ぼっちを希望に変える「庭木思考」
大病を患い、認知症を抱える父の介護をしていると、どうしても家の中に引きこもるような生活になってしまいます。四日に一度、車で買い物に出かけるわずかな時間だけが、外の空気を吸える貴重な機会です。
今は、一年で最も景色が美しくなる季節。澄み渡る青空は、どんよりと曇った私の心まで晴らしてくれます。新緑の山々も、まるで新品の薄緑色の絨毯を敷き詰めたような色合いで、生命力に満ちています。道路沿いには、ピンクや白のハナミズキ、ライラック、アイリス、八重桜、そしてツツジ。色とりどりの花々が、今を盛りと咲き乱れています。
しかし、買い物を終えて自宅の庭に目を向けた途端、明るい気分はため息へと変わります。伸び放題になった庭木の枝は、もはや手の付けられない状態です。古い家であるわが家は、父が長年かけて多くの木を植えてきたため、南側の庭はゴッホの絵のうねるような木々で埋め尽くされた景観になってしまいました。
剪定をしたくても、介護や家事、そして執筆活動に追われ、とにかく時間がありません。草むしりや、生垣から落ちる葉を片付けるのが精一杯です。
プロに任せるべき段階なのは重々承知していますが、昨今の物価高に加え、今度の入院で父の医療費や介護費の負担も増えてしまいました。もはや生活に余裕はありません。手の届く範囲で少しずつ、コツコツと手を入れていくしかないのが現状です。
「お金があれば、いっそすべての木を切ってしまいたい」
家族との思い出がつまった庭ですが、むさくるしく荒れた様子を見ていると、そんな極端な思いさえ頭をよぎります。
庭が寂しくなったとしても、時間に追われる今の私にとっては、管理の手間がなくなるメリットのほうが上回るのです。
昨年母を亡くし、独身で兄弟もいない私は、すべてを一人で背負わねばなりません。いわば「ワンオペ」の状態では、庭の管理まで手が回らないのです。
それゆえ、多くの手がある大家族の暮らしが、どうしても羨ましく感じてしまいます。
また、父と二人きりのわびしい生活を送る身にとって、大家族の「にぎやかさ」も羨望の対象です。
今年四月に大病を診断された九十歳の父と過ごせる時間は、あとどれくらい残されているのか。いつか一人きりになってしまうことを想像すると、例えようのない孤独がこみ上げます。夜中にふと目が覚め、父の安らかな寝顔を見つめていると、彼を失うことへの恐怖が余計に募ってしまうのです。
先日、父の様子を見に来てくれた叔母に、この切ない胸の内を打ち明けました。
すると叔母は、「家族が多いと、その分悩みも多くなるものよ」と、憂いに満ちた表情で答えました。
叔母の長男は離婚して戻っており、今は母子で、頑固な夫の世話に手を焼いているといいます。
近所に住む次男の娘たちも、一人はうつ気味になって大学を中退し、もう一人は不登校で心配が尽きないそうです。八十代半ばの叔母は、共働きの次男夫婦に代わって孫娘の世話や学校への送迎までこなしており、その苦労を重苦しいため息とともにこぼしていました。
その話を聞いた時、大家族とは、わが家の庭木のようなものかもしれないと感じました。木が多ければ多いほど、手間もお金もかかります。花が美しく咲く時期はほんの一瞬で、残りの時間は手入れという名の苦労が大半を占めるのです。
家族が多くても少なくても、それぞれに長所と短所があるのでしょう。
「隣の芝生」は青く見えるものですが、いざその家庭に入ってみれば、絶え間ない騒がしさや、個々人が抱えるトラブルに翻弄され、「一人になりたい」と強く願うこともあるのかもしれません。
そう考えると、家族がいない独り身という状況にも、一つの「身軽さ」というメリットが見えてきます。
誰にも縛られずに何かに没頭できますし、好きな時に好きな場所へ行き、自分のペースで帰ってくることもできます。寂しくなれば、自ら地域のコミュニティに足を運ぶ道もあります。人との出会いの場は、その気になればいくらでも新しくつくっていけるのです。
その長所を最大限に生かせるライフスタイルを思い描けば、未来もまた違った色に見えてくるはずです。孤独感に押しつぶされないよう、そんな「自由な空想」をする時間を、今は大切にしようと思っています。
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