と関係の深い高島郡ですが、(母の父が大彦命である)垂仁朝の創建と伝わり、近江の厳島とされますが、大彦命系氏族と関りが深い宗像三女神との関りが考えられ、祭神とされるのは猿田彦ですが、これは道案内で道主貴からの連想の可能性も考えられ、白髪天皇(清寧天皇)の宮は大彦命系氏族の本拠の磐余です。
白髪が白髭に代わった理由ですが、古来弓の弦等に活用されてきた鯨の髭に由来すると考えています。葛城の地名にも(奈良県御所市)櫛羅(クジラ)があって、櫛羅には鴨山口神社があって、大山祇神(三嶋神)であり(高島郡には磐余宮の継体天皇の父の別業があって)、古事記に神武天皇(磐余彦)がクジラを食べたという記述があって、寧ろ白髭が本来で白髪が派生の可能性も考えられなくもありません。
近江の古式の前方後方墳と言えば、神郷亀塚古墳ですが、乎加神社と密接な関係があり、草壁皇子が岡宮天皇と追尊されており、(本来日下部を統括したと見られる)日下連が大彦命系氏族です。
2025年11月3日追記)崇神天皇は開化天皇の子で、外交や祭祀に通じていたのではないかと思います。だから大彦命が自分で即位せず、娘婿にトップの地位を譲ったのでは?開化天皇の若倭部がいた河内国大県郡には公孫氏もいたことが分かっています。
出雲在来勢力を倒したモモソ姫の大和朝廷の将軍とは|古墳時代史解題
2025年11月8日)豊鍬入姫命(台与13歳)は崇神天皇の娘だって記紀に書いてあるでしょうが。西殿塚古墳が台与の古墳って主張している奴(寧ろ通説)は記紀を読んだことがあるのか?ってなレベルです。豊鍬入姫命は少なくとも垂仁朝までは生きていて、垂仁天皇皇女の倭姫命にバトンタッチしている(その後は分からない)。だから墓の順番は崇神天皇→豊鍬入姫命(台与13歳)。豊鍬入姫命の墓は延喜式に記載も無いことに注意。
2025年11月9日)記紀と魏志倭人伝のどちらを信用するかという問題じゃないんですよ。そもそも国内の文献と外国の文献では性質が違う訳です。国内では巫女に過ぎない豊鍬入姫命を魏には王だと主張して、外国文献にはそう載ったと想定してもおかしくありません。使者ごときに王が檄告喻される屈辱を回避したいからです。
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