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本を「深く」見せる「浅さ」批判(3.1万文字)

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本を「深く」見せる「浅さ」批判

v3.8

【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。また、本稿では、朝井リョウ『正欲』『イン・ザ・メガチャーチ』、田村泰次郎『肉体の門』、遠藤周作『沈黙』、沼正三原作・石ノ森章太郎作画『家畜人ヤプー』、是枝裕和監督『海よりもまだ深く』『万引き家族』『怪物』、是枝裕和監督・向田邦子原作『阿修羅のごとく』、橋田壽賀子『となりの芝生』、山田太一『岸辺のアルバム』について、その核心的な内容に深く触れています。もし作品を未体験の方で、先入観なく享受されたい場合は、必ず先に作品そのものに触れてから、本稿をお読みください。

1. 正欲

朝井リョウの小説『正欲』は、一般的な恋愛や性愛の枠組みに収まりにくい欲望を持つ人々と、彼らを理解できない社会との衝突を描いた作品である。2021年に刊行され、第34回柴田錬三郎賞を受賞した。2023年には岸善幸監督によって映画化され、稲垣吾郎、新垣結衣、磯村勇斗、佐藤寛太、東野絢香らが出演した。

映画版を観た筆者の率直な感想は二点あった。第一に、この映画は、現代の社会問題を切り取り、深刻なテイストで極端に戯画化したホームドラマ(Domestic Drama)に見えた。橋田壽賀子『となりの芝生』、向田邦子『阿修羅のごとく』、山田太一『岸辺のアルバム』といった昭和のテレビドラマが持っていた、家庭内の愛憎、秘密、誤解、偏見、破綻を濃縮し、視聴者が安全な場所から眺める作劇に近い。第二に、題材とされるマイノリティや社会問題の被害者たちが、問題を解決できず、生きる活気を失い、明日も同じ苦痛の中へ置かれる人物として描かれている点である。その人物像は、日本のマイノリティが歴史的に示してきたしぶとさ、猥雑さ、商売人根性、雑草のような生命力を過小評価し、悲観的な人間像へ固定しているように見えた。

この二つの感想は、同じ作劇原理の中でつながっている。人物の感情を激しく燃焼させるホームドラマでは、社会環境も人間関係も悲劇が最大化される方向へ整理される。その結果、マイノリティの苦痛や孤立は強く描かれる一方、現実に存在する回復、共同体、商売、笑い、文化的生命力は背景へ退きやすい。この二つの感想が、本稿全体の構成原理である。

前半では、『正欲』と是枝裕和作品をホームドラマ(Domestic Drama)として読み直し、人物や社会制度がどのように極端化されているかを考える。続いて、日本の周縁文化が、苦痛や差別とともに、笑い、商売、芸術、共同体、生命力を育ててきた歴史をたどる。その後、『イン・ザ・メガチャーチ』にも同じホームドラマの作劇が当てはまることを確認し、現代の中産階級(中流家庭)の不安、共感の販売、出版文化、回復共同体、福音、書籍の未来へ論を進める。

ここでいう中産階級(中流家庭)とは、所得や職業による厳密な階級区分より、昭和後期からバブル期にかけて「一億総中流」と呼ばれた時代背景のもと、経済成長、安定雇用、年功的な賃金上昇、賞与、貯蓄、円高による購買力を背景に、住宅、教育、家族形成、海外旅行、高級商材の購入などを現実的な生活選択として持ち、自分たちの暮らしが将来も大きく崩れないという期待を共有していた、当時の分厚い生活者層を指している。『阿修羅のごとく』に登場する人々のように、一定の職業、住居、教養、貯蓄、消費能力を持ち、生活基盤そのものより、家族内部の不倫、嫉妬、孤独、体面、秘密を深刻な問題として抱えられた家庭が、その典型的なイメージである。

この意味での中産階級は、現在の尺度から見た富裕層と同義ではない。当時の日本では、自分の生活程度を「中」と認識する人々が圧倒的な厚みを持ち、海外旅行や高級ブランド品の購入も、一部の大資産家だけに許された行為より、安定した給与、賞与、貯蓄、円高の恩恵を受けた中流家庭へ開かれた消費行動として広がっていた。本稿が扱うのは、その生活基盤と自己認識を持った昭和の中産階級と、その後継に位置しながら、同じ安定、貯蓄、消費能力、将来期待を維持しにくくなった令和の生活者層との落差である。

ホームドラマ(Domestic Drama)は、家庭や親密な人間関係の内部にある愛情、嫉妬、支配、依存、秘密、裏切りを濃縮して見せる劇である。日本語の「ホームドラマ」には温かな家族物語という印象もあるが、Domestic Dramaという言葉で捉えると、家庭内部の深刻な葛藤を扱う劇という性格が分かりやすい。『となりの芝生』では嫁と姑の対立が家庭を侵食し、『岸辺のアルバム』では一見平穏な中流家庭が夫婦関係、子どもの問題、社会の変化によって崩れていく。『阿修羅のごとく』では、四人姉妹と両親を中心に、不倫、嫉妬、秘密、嘘が絡み合う。こうした作品では、社会全体の平均的な姿より、家庭内の感情がもっとも激しく燃える状況が選ばれる。善意は押しつけへ変わり、愛情は執着へ変わり、正義感は暴力へ変わる。登場人物はそれぞれ自分の立場から正しいと感じながら、他者を傷つける。社会問題も、人間関係を燃焼させる燃料として使われる。『正欲』も、その構造に沿っている。

水しぶきや、水が身体や衣服へかかる光景に性的な感覚を持つ桐生夏月と佐々木佳道は、社会的な理解の外側に置かれている。諸橋大也も同系統の欲望を抱え、社会が公認する多様性の語彙では自分を説明しにくい人物として描かれるが、夏月と佳道が中学生の頃から共有してきた関係と、大也が大学生活の中で抱える孤立した立場は同一ではない。三人はいずれも、自分の欲望を説明すれば家族、職場、就職、社会的信用を失う可能性を抱えており、その危険の中で秘密を共有できる相手を求める。

夏月と佳道は中学生の頃、水しぶきに関わる特殊な感覚を共有していた。二人は一般的な恋愛や性愛を求めず、互いの秘密を守り、自分たちが孤立したまま消えてしまわないための関係を築く。周囲からは、やがて結婚へ進む男女の関係に映るが、その内実は一般的な恋愛や性愛を基礎とする関係と異なる。この設定には、既存の恋愛観や家族観を問い直す力がある一方、二人が置かれる社会環境は、彼らの悲劇が最大化されるように作られている。

『正欲』の極端さは、物語の開始時点から現れている。作品内で読者へ提示される捜査の流れを見ると、動機、物証、自白、被害との具体的な因果関係が十分に整わない段階から、性的嗜好と犯罪を結びつける有罪の物語が先行している。推定無罪を原則とする刑事司法の一般的な考え方を踏まえれば、この展開は日本の検察実務全体を写実的に説明するものより、差別と偏見が個人を押し潰す状況を強調した作劇として受け取る方が自然である。

映画のもう一人の中心人物である寺井啓喜は、検事という公権力の側に立つ。寺井は社会秩序、教育、自立、正常性を重んじ、家庭では不登校になった息子を理解できず、自分が正しいと考える生き方へ戻そうとする。捜査では、証拠から仮説を慎重に組み立てるより、自分の嫌悪と想像から先に有罪の物語を作り、その物語へ証拠を従属させる。対象者の言葉を十分に聞かず、自分の想像を事実認定へ変え、公権力によって相手を屈服させようとする。その構造は、作品内の捜査判断の失敗を越え、公権力を帯びた偏見が個人の内面を裁く、サディズム的なファシズムの戯画として機能している。ここでいうファシズムは、政治体制の厳密な定義より、権力が人間の内面、欲望、思想を一方的に正常と異常へ分け、異常とされた者を屈服させる構図を示す比喩である。

現実的な証拠検討、弁護人、上司、同僚、裁判所、支援者などによる抑制が作品内で十分に機能すれば、寺井一人の偏見はここまで大きな力を持ちにくい。嫌疑の弱さが早い段階で明らかになれば、性的嗜好と犯罪を結びつける物語も崩れる。作品は、制度内部の抑制を細くし、寺井の独断と偏見を異常なほど強くすることで、理解されないマイノリティと、理解しようとしない公権力の衝突を一気に成立させている。慎重な司法劇より、善玉と悪玉の倫理的対立を最大化し、理解されない者の恐怖を観客へ短時間で共有させるホームドラマ(Domestic Drama)が選ばれている。

この演出によって、水しぶきへのフェティシズムは、他者へ危害を与えない欲望として鮮明になる。比較対象となる寺井が、公権力を用いて他者を傷つけるほど、夏月たちの欲望に加害性がないことが明確になる。両者には、一般的な多数派の欲望から外れた特殊性という構造上の対称性がある一方、倫理的な加害性には明確な非対称がある。非加害的なフェティシズムと、公権力を用いた追及を同じ重さで扱うことはできない。

寺井を極端な悪玉として造形することには、観客へ怒りを与え、作品の社会派らしさを強める効果がある。慎重に証拠を検討し、判断を留保する捜査官では対立が弱くなるが、最初から結論を決めて人間を裁く寺井なら、観客は彼の支配と偏見へ迷いなく反発できる。公権力がマイノリティを一方的に犯罪者扱いする場面は、制度的差別の象徴として強く映り、司法手続の現実性より、偏見が人間を潰すという主題を視覚化する力が優先される。

この極端化には代償もある。寺井が異常な悪役として戯画化されるほど、現実の多数者が持つ穏やかな偏見、無関心、理解の限界は見えにくくなる。観客は寺井だけを非難し、自分自身の思い込みや無関心を点検せずに済む。悪が極端に描かれるほど、普通の人間が日常の中で示す慎重さの欠如、関心の薄さ、理解しようとしない態度は背景へ退く。

正常な捜査、法的抑制、弁護人、支援者、文化的共同体が後景へ退くことで、夏月たちが社会のどこにも逃げ場を持たないという絶望も、作品の環境配置によって増幅される。彼らが絶望する理由のすべてが社会の現実から生じているとは限らず、寺井の偏執だけが肥大化することで、孤立と恐怖が作劇上さらに深められている。

寺井は検事であり父親であり、社会秩序の擁護者として多数派的な外形を持つ。しかし、その内面を支配するのは、他者の言葉を聞かず、自分の嫌悪を真実とし、権力によって相手を屈服させようとする欲望である。この種の権力型サディズムは、令和社会で広く受容される標準的な欲望より、家族や共同体から拒絶され、本人の孤立を深める性質として描かれる。『正欲』では、性的マイノリティだけが特殊な欲望を持つのではなく、寺井もまた、加害的な欲望を抱える特殊な人物として配置されている。

夏月たちは非加害的な欲望を持つ善玉として、寺井は加害的な支配欲を持つ悪玉として配置される。表面上は制度の中央にいる寺井が、欲望の実質では社会から受容されにくい側へ回る逆転が、ホームドラマの善悪配置を支えている。寺井の支配は家庭では妻と息子との関係を壊し、捜査では夏月たちから拒絶され、本人を共同体の外側へ押し出す。

昭和の家庭劇では、嫁と姑、夫と妻、親と子、姉と妹が互いに理解できない者として配置された。人物の性格は濃く、執着は強く、対話はすれ違い、関係は簡単には修復しない。『正欲』では、その役割を性的欲望、多様性、不登校、検察権力が担う。題材は現代的だが、作劇の骨格は古典的な家庭劇である。

極端な制度、偏執的な人物、孤立した善玉、救いの少ない社会は、濃密な物語を成立させる優れた舞台装置になる。『正欲』を社会問題を題材にした最高品質のホームドラマ(Domestic Drama)として観れば、その濃密さと面白さは素直に理解できる。違和感が生じるのは、この極端な舞台が社会の高精度な断面図として称賛され、作劇上の誇張が現実の必然へ変えられるときである。

2. 是枝裕和

『正欲』への違和感を理解するうえで、是枝裕和監督の作品と、Netflix版『阿修羅のごとく』は重要だった。是枝裕和は、家族、親子、貧困、孤立、記憶、喪失を繰り返し描いてきた映画監督である。『誰も知らない』『歩いても 歩いても』『そして父になる』『海街diary』『海よりもまだ深く』『万引き家族』『怪物』など、家族と社会の境界にいる人々を描く作品で広く知られている。『万引き家族』は2018年の第71回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞し、『怪物』では脚本を手がけた坂元裕二が2023年の第76回カンヌ国際映画祭脚本賞を受賞した。是枝作品は日本国内と国際映画祭の双方で、社会性と芸術性を備えた映画として評価されている。

筆者は是枝作品を観るたび、人物への救いが少ないと感じてきた。『海よりもまだ深く』で阿部寛が演じる篠田良多は、かつて文学賞を受賞した小説家である。しかし現在は探偵事務所で働き、収入は安定せず、競輪に金を使い、元妻への養育費も十分に払えない。息子へ会う時間を大切にしたいと思いながら、自分の弱さや執着によって関係をこじらせる。筆者は、そのダメンズぶりに筆者自身との一致を感じるほどの生々しさを覚えた。人間の駄目さをここまで正確に描く観察力には、残酷ささえ感じた。

人物の行動には、発達特性、依存傾向、家庭環境、認知の偏りなど、複数の背景が考えられる。作品は、その可能性を積極的に広げず、本人の性格と選択の結果として提示する。人物は駄目なまま周囲を傷つけ、人生を立て直せない。そこには自己責任の世界がある。

一方、依存症、発達特性、トラウマ、貧困、家庭環境、孤立に関する医療、福祉、教育、支援の知見は、人間の失敗や困窮を本人の意志と道徳性へ還元する説明を越えようとしている。社会全体には自己責任論が今も強く残るが、人間を支える実践の現場では、本人の選択と、環境や特性や支援との断絶を同時に扱う理解が蓄積されている。人物の駄目さを本人の性格だけへ集中させる作品世界は、現実に存在する複数の説明経路を意図的に細くしている。

『万引き家族』では、血縁や法的な家族関係から外れた人々が共同生活を送り、万引きや年金の不正受給をしながら暮らしている。彼らの間には愛情があるが、暴力、貧困、犯罪、児童虐待、社会制度の隙間が重なり、家族は崩壊する。『怪物』では、小学生二人の関係をめぐり、母親、教師、学校、子どもたちそれぞれの視点が交差する。見る者の立場によって、加害者と被害者、正しい者と間違った者の位置が変わり、人間の認識がいかに部分的であるかが精密な構成によって示される。

これらの作品では、制度の隙間、貧困、孤立、子どもの傷が精密に描かれる一方、現実に存在する支援、回復、福祉、教育、医療、地域共同体、宗教共同体への接続は細い。人物は問題を抱えたまま、出口の少ない関係の内部へ置かれる。その理由は、是枝裕和監督によるNetflix版『阿修羅のごとく』を観たことで腑に落ちた。

『阿修羅のごとく』は、向田邦子が脚本を手がけ、1979年と1980年にNHKで放送されたテレビドラマである。四人姉妹が、老いた父親の不倫疑惑をきっかけに集まり、それぞれの結婚、恋愛、嫉妬、秘密、孤独を露呈させていく。是枝裕和は、1979年の東京を舞台として再構成された2025年配信のNetflix版で、監督、脚色、編集を担当した。この作品を見ると、是枝作品が向田邦子的なホームドラマ(Domestic Drama)の系譜にあることがよく分かる。

『阿修羅のごとく』では、姉妹たちの不倫、嫉妬、秘密、愛憎が濃密に描かれる。人物は家庭内の感情を最大化する役割を担い、視聴者は家族の亀裂や秘密を安全な場所から眺め、その濃密さを楽しむ。ホームドラマ(Domestic Drama)は、人間関係の摩擦を長く保つことで成立する。支援者が現れ、制度が機能し、人物が回復して問題が簡単に解決すれば、愛憎の温度は下がり、ドラマは終わる。

是枝作品を、週刊誌的な題材を高い技術で文学化したホームドラマ(Domestic Drama)として見ると、その極端さは魅力へ変わる。人物の情けなさ、秘密、自己欺瞞、家族間の不和は、社会全体の代表例より、濃密なドラマを成立させるための材料として理解できる。社会の全体像として見たときに感じていた違和感が、ホームドラマとして見た瞬間に消えた。筆者にとって、それは是枝作品の評価を下げる発見ではなく、作品を正しい棚へ置き直し、本来の魅力を受け取るための発見だった。

作品が社会派映画として受賞し、社会の現実を高精度で描いた作品として権威づけられると、極端な家庭を描いた劇が社会全体の診断書として読まれる。回復へつながる制度や共同体を細くした作品世界が、現実そのものとして提示される。その評価のされ方に対して、筆者は「救いまで語らずに何が社会派か」と感じる。一方、ホームドラマ(Domestic Drama)として観るなら、是枝作品は非常に面白い。人物の感情を細部まで観察し、何気ない会話、食事、沈黙、視線、生活空間から関係の亀裂を浮かび上がらせる技術は、最高水準にある。

3. ガッキー

映画版『正欲』で特に驚いたのは、新垣結衣が、これまで見たことがないほど「不細工」に見えるよう撮られていたことだった。新垣結衣は、作り込まなくても画面へ自然に美しさが現れる、いわばネイティブ派の美人である。その彼女から、華やかさ、清潔感、軽やかさ、親しみやすさを徹底的に剥ぎ取り、どうしようもないほど精彩を失った人物に見せている。

新垣結衣が演じる桐生夏月は、広島のショッピングモールにある寝具店で働いている。恋愛や結婚について周囲から尋ねられることを避け、自分の欲望を誰にも説明できず、目立たないように暮らしている。そこには新垣結衣の役者魂がある。自分が長く背負ってきたスターとしての美しさを封印し、姿勢、表情、髪形、衣装、声、目線を使って、生活に疲れ、自分を消すように生きる夏月を成立させている。その演技上の挑戦は高く評価できる。

同時に、新垣結衣という生来の美しさを持つ俳優を、ここまで不細工に描く必要があったのかという疑問が残る。その目的の一つとして、センセーショナリズムが考えられる。国民的な美人女優として知られる新垣結衣が、観客の知る「ガッキー」から最も遠い姿を見せる。その落差自体が見世物となり、作品の深刻さを視覚的に保証する。観客は物語へ入る前から、普段の新垣結衣を封印するほど重い作品なのだと理解させられる。

美しい俳優を美しく撮らないこと自体が、社会派作品の記号になる。化粧気の薄さ、くすんだ衣装、生活感の強い照明、伏せられた目線、抑制された表情が、人物の内面的苦痛を説明する。演技、撮影、衣装、美術が一体となり、夏月を救いの少ない人間として造形する。しかし、人間の孤独や性的な少数性は、外見的な精彩のなさと自動的に結びつかない。美しく、明るく、よく笑い、仕事もでき、性的欲望だけが多数派と異なる人もいる。夏月の閉塞を表現するため、新垣結衣の美しさまで消すという発想には、特殊な欲望を持つ人は外見からも生気を失っているはずだという演出上の先入観が見える。

作品後半で夏月は、佳道の過去の恋愛を知り、嫉妬に駆られて窓ガラスを割る。社会から見えないように生きてきた人物が、初めて激しく感情を外へ放出する場面であり、その行為の後、夏月はある種の安堵を得る。この展開を好意的に読めば、不細工に見えるほど自己を抑圧していた夏月が、嫉妬という極めて人間的な感情を爆発させることで、自分の欲望と生を取り戻す物語になる。窓ガラスを割る行為は、社会の窓から閉め出されてきた彼女が、自ら境界を破壊する象徴とも読める。そこに本作のわずかな希望が託されている可能性はある。

希望へ至る構成には、抑圧、爆発、安堵という明確な設計がある。新垣結衣を徹底的に精彩のない女性として提示し、その閉塞を観客へ刻み込んだ後、嫉妬と破壊行為を発生させ、その爆発を生命力の回復として配置する。夏月を、普通に美しく、普通に仕事をし、変わった欲望を持ちながら、それなりに生活している女性として描く道もあった。映画は、観客が驚くほど不細工で救いの少ない姿へ落とし、嫉妬による破壊行為を通して、わずかな生の回復を与える道を選んだ。この構成には役者の力があると同時に、人物を深刻かつ悲観的に見せるための強い演出意図もある。新垣結衣の役者魂に感動し、その演技を高く評価することと、その役者魂がどのような演出目的へ動員されたかを疑うことは両立する。

4. 八重子と大也

『正欲』の多様性批判を考えるうえで、神戸八重子と諸橋大也の関係も重要である。東野絢香が演じる八重子は、男性への恐怖を抱えながら、恋愛対象として男性を求めてもいる。男性へ近づきたい気持ちと、男性から離れたい感覚が同居しており、その矛盾を抱えたまま、大学のダイバーシティ企画や、ミス・ミスターコンテストをめぐる活動へ参加する。

八重子には、自分の苦痛を社会的な言葉へ変換する能力がある。男性恐怖、ジェンダー、外見による評価、多様性といった語彙を使い、自分が受けた傷を社会運動へ接続できる。一方、佐藤寛太が演じる大也は、外見上は若く魅力的な大学生であり、周囲からは恋愛や性愛を楽しめる人物に見えるが、彼の欲望には社会的に共有された名称も、説明の定型も、象徴となる旗もない。大也にとって自己開示は、家族、就職、社会的信用を破壊する危険を持つため、八重子の「話してくれれば理解できる」という接近は、秘密を差し出させる圧力として働く。

大也の怒りには正当な根拠がある。社会が称揚する多様性は、名乗れる人、壇上に立てる人、啓発の言葉へ自分を変換できる人を中心に構成される。本当に社会の理解から遠い人は、名乗った瞬間に生活を失うかもしれない。社会が公認する多様性には、すでに名称があり、説明の形式があり、理解する側の作法まで整えられた属性が並ぶが、大也が抱える欲望はその一覧から漏れている。

八重子自身も、公認された多様性の内部へ安定して収まっているわけではない。男性を恐れながら男性を愛したいという矛盾は、理念や分類だけでは処理できない。八重子は多数派にも完全には属さず、公認された少数者の共同体にも安定して属さず、さらに公認されない少数者である大也からも拒絶される。認められていない者からも認められない者として、作品中でもっとも孤立した人物の一人になる。夏月と佳道には互いがあり、大也にも一時的には秘密を共有する仲間がいるが、八重子には自分の矛盾をそのまま受け止めてくれる相手がいない。

大也には八重子の好意へ応える義務も、秘密を明かす義務もなく、拒絶する権利がある。一方で、相手の思想、苦痛、善意、人格をまとめて侮蔑することは、恋愛感情を断る行為を越えている。八重子には個人的な恋愛感情があり、自分なりに勇気を出して接近している。その伝え方には押しつけや自己満足も混じるが、恋愛感情の表明には多かれ少なかれ相手への期待が含まれる。

大也は八重子を、理解したつもりになっている多数派の象徴として処理する。その瞬間、大也自身も相手を属性と類型へ還元する。社会は大也を、理解不能な欲望を持つ危険な人間として類型化し、大也は八重子を、承認された言葉を振り回す偽善的な人間として類型化する。大也は排除される側でありながら、排除する側にもなる。傷つけられた経験は他者への自動的な共感能力を与えず、少数者であることも人格的な無謬性を保証しない。

大也の社会批判には妥当な部分があり、八重子の接近には相手の沈黙する権利を侵す部分がある。それでも大也の拒絶は残酷であり、八重子の感情まで無価値にはならない。この三つは同時に成立する。八重子の恋愛感情は受け入れられなくてよく、接近も拒まれてよいが、八重子自身の存在や苦痛まで軽蔑する根拠にはならない。大也には八重子を愛さない権利があり、八重子には大也から愛される権利はない。しかし、八重子には人格を侮辱されない権利があり、大也には彼女の人格を消去する権利はない。『正欲』は多様性の限界を描くと同時に、傷ついた人間同士が、互いの傷を理由に相手を傷つけるホームドラマ(Domestic Drama)として読める。

5. 吉原

『正欲』が描くマイノリティ像の悲観的な偏りを考えるには、日本のマイノリティ表現の歴史を振り返る必要がある。日本文化は、性的欲望や周縁的な人々を、長いあいだ猥雑な都市文化の中心へ置いてきた。その歴史には、身売り、前借金による拘束、人身売買的な制度、監禁、病気、暴力が深く刻まれている。

江戸時代の吉原遊郭は、遊女を厳しく拘束する制度だった。周囲には堀が巡らされ、出入り口が限定され、遊女が自由に外へ出られない構造が作られていた。その苛酷な制度の内部で、吉原は衣装、髪型、言葉遣い、音曲、書、浮世絵、戯作、歌舞伎、季節行事を生み出す文化装置にもなった。遊女たちの名、姿、装い、評判は都市文化の流行を動かし、被害者としての現実と文化的な影響力が同じ場所に存在した。

周縁に置かれた人物が搾取を受けながら文化の生産者となり、身体を管理されながら、その身体の見せ方を流行へ変え、社会から低く扱われながら、社会の欲望を映す鏡として権威を得る。この歴史を美化することはできない。遊女たちは過酷な搾取、病気、暴力、借金による拘束に苦しんだ。しかし、彼女たちを無力な被害者だけとして描けば、彼女たちが都市文化へ与えた影響まで消える。性的マイノリティやアングラ文化も、自分たちの街、店、雑誌、劇場、言葉、装い、仲間を作り、主流文化へ影響を与えてきた。周縁者は弱者であると同時に、文化の主体でもあった。

6. 肉体の門

敗戦後の焼け跡を描いた田村泰次郎『肉体の門』には、強き貧者の文化がある。『肉体の門』は1947年に発表された小説で、敗戦直後の東京を生きる娼婦たちを描いている。空襲によって都市は焼け、食料も住居も不足し、国家や既存の秩序は崩壊している。その中で娼婦たちは世間に牙をむくように生き、自分たちの掟を作る。欲望し、嫉妬し、怒り、仲間を罰し、男を利用し、自分も傷つく。

現代の倫理から見れば受け入れにくい行動も多い。それでも彼女たちは、世間の理解を得るまで人生を停止しない。生きるために身体を使い、仲間と徒党を組み、暴力的な街の中で自分たちの領分を確保する。世間は冷たく、男も国家も信用できず、明日も腹は減るが、それでも食べ、稼ぎ、仲間を作り、怒り、欲しがり、生きる。

『肉体の門』の生命観は、苦しむ人間の生存能力を信じる。貧しい人を保護される存在へ閉じ込めず、危険で猥雑で強い存在として描く。記録されないまま潰された人、病気や暴力で命を失った人、声を持てなかった人も多かったはずである。それでも文化が前景化した人物像には、傷つきだけで人間を説明しない強さがあった。『正欲』の登場人物たちが、自分の欲望を知られることによって人生全体を失う恐怖に支配されているのに対し、『肉体の門』の女性たちは、すでに社会的な名誉や安定を失った地点から、生きる領分を作り直している。この違いは大きい。

7. 猟奇文化

明治から昭和にかけて、日本の大衆文化は怪奇、猟奇、倒錯、異装、性的欲望をさまざまな形で作品化してきた。江戸川乱歩は、怪奇、猟奇、窃視、異装、身体変形、閉鎖空間、サド・マゾ的欲望を大衆文学の中心へ持ち込んだ。『人間椅子』『鏡地獄』『陰獣』『孤島の鬼』『盲獣』などでは、通常の社会から外れた欲望や身体感覚が、恐怖、犯罪、幻想と結びつけられている。

江戸川乱歩賞は乱歩作品の倒錯性のみを顕彰する賞ではないが、怪奇、犯罪、異常心理を大衆文学として成立させた作家の名が、推理小説の登竜門として残り続けている文化的事実には意味がある。日本文化は、猟奇や異常性を完全な外部へ追放せず、正典の一部へ組み込んできた。

三島由紀夫は、肉体美、同性愛的欲望、流血、死、仮面、自己演出を、高級文学と大衆的な話題の双方へ広げた。『仮面の告白』では男性の肉体や死への欲望が語られ、『禁色』では同性愛と美貌と復讐が結びつく。美輪明宏は、異装、同性愛、シャンソン、演劇、霊的言説を一身に引き受け、長く芸能界の中央で活動した。寺山修司や澁澤龍彦は、見世物、幻想、サド、身体、倒錯を演劇や評論の領域へ運んだ。

沼正三『家畜人ヤプー』は、人種的支配、奴隷化、人体改造、排泄、服従、サド・マゾ的幻想を極端まで押し進めた作品である。さらに、『サイボーグ009』『仮面ライダー』を生み出した石ノ森章太郎が漫画化し、その漫画版は後に講談社からも刊行された。天下の石ノ森章太郎が『家畜人ヤプー』を描いたという事実は大きい。題材は地下的でも、描き手と出版社と流通経路は日本漫画文化の中央にある。

筒井康隆は、性、差別、身体破壊、暴力、狂気をエロ・グロ・ナンセンスの笑いへ変えた。大藪春彦の小説と松田優作の映画には、銃、暴力、性的搾取、裏切り、復讐が横溢した。日活ロマンポルノも、大手映画会社の製作と配給の仕組みの中で、性表現を映画作家、脚本家、俳優が腕を試す領域へ変えた。『大いなる助走』『ウィークエンド・シャッフル』『蘇る金狼』のような作品を現在の感覚で見ると、性的暴力、乱交、凌辱、依存症が娯楽や風刺や悪漢の魅力と結びつけられていたことに、強い隔世感を覚える。

これらの文化には、厳しく批判されるべき性的虐待、女性蔑視、暴力の娯楽化も含まれている。表現の自由と現実の人権は同じ歩調で進まなかった。それでも、日本社会は性的倒錯や特殊な欲望を長く作品として消費し、文化として評価してきた。日本人はとっくに多種多様な欲望を見ており、それを買い、読み、観て、笑い、恐れ、興奮し、ときには芸術として評価してきた。

昭和の大衆文化では、加虐性を持つ悪漢が活力、色気、反抗、娯楽性を伴って描かれることがあった。筒井康隆作品のエロ・グロ・ナンセンスには、性、暴力、狂気を笑いへ変える反社会的な活気があり、大藪春彦作品や松田優作作品に登場するローンウルフ型の悪漢には、女性征服、暴力、支配、加虐性を含む人物像が強烈な魅力として与えられた。彼らは社会の模範的多数派を代表していたわけではないが、昭和の市場と大衆文化の中では、強い存在感、商品価値、文化的市民権を持っていた。

令和の感覚から振り返ると、その欲望や人物像こそ理解困難な昭和のマイノリティに見えてくる。かつて娯楽的な魅力として流通した加虐性は、家父長性、権力濫用、女性蔑視、他者理解の欠如として読まれ、作品内でも共同体から拒絶される性質へ変わった。昭和の多数派がそのまま令和の少数派になったという単純な転換ではなく、昭和の大衆文化で市場性と存在感を持った欲望が、令和では文化的市民権を失い、非受容の対象へ移ったのである。

令和のホームドラマ(Domestic Drama)では、非加害的なマイノリティが理解されない善玉へ置かれる一方、旧来型の支配欲や加虐性を持つ人物は、社会の中央にいるように見える悪玉へ置かれる。検事、父親、会社員、企画担当者といった立場をまといながら、その内面のサディズムは時代から取り残され、本人を孤立へ導く。ホームドラマの善悪対立は、二種類の特殊な欲望を、理解されるべき善玉と拒絶される悪玉へ分けることで成立している。

この変化には人権意識の進展が反映されているが、一方のマイノリティを擁護するため、別の公認されない欲望を持つ人物を徹底的な悪玉として排除する構造も残る。権力型サディズムや加害的な支配欲が倫理的批判を受けることは当然である。しかし、加害者を永遠に回復不能な悪玉へ固定すれば、作品は善悪の配置を強める代わりに、悔い改めや関係修復の可能性を失う。

8. マツコ・デラックス

現代の象徴としてマツコ・デラックスがいる。マツコ・デラックスは、雑誌編集者やコラムニストとして活動した後、テレビへ進出した。大きな身体、女装、男性同性愛者としての経験、老い、孤独、欲望、容姿への評価を、自分の話芸へ組み込み、社会の中央へ居座った。マツコが見せてきたのは、周縁者が社会から一方的に審査される姿より、周縁者が社会を観察し、値踏みし、笑う姿である。自分の言葉、外見、毒、笑いによって商業的な場所を確立した。

日本のアングラ文化が獲得してきた人権には、法制度上の権利とともに、文化的市民権も含まれる。自分を表現する権利、笑う権利、客を集める権利、商売にする権利、主流文化を批評する権利である。乱歩が正典となり、三島と美輪がスターとなり、『家畜人ヤプー』を石ノ森章太郎が漫画化し、ロマンポルノを大手映画会社が製作し、マツコ・デラックスがテレビの中心に座る国で、いまさら水しぶきへのフェティシズムが何だというのか。

水しぶきや、水が身体や衣服へかかる光景に性的な感覚を持つ嗜好は、日本の猟奇文化やフェティッシュ文化が積み重ねてきた歴史の中では、驚天動地の倒錯とは言いにくい。本人たちは仲間を探し、好みを共有し、映像や写真を集め、趣味として楽しみ、仕事をして食べて眠ればよい。すべての人へ説明する義務もなく、理解者だけと共有する自由、秘密のまま持つ自由、笑って生きる自由がある。

『正欲』の人物たちは、その文化的な系譜へ接続できず、性的サブカルチャーの伝統から切断されたネット難民として描かれる。日本のマイノリティ表現の歴史には、搾取、差別、暴力とともに、笑い、商売、芸術、スター性、共同体形成があった。『正欲』は、そのうち苦痛、孤立、誤解、権力暴走を強く選び取っている。その選択は作品の個性であるが、それをマイノリティの現実全体として称賛すると、日本文化が持ってきた雑草的な生命力が見えなくなる。

9. イン・ザ・メガチャーチ

朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』にも、ホームドラマ(Domestic Drama)のテンプレートがよく当てはまる。作品名にある「メガチャーチ」は、本来、大規模な礼拝参加者を抱える巨大教会を指す言葉であり、アメリカを中心に発達し、大規模な礼拝堂、音楽、映像、教育、奉仕活動、寄付、コミュニティ形成を組み合わせて運営される。作品名と作中の比喩を踏まえると、宗教共同体を想起させる構造が、アイドルのファンダム、陰謀論、政治運動、マーケティングへ重ねられていると読める。人が一つの物語へ没入し、仲間と結びつき、金と時間を捧げ、自分の人生へ意味を得る構造が描かれる。

物語は、久保田慶彦、武藤澄香、隅川絢子という三人の視点を循環しながら進む。久保田はレコード会社に勤務する四十七歳の男性で、かつて脚本家を志していた。現在の仕事には十分な達成感を持てず、妻の真代とは離婚し、大学生の娘・澄香とは月に一度、短いビデオ通話をする関係になっている。久保田は、視聴者参加型オーディションから誕生した男性アイドルグループ「Bloom」を売り出す特別戦略室へ参加する。

特別戦略室が扱うのは、音楽の質だけではない。メンバーの過去、弱さ、性格、夢、人間関係を組み合わせ、ファンが感情移入できる物語へ加工する。どのメンバーがどのような劣等感を持ち、どのファンがどの弱さへ自分を重ねるかを分析し、購買と応援行動へつなげる。

武藤澄香は、国際色の強い大学に通う十九歳の娘である。周囲には、留学、社会貢献、環境問題、国際協力について堂々と語る学生が多い。その中で澄香は、自分の内向性、行動力の乏しさ、将来像の曖昧さを意識している。恋人との関係もうまくいかず、大学にも確かな居場所を持てない。澄香が出会うのが、Bloomのメンバー、垣花道哉である。道哉は内向的で自己表現が不得手であり、オーディションでは下位にいた。澄香と同じ誕生日や性格類型を持つ人物として紹介されるが、その紹介自体が戦略室によって設計された物語である。

澄香は道哉の中に自分を発見する。彼の弱さが自分の弱さを肯定し、彼の夢を実現させることが自分の人生を肯定する行為へ変わる。澄香は「ちゃみする」という名義で活動し、道哉を応援するファンダムの中で存在感を高める。父親には留学費用が必要だと伝え、その金をCD、広告、遠征へ使い、大学のパソコンを複数起動して動画の再生回数を増やす。普段の生活では行動を起こせなかった澄香が、推しのためには大胆に行動し、仲間と目的を得て、自分の行為が世界へ影響していると感じる。

隅川絢子は三十五歳の契約社員で、舞台俳優・藤見倫太郎を応援するファンダムの一員である。推し活は、安定しない雇用や単調な日常を支える喜びであり、仲間との交流は人生で初めて得た濃い共同体でもある。倫太郎が突然死したことで共同体は崩れ、絢子たちはその死へ意味を与える物語を求め、やがて陰謀論的な集団へ導かれる。倫太郎の死が偶発的な悲劇なら絢子たちには喪失しか残らないが、巨大な悪によって奪われたと信じれば、倫太郎の死には意味が生まれ、自分たちの活動は正義の闘争へ変わる。

三人には孤独、承認欲求、達成感への渇望があり、その設定は悲劇が最大化されるように配置されている。久保田には娘と率直に話せる関係がなく、澄香には大学、恋人、家族の中に居場所がない。絢子には喪失を受け止める健全な共同体がなく、道哉には人気上昇を支えながら休ませる制度がない。通常の社会が人を支える力は細く設定され、依存を供給する共同体だけが強大に描かれる。

『正欲』では、性的サブカルチャーという避難所が細くされ、異常な検察当局が配置された。『イン・ザ・メガチャーチ』では、家族、大学、職場、医療、福祉、地域、宗教、回復共同体の働きが細くされ、ファンダムと陰謀論だけが人へ濃い意味を与える。両作とも人物を現実より出口の少ない社会へ置き、制度は悪い方向へ働き、共同体は人物を飲み込み、救済の道は閉ざされる。登場人物が苦しむ理由の相当部分は、作品が選んだ環境と人物配置にある。

久保田は、ファンの感情を分析し、アイドルの弱さを物語へ加工し、人々を意図した方向へ動かす側に立つ。他者の内面を操作可能な材料として扱う点で、情報社会型のサディズムを担っていると読める。他人がどの場面で泣き、どの物語へ自分を投影し、どの不安によって金を支払うかを分析し、その感情を意図的に増幅する。対象者の苦痛を自分の利益や達成感へ変換する行為には、支配と加虐の構造がある。

久保田の支配欲は、露骨な悪意として現れない。彼は仕事へ真剣に取り組み、企画を成功させ、アイドルを支え、道哉を心配しているつもりである。かつて脚本家を志した経験も、物語を作る仕事への達成感も、本人にとって理解可能な願いである。その善意、使命感、心配の中へ、他者の弱さを素材として扱う視線と、相手との距離を自分の判断で縮める欲望が埋め込まれている。

久保田は、自分が他者を支配しているという認識を持たない。マーケティングや情報設計を仕事として遂行し、道哉のためを思って自宅へ向かい、娘との関係も回復したいと願う。しかし、他者を相互的な関係の相手として扱うより、自分の物語の中へ配置し、自分が理解した人物像へ従わせる。その無自覚さが、久保田の情報社会型サディズムを成立させている。

『正欲』の寺井啓喜が権力と正義を使う権力型サディズムを担うなら、久保田は物語、共感、マーケティング、善意、心配を使う情報社会型サディズムを担う。方法は異なるが、二人とも、自分なりの正しさを保ったまま他者の未知性を受け入れず、自分が加害の側へ回っていることに気づかない。

10. 渋谷

Bloomのデビューシングルは大きな成功を収めるが、道哉は心身の調子を崩し、長期休養へ入る。道哉の弱さを魅力として販売し、その弱さを中心にファンダムを拡大した結果、本人の精神は現実の負荷に耐えられなくなる。久保田は道哉を心配し、組織の規則を破って自宅へ押しかけるが、道哉から見れば、久保田も自分との距離を誤認したファンの一人に近い。久保田は拒絶され、特別戦略室からも外される。人々を視野狭窄へ導く側だった久保田自身が、道哉という物語へ没入し、俯瞰する能力を失う。

デビューショーケース当日、渋谷では複数の熱狂が重なる。Bloomのファンは巨大広告の前に集まり、同じ頃、絢子たちは倫太郎の死の真相究明を求める抗議活動を行う。陰謀論者たちは、倫太郎本人の声だと称する音声を公開するが、その証拠は粗雑で、外部から見れば運動は破綻している。それでも絢子は倫太郎への愛を叫び、自分の中にある愛と悲しみをすべて放出することを、正しい証拠を提示することより優先する。

そこへ澄香が現れる。澄香は道哉の広告前で、ファン仲間と写真を撮るために来ている。絢子は澄香を見て、かつて推しを純粋に愛していた自分の姿を思い出し、澄香は絢子を見て、さまざまな情報へ関心を広げ、社会について考えようとしていた過去の自分を思い出す。二人は互いを鏡として見ながら、どちらもその場を離れず、絢子は陰謀論の共同体へ、澄香は推し活の共同体へ戻っていく。一方、久保田は渋谷の場へ戻ることさえできず、人々を動かす物語を作りながら自分の娘を見失い、道哉からも拒絶され、自ら設計した物語が娘を飲み込む様子を画面越しに見る位置へ追いやられている。

この渋谷の場面は、推し活と陰謀論という二種類の没入を、一つの都市空間へ重ねる。双方とも、孤立した人へ仲間、目的、意味、行動力を与え、その力が強くなるほど外部の現実を見えにくくする。巨大な社会分析より、互いを知らない二人の女性が一瞬だけ相手の中に過去の自分を見つけ、それでも自分の所属する物語へ戻っていくすれ違いと、その場からさえ隔てられた久保田の孤立に、『イン・ザ・メガチャーチ』のホームドラマ(Domestic Drama)としてのクライマックスがある。

11. 結末

久保田は自宅から抗議活動の配信を見ている。その映像の中に、道哉の熱心なファンとして活動してきた女性を見つけ、その正体が娘の澄香であると悟る。久保田は、自分が作り上げてきた物語が娘を飲み込んでいたことを知る。澄香が留学費用として求めた金は、道哉のCDや広告や遠征へ流れ、久保田が会社で生産した欲望の仕組みに、久保田自身の金と娘の人生が吸収されていた。

久保田は娘へ会いたいと願うが、その感情には、留学を志し、自分の将来を考えていた真面目な少女という、過去の理想像も混じっている。現実の澄香は、推しへ金、時間、将来、家族への信用を捧げ、ファンダムの仲間と自分の居場所を作っている。澄香も最後まで依存から離れず、道哉が広告を喜んでくれたという情報、仲間と積み上げた時間、自分が費やした金と労力が、彼女の退路を閉じている。

澄香は仲間に囲まれ、誰よりも楽しそうな顔で振り向く。その笑顔は幸福と依存を同時に含んでいる。彼女は実際に仲間と目的と達成感を得ているが、その幸福を維持するため、金銭、家族関係、学業、自分の将来を削っている。父娘は互いを求めながら、同じ現実を見ていない。久保田は娘へ会いたいと思うが、娘が推し活の中で得た幸福や、そこへ至る孤独を十分に理解したわけではない。澄香も父親が自分の生活へ供給した金と、自分が没入している仕組みのつながりを引き受けない。

久保田は道哉から拒絶され、娘の現実も理解できず、離婚後の孤独な生活へ戻る。彼が他者の内面を物語として支配してきた代償は、道哉からの明確な拒絶と、娘との関係に生じた深い亀裂を突きつけられる形で返ってくる。

この終幕は、依存する娘と、現実の娘を見切れない父親を配置した濃密なホームドラマ(Domestic Drama)として読める。昭和の家庭劇と同じく、すれ違いが解消される直前で画面が閉じ、読者へ余韻を残す。

寺井と久保田は、検事、父親、会社員、企画担当者という社会の中央に見える役割を持つ。寺井は公権力と正常性を使って他者を有罪の物語へ押し込み、久保田は共感と物語と心配を使って他者との距離を侵食する。方法は異なるが、二人とも自分の正しさを疑わず、相手を自分の理解した物語へ従わせようとする。

その帰結として、寺井は家族と捜査対象者から拒絶され、久保田は妻との婚姻関係を失い、道哉から拒絶され、娘の現実からも隔てられる。社会の中央にいるように見えた人物が、支配欲と距離感の誤認によって関係の外側へ押し出される。現代作品においてサディズムは、魅力的な悪漢の力より、他者との関係を破壊し、本人を孤立させる欲望として処理されている。

12. 受賞

『正欲』は柴田錬三郎賞を受賞し、『イン・ザ・メガチャーチ』は本屋大賞を受賞した。両作が高く評価され、多くの読者へ届く理由には、読者の気持ちを代弁する表現の精度がある。読んでいると、人から理解されない苦しさ、周囲の人間が眩しく見える感覚、自分には何もないという空虚さ、何かへ没頭したい欲求、誰かに必要とされたい願い、自分の弱さを肯定してほしい気持ち、推しを応援することで自分も生きていると感じたい衝動、正しいことを言う人ほど自分を理解してくれないという反発が、驚くほど明瞭な言葉へ変えられている。

朝井リョウは、現代人の自己意識が傷つく瞬間、他者と比較して劣等感を抱く瞬間、自分の選択が外部から作られていたと気づく瞬間を、鮮明な文章へ変える。読者は、自分で言葉にできなかった不安や違和感が作品の中で明確な形を与えられることで、深く理解されたと感じる。その快感が強い共感を生む。

その見事な代弁が扱っているのは、庶民全体の感情というより、最大公約数的な中産階級の不安と批判であるように見える。自分には居場所がなく、周囲は自分より充実して見え、会社も家族も社会も自分を正当に評価せず、大きな仕組みに操作され、正しい言葉を使う人も信用できないという感情は、昭和の中産階級の後継に位置しながら、同じ生活基盤と将来期待を維持しにくくなった令和の生活者層が共有しやすい不満である。その感情が非常に巧みに抽出され、多くの読者へ届き、口コミと売上へつながるところで、文学的な精度と販売戦略が結びつく。

作品が深いから売れるのか、売れやすい感情を高精度で抽出しているから深く見えるのか、その境界は簡単には分けられない。切り取りの方向は、不安、孤立、悲しみ、社会批判へ強く偏り、その後に続く回復の展望はほとんど提示されない。共感や悲しみの言語化、不安の構造分析が豊かである一方、人がそこからどう回復するのか、誰がその人を迎えるのか、どのような共同体が生き直す場所になるのかという部分は細い。そのため、読者は自分の気持ちを代弁してもらった満足を得ながら、同時にその不安の中へ留め置かれる。庶民の心を描いた文学と、庶民の不安を商品化した文学が、同じ作品の中に共存している。

13. 本屋大賞

『イン・ザ・メガチャーチ』は、2026年4月9日、全国の書店員による投票で第23回本屋大賞に選ばれた。本屋大賞は、全国の書店員が「いちばん売りたい本」を投票によって選ぶ文学賞である。2004年に始まり、書店員が読者へ薦めたい作品を選ぶ賞として大きな影響力を持つようになった。本屋大賞は、本を中心に人が集まる祭りでもある。祭りには熱狂があり、売上があり、書店員の喜びがあり、読者が新しい作品に出会う機会がある。本を売る努力は出版文化を支え、書店が売上を確保し、作家、編集者、印刷会社、取次、書店員が仕事を続けるためには、本を読者へ届ける活動が必要である。

その一方で、売るための言葉が作品の読み方まで支配すると、作品を点検する言葉より、作品を重大に見せる言葉が増える。書店の棚で本を手に取ってもらうには、「現代社会の深部」「誰もが当事者」「価値観を揺さぶる」「今こそ読むべき」「自分のこととして刺さる」といった、短く強い説明が有効であり、帯、広告、紹介記事、SNSへ展開しやすい。

人物の行動に無理があり、作品世界の治安が悪すぎ、社会設定が結論を先取りし、悲劇化のために歴史的な文化基盤が消されているという批評は、販促へ使いにくい。その結果、書評と広告の境界が薄くなり、特殊な犯罪には社会全体の偏見という意味が与えられ、極端な依存には現代人全員の姿という大きさが与えられる。

売上至上主義の恐ろしさは、売りやすい感情と解釈を庶民へ反復して教える点にある。不安こそ現実であり、絶望こそ深く、回復は甘く、希望はきれいごとであるという感受性が、賞、書評、広告、SNSによって繰り返されれば、文化全体が救いを語る能力を失っていく。

14. 令和の中産階級

昭和のホームドラマ(Domestic Drama)は、中産階級の娯楽として成立した。昭和の視聴者は、自分たちと似ているが少し違う家庭の崩壊、不倫、嫁姑問題、嫉妬、秘密、失敗を安全な距離から眺め、画面の中の不幸を、安定した日常生活へ刺激を加える娯楽として受け取った。

昭和後期の中産階級には、来年の生活が今年より大きく悪化しないという期待があった。住宅、雇用、教育、老後、家族形成について、完全ではなくても一定の見通しを持つことができ、家庭劇の不幸を現実の生活基盤から距離を置いて眺める余裕があった。現在の中産階級が抱える不安は、娯楽的な刺激だけでは処理できない。賃金、雇用、住宅費、教育費、社会保障、老後、介護、家族形成といった問題が自分自身の生活へ迫り、転落への恐怖は、想像上の劇より日常的な現実へ近づいている。

令和の変化点として、日本社会の貧困化と観光国化が挙げられる。都市や観光地が外部から来る消費者へ開かれ、宿泊、土地、食事、交通、商業空間が観光需要へ再編されると、そこに暮らす人間は、自分の国や街が自分たちの生活の場所から、外部の消費へ提供される商品へ変わっていく感覚を持つ。華やかな観光景気の風景と、自分の賃金や生活の停滞が並び、国や街は豊かに見え、高額な商品や宿泊施設は売れているのに、自分の暮らしは楽にならないという分裂が生まれる。

観光国化には、ある種の歴史的な皮肉もある。昭和の中産階級は、経済成長と円高を背景に海外旅行へ出かける側だった。海外では、日本人観光客の団体行動、買い物の仕方、写真撮影、服装、騒音、喫煙、現地習慣への無理解などが批判されることもあり、日本人自身も海外で指摘されたマナーの悪さを国内へ持ち帰り、観光客としての振る舞いを自戒する必要に迫られた。

令和の中産階級は、海外から訪れる観光客のマナーがなっていないと不満を口にする。混雑、騒音、交通機関での振る舞い、私有地への侵入、ごみ、撮影方法、飲食店や文化財周辺での態度などが問題として語られ、その不満には現実の生活被害や地域住民の負担という正当な根拠がある。一方で、自分たちがかつて海外で同じような批判を浴びた歴史は、十分な自戒として語られない。かつて批判される観光客だった側が、現在は批判する受け入れ側へ回っている。

さらに皮肉なのは、観光客の振る舞いへ不満を持ちながら、そのインバウンド消費がもたらす経済効果を手放せなくなっていることである。宿泊、飲食、小売、交通、観光施設、地方経済は、訪日客の消費を重要な収益源として組み込み、観光客が多すぎれば不満を述べる一方、観光客が減れば経済が困る。観光客には来てほしいが生活圏は乱してほしくなく、消費は歓迎するが存在には苛立つという矛盾した感情が生まれる。

昭和の中産階級は、海外へ出て金を使う豊かな消費者だったといわれている。令和の中産階級は、相対的に豊かになった海外の人々を自分たちの街へ招き、街、文化、食事、景観、交通、生活空間を提供し、その消費によって経済効果を維持する側へ回った。この立場の逆転は、日本の中産階級が持っていた経済的な自己認識の変化を示す。観光国化は国際交流や地域活性化という明るい側面を持つと同時に、自国の生活空間を外部消費へ差し出しながら、その消費者へ苛立ちを向けるというねじれも生む。

海外観光客のマナーを批判する声と、インバウンド需要へ期待する声が同じ社会の中で並ぶ矛盾は、単純な外国人批判や観光振興論だけでは捉えきれない。そこには、自分たちが以前ほど豊かな消費者ではなくなったという感覚があり、海外へ出て消費する側から、海外の人々に来てもらい消費してもらう側へ移った転換を認めたくない感情が、観光客への苛立ちの一部へ混じっている可能性もある。

昭和のホームドラマ(Domestic Drama)と令和の作品の違いは、中産階級が安定した場所から他人の不幸を眺めているのか、自分自身も貧困へ近づきながら他人の不幸へ逃避しているのかという点にある。令和の中産階級にとって、他人の不幸は暇つぶしであると同時に、貧困からの逃避先にもなる。自分の生活が悪化している現実から一時的に離れ、より孤立し、より理解されず、より深く依存している人物へ感情を預ける。

その逃避先が、『正欲』における孤立したマイノリティと、『イン・ザ・メガチャーチ』における推し活へ集約されているのかもしれない。孤立したマイノリティは、自分が社会に理解されないという感覚を代弁し、推し活へ没入する人物は、自分の現実から離れ、別の誰かの成功へ人生を預けたい感覚を代弁する。読者は、夏月たちの理解されなさへ自分の孤立を重ね、澄香の没入へ自分の逃避願望を重ねる。作品は、読者自身が抱えている経済的不安を直接描かなくても、その不安から生じる孤立感、承認欲求、逃避願望を描くことで強い共感を生む。

その共感へ悲観的なバイアスを与え、売上へ結びつけるなら、作品は中産階級の不安を映す鏡であると同時に、その不安を増幅する商品になる。社会が貧しくなったとき、文化には、不安を抱えた人間が明日も生きるための足場、共同体、信仰、回復、役割まで示す仕事がある。中産階級に本当に必要なのは、自分の恐怖を巧みに言葉へ変えてくれる作品とともに、自分は転落しても終わらず、孤立しても拾われ、失敗しても戻れると伝える物語である。その需要は表面に現れにくく、読者自身も自分が救いを必要としているとは簡単に認めない。社会批判や共感の言葉を求めているように見えて、その奥では、もう一度始められるという確信を求めている。それは中産階級にとっての潜在的なシーズであり、最も切実なニーズでもある。

15. ダルク

不安や依存や孤立を語るなら、現実の回復についても語る必要がある。ダルクは、Drug Addiction Rehabilitation Centerの頭文字を取った名称で、薬物などの依存症からの回復を支援する施設・共同体である。日本では1985年、近藤恒夫がロイ神父の助力を得て東京ダルクを創設し、その後、各地へ活動が広がった。ダルクでは、各施設の方針に応じて、ミーティング、デイケア、共同生活、医療・福祉機関との連携などを通じ、薬物を使わない一日を積み重ねる。

依存症の回復は、一度の決意で完了しない。再発、失敗、衝突、離脱、再参加が起こるが、人は戻り、仲間と話し、また一日を始める。精神科医の松本俊彦は、薬物依存や自傷行為の研究と臨床に携わり、依存症を本人の意志や道徳性だけで裁く見方へ警鐘を鳴らしてきた。薬物使用の背後にある孤立、苦痛、トラウマ、自傷、支援との断絶へ目を向ける必要を説いている。

依存症支援の現場では、本人の選択と責任を扱いながら、その選択が孤立、苦痛、依存、トラウマ、環境、医療的な要因と結びついている事実も同時に扱う。この複数の要因を見なければ、責任を問う言葉はあっても、回復へ進む道は作れない。医療、福祉、支援、回復共同体が積み上げてきた理解は、人間の失敗を意志と道徳性へ還元する説明より、依存症の実態へ近い。

田代まさしは薬物事件、服役、再犯、社会的信用の喪失を経験し、その経歴を消すことなく、依存症当事者として回復や再発防止について発信してきた。失敗の履歴を整った成功物語へ作り替えず、再発の可能性を含む自分の弱さを抱えたまま語り続ける姿には、転倒を繰り返しながらも生から離れ切らないしぶとさがある。

その姿は、遠藤周作『沈黙』に登場するキチジローを思わせる。キチジローは英雄的な強者として救済される人物ではなく、弱さを抱え、転び、裏切り、それでも信仰、赦し、悔い改めの問題から離れ切れず、再び戻ってくる人物である。田代まさしは現実の依存症当事者であり、キチジローは文学作品上の人物であるため、両者を同一視することはできない。しかし、弱さを隠さず、失敗と再出発を繰り返し、転んでもただでは起きず、転倒のたびに生へ戻ろうとする生命力という点では、両者を重ねて読むことができる。

田代まさしの価値は、失敗を克服した完成された英雄になることより、失敗を抱えたまま語り、再発防止と回復の言葉を手放さないところにある。世間から見れば何度も信用を失った人物が、自分の転倒を別の依存症者へ届く言葉へ変える。その姿は、人間の価値が一度の失敗や再犯によって最終決定されないことを示す。

高部知子は精神保健福祉士として依存症問題に関わり、2014年には女性専用の依存症回復支援施設「フラワーガーデン」の開設発表会に出席して、女性の依存症者へ向けた回復支援を拡充する必要性を訴えた。その活動領域はダルクと重なるが、ダルクの運営者または所属者として紹介する根拠は確認されていない。

田代まさし、高部知子、ダルクは、それぞれ立場と活動形態が異なる。田代まさしは依存症当事者として、高部知子は精神保健福祉の専門職として、ダルクは当事者を中心とする回復共同体として、日本の依存症回復を支える領域へ関わっている。彼らが向き合う現実には、フィクションが作る過剰設定を必要としないほど大きな苦痛があり、逮捕、失職、信用の喪失、家族との断絶、再発、孤独が存在する。それでも、回復へ向かい、失敗を笑いへ変え、自分の傷を他人の支援に役立てる人々がいる。

このしぶとい活力は、自分が依存症であること、失敗したこと、他人を傷つけたこと、再発する可能性があることを認めたうえで、それでも今日を生きるところから生まれる。作品の中で美しく解決される救済より、はるかに不格好で、泥臭く、現実的である。再発した人が戻り、裏切った人が謝り、共同体も失敗し、支援者も万能ではない。それでも、人を一度の失敗で廃棄しないことが、ダルク的な生命力を作る。

ダルクは制度的、実践的な回復共同体であり、共同生活、ミーティング、当事者同士の支え合い、支援者との接続によって、人が一日ずつ生き直す場所を作る。共感文化が苦しみの正当性を承認するなら、回復文化は、その苦しみを抱えた人間が別の一日へ進める可能性を支える。令和の中産階級が貧困への恐怖を抱えているなら、必要なのは、転落し、依存し、失敗し、それでも共同体へ戻り、生き直した人間の物語である。失敗しても人生が終わらないという感覚こそ、社会的な余裕を失った中産階級へ必要な現実認識ではないか。

『正欲』や『イン・ザ・メガチャーチ』の当事者たちは、生きる希望を持ってよい。苦痛、差別、再発、加害、貧困、孤立が存在しても、それらが人間の未来を悲観へ固定する根拠にはならない。日本の周縁文化が育ててきた雑草的な生命力と、ダルクのように失敗した人を再び迎える共同体は、人間が生き直す根拠をすでに現実の中へ作っている。

16. 福音

筆者はクリスチャンであり、中産階級の娯楽が他人の不幸へ傾き、絶望がリアルとして評価され、救いがきれいごととして扱われる時代に、福音と恩寵を語る必要を感じる。筆者の推しはイエスである。イエスの恵みと恩寵は、信じる人間の努力によって価値が増える商品ではなく、失敗し、価値を失ったと感じる人間へ先に差し出される贈り物である。

新約聖書でイエスは、重荷を負う者へ自分のもとへ来るよう招いている。「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません」(マタイ伝11章28節、文語訳)。この招きは、能力や道徳性を証明した者へ限定されず、疲れ、重荷を負い、自力で立てなくなった者へ向けられている。

イエスは、失われた羊を探す羊飼い、失われた銀貨を探す女、家を離れた息子を迎える父の譬えを語った(ルカ伝15章1節から32節)。放蕩息子の譬えでは、財産を使い果たした息子が父のもとへ帰る。父は、息子がまだ遠くにいるうちに見つけ、憐れに思い、走り寄って抱きしめる。「なほ遠く隔りたるに、父これを見て憫み、走りゆき、其の頸を抱きて接吻せり」(ルカ伝15章20節、文語訳)。息子が自分の価値を回復してから迎えられたのではなく、父の側から迎えに出る。

使徒パウロは、神の愛について、「我等のなほ罪人たりし時、キリスト我等のために死に給ひしに由りて、神は我等に對する愛をあらはし給へり」(ロマ書5章8節、文語訳)と記している。福音は、失敗し、依存し、傷つけ、傷つけられ、立ち上がれない人へ先に差し出される恵みである。恩寵は、本人の価値や能力を証明してから受け取るものではなく、価値を失ったと感じる人間へ新しい始まりを与える。

ダルクは、当事者の共同生活、ミーティング、回復プログラム、支援の実践によって成立し、福音は、神の愛、キリストの贖い、赦し、恵みという信仰に基づく。両者は制度的根拠と神学的根拠を異にしながら、失敗した人間を失敗の地点へ固定せず、再び歩き出す可能性を残すという共通項を持つ。ダルクは再発した人にも戻る場所を作り、福音は罪人である人間へ先に恵みを差し出す。どちらも人間の過去を無視せず、その過去だけで全存在を決定しない。

福音は、人間が自分の責任や罪と向き合うことを求めながら、その責任や罪が全存在の最終判決になることを拒む。悔い改めは自己処罰の完成ではなく、赦しを受け取り、別の方向へ歩き始めることである。依存症、加害、支配、裏切りを抱える人間にも、新しい始まりが差し出されるところに、福音の恩寵がある。

社会派作品が救いを描くとき、無理に幸福な結末へ整える必要はない。回復には再発があり、信仰には疑いがあり、共同体には失敗がある。それでも、人は見捨てられておらず、明日も生きられ、失敗の後にも役割を持ち、傷を他者を支える経験へ変えることができる。

『イン・ザ・メガチャーチ』の久保田には、過去の理想像を押しつけず、現在の澄香に会うことが必要である。澄香には、推しへの情熱を否定せず、その情熱以外の自分も生きられる場所が必要である。絢子には、倫太郎への愛を陰謀論へ渡さず、喪失をそのまま悲しめる共同体が必要である。『正欲』の夏月と佳道には、互いに消えないと約束する関係を犯罪の物語から守り、別の生活へつなげる人間や制度が必要であり、八重子と大也には、互いを思想の記号へ変えず、一人の人間として拒み、傷つき、考え直す余地が必要だった。

寺井や久保田のように加害的な支配欲を抱える人物にも、自分の欲望を認め、関係を作り直す回復の道が必要である。福音は、権力を濫用した者、家族を傷つけた者、他人を操作した者にも、悔い改めと回復の可能性を与える。善玉だけが救われ、悪玉は拒絶されたまま終わるというホームドラマの配置を越え、加害者にも支配を手放して共同体へ戻る道を開く。

救いを描くことは、現実に存在する回復の経路まで描くことである。日本のマイノリティ文化は、搾取や差別の中から笑い、商売、芸術、共同体を生み出してきた。ダルクのような回復共同体は、再発や失敗を含む人間を一度で廃棄せず、生き直す場所を作ってきた。福音は、成功、消費能力、社会的承認、失敗歴によって人間の価値が最終決定されないことを告げる。この三方向から、人間が未来を悲観へ固定される根拠は崩れていく。

日本の貧困化と観光国化が進み、中産階級が自分たちの生活基盤を失う恐怖を抱える時代だからこそ、イエスの恩寵と恵みは切実になる。自分の価値が賃金、学歴、資産、消費能力、社会的な成功によって決まるという物語から、人間を解放するからである。観光客が多く訪れ、街の価値が上がっても自分の暮らしが豊かにならず、会社の業績が伸びても自分の賃金が上がらず、本が売れ、作品が受賞しても読者の不安が解消されない世界で、人間の価値は市場価格によって決まらず、失敗しても見捨てられず、恵みを受け取ってよいという福音は、中産階級が本当に必要としている生存の言葉である。

17. 売れない救い

回復、福音、恩寵は、売上へ直結しにくいテーマなのだろう。不安には即効性があり、怒りには拡散力があり、孤独には共感が集まり、社会批判には賛同が集まる。絶望は深さの記号として利用しやすい。一方、回復は、一人の人間が毎日同じ時間に起き、薬物を使わず一日を終え、教会へ行き、祈り、食事をし、失敗した人が共同体へ戻り、家族が少しずつ会話を取り戻し、依存していた人が別の役割を持つという、地味な時間の積み重ねである。

他人を支配してきた人間が自分の加虐性を認め、家族を傷つけた父親が正しさを押しつけずに子どもの話を聞き、他人の感情を操作してきた人間が相手の未知性を受け入れる変化には、派手なクライマックスも劇的な告発も強烈な悪役も必要としない。そのため、回復は不安や絶望ほど売りやすい物語になりにくい。

しかし、中産階級に本当に必要なのは、自分ももう一度始められ、その不安を抱えたまま別の一日へ進め、失敗した人間が共同体へ戻れると知ることである。令和の中産階級は、自分自身が貧困へ近づく恐怖を抱え、その現実から逃れるために、孤立したマイノリティや推し活へ感情を預けている。その状況へ悲観的なバイアスを与え、共感を販売する文化には、回復の現実も視野へ入れる姿勢が求められる。

現実には、日本の周縁者、性的マイノリティ、アングラ文化、貧困者が、搾取や差別を受けながらも、笑い、商売、芸術、共同体、猥雑さ、しぶとさを育ててきた歴史がある。現実には、ダルク的な活力があり、失敗した人間が戻り、再び失敗し、それでも生き続ける現場がある。現実には、イエスの恩寵と恵みがあり、人間の価値を成果、消費能力、社会的承認から切り離し、失敗した人間を迎える福音がある。

この三つは、悲観的な作品世界の外部に存在する慰めの付録ではない。人間について考えるとき、苦痛、孤立、依存、差別と同じ重さで扱うべき現実である。作品が悲観を精密に描いても、日本のマイノリティ文化の歴史、回復共同体の実践、福音の恩寵は、人間を悲観へ固定する結論に反対する。苦痛や困難が存在しても、人間の未来を悲観だけへ閉じる根拠は存在しない。

回復文化は、本人の責任を消さず、本人の存在も廃棄しない。失敗の原因を意志だけへ集約せず、孤立、環境、トラウマ、支援との断絶まで見たうえで、再び歩く場所を作る。その理解は、責任と回復を同時に扱うための現実的な知恵である。

私には、いま中産階級へ最も切実に必要なのは、その視点であるようにしか見えない。不安を代弁し、孤立を説明し、依存を分析し、社会を批判する言葉はすでに大量にある。必要なのは、失敗しても戻れ、貧しくなっても価値を失わず、孤立しても誰かと食事ができ、依存しても回復へ向かえ、自分の存在が市場の評価によって決まらないと伝える言葉である。サディストとして他者から拒絶された人間にも、支配をやめ、関係を作り直す道があると語る言葉も必要である。

それは文化産業にとって売りにくいテーマかもしれない。救済された人は絶望を代弁し続ける商品になりにくく、回復した人は永続的な被害者という物語から外れ、共同体へ戻った人は孤立の象徴として販売できなくなる。悪役が悔い改めれば、観客が安心して憎める対象も失われ、善玉と悪玉を固定したホームドラマ(Domestic Drama)の快感も弱くなる。人間に必要な物語と売りやすい物語が一致する保証はない。

共感、悲しみの言語化、社会問題の告発はいずれも必要である。しかし、その先に救いがなければ、文化は人間を傷の中へ固定する。『正欲』や『イン・ザ・メガチャーチ』が現代の不安を見事に切り取った作品であることは認められるが、その不安が売上へ結びつきやすい最大公約数的感情であり、救いの不在が作品を深刻に見せる演出として機能している可能性も考える必要がある。

『正欲』の性的マイノリティも、『イン・ザ・メガチャーチ』の依存、推し活、陰謀論、孤立の当事者も、生きる希望を持ってよい。作品の結末が彼らを閉塞の中へ置いても、現実の人間には、文化の生命力、回復共同体、恩寵という複数の出口がある。悲観は現実の一部を表すが、人間の未来を最終決定する権利までは持たない。

18. 結論

本稿の中心的な結論は、朝井リョウ作品や是枝裕和作品を、社会全体の診断書として読むより、現代的な題材を用いた最高品質のホームドラマ(Domestic Drama)として読むことで、その極端な人物配置、濃密な愛憎、救いの少なさを作劇上の技法として理解できるということである。その理解によって作品の面白さは損なわれず、むしろ、深い社会派という包装から解放された本来の魅力が見えてくる。

本稿全体の論旨は、次のように整理できる。

  • 社会派として高く評価される作品も、ホームドラマ(Domestic Drama)として読むことで、極端な人物配置、制度の偏り、救いの少なさを、感情を燃焼させるための作劇上の技法として理解できる。その読み替えは作品を貶める行為より、作品を適切な棚へ置き直し、娯楽としての完成度を正当に評価する行為である。

  • 有罪視、支配、感情操作を担う人物は、検事、父親、会社員、企画担当者という社会の中央に見える役割を持ちながら、他者を自分の物語へ従わせ、関係を破壊する。権力型と情報社会型という方法の違いを持ちながら、自分の正しさや善意の中へ加害性を埋め込んでいる。

  • 極端な悪役配置は、善玉側の非加害性を際立たせ、観客へ怒りを与え、作品の社会派らしさを強める。同時に、観客が異常な悪役だけを非難し、自分の中にある穏やかな偏見、無関心、理解の限界を点検せずに済む構造も作る。

  • 日本のマイノリティ文化には、被害、差別、搾取、暴力の歴史とともに、笑い、商売、芸術、共同体、猥雑さ、しぶとさ、雑草的な生命力の歴史がある。周縁者を苦痛と無力だけで描く作品は、その文化的な主体性と生存能力を背景へ退ける。

  • 現代作品は、不安、孤立、依存、承認欲求を高精度で言語化し、読者へ強い共感を与える。一方、正常な制度、支援者、医療、福祉、文化的共同体、信仰といった回復の経路を細くすることで、人物の閉塞と作品の深刻さを増幅する。

  • 中産階級の不安が共感、口コミ、売上へ変換される文化には、生き直しの現実も示す姿勢が求められる。人間が転落し、依存し、失敗しても、共同体へ戻り、別の役割を持ち、もう一度始められるという現実は、医療、福祉、支援、共同体の現場に存在する。

  • 回復共同体と福音は、その根拠と目的を異にしながら、人間を失敗の地点へ固定しない。本人の責任や罪を消さず、過去だけで全存在を決定せず、悔い改め、赦し、再参加、新しい始まりの可能性を残す。

  • 本の深さは、暗い題材、悲劇の量、共感の強さ、深刻な結末から自動的に生まれるものではない。人間の複雑さ、歴史の厚み、異なる立場、現実に存在する共同体、回復の可能性まで描き、読者を自己確認の外部へ連れ出すことで生まれる。

本稿でいう「浅い」とは、作品の品質の低さを指す言葉ではなく、限定された人間関係を意図的に濃縮し、社会の複雑さを善玉と悪玉、被害者と加害者、理解される者と理解しない者へ整理する作劇上の性質を指す。人間の浅さ、醜さ、愚かさ、執着を濃縮したホームドラマは、高品質な娯楽として十分に価値がある。極端な世界を極端な物語として楽しむことには、その作劇と限界を受け入れる誠実さがある。

極論をすると、筆者が『正欲』と『イン・ザ・メガチャーチ』へ覚えた違和感は、バットマン作品のゴッサムシティを現実社会の平均像として提示し、ジョーカーが凡人として生活する物語を、マジョリティの標準的な現実として読まされているような感覚に近い。偏見、支配、孤立、依存、制度不全が異常な密度で集積した舞台が、現代社会の高精度な断面図として差し出される。その誇張と現実との距離が、作品の深刻さ、社会派らしさ、読者の不安を生む商品価値になっているように見えるのである。

ただし、この比喩におけるジョーカーは、自分を悪役と認識して笑いながら世界を破壊する人物ではない。凡人として悩み、自分なりの正義、責任、善意、仕事、家族への思いを抱え、自分が他者を支配していることにも、自分が物語の悪役になっていることにも気づいていないジョーカーである。

寺井は、自分を秩序、教育、親としての責任、適正な捜査を担う側だと考えている。久保田は、自分を仕事へ真剣に取り組み、アイドルを支え、道哉を心配し、娘との関係を回復したい人間だと考えている。寺井は公権力、正常性、父権、嫌悪を使って他者を有罪の物語へ押し込み、久保田は物語、共感、マーケティング、心配、使命感を使って他者との距離を侵食する。方法は異なるが、どちらも自分を悪役と認識せず、自分なりの正しさや善意を保ったまま他者を支配する。

そのため、読者も二人を最初から明白な悪役として認識しない。読者は、寺井の家庭内の悩み、父親としての焦り、理解できない欲望への嫌悪を追い、久保田の仕事への不満、かつて脚本家を志した過去、娘との疎遠、道哉への心配、達成感への渇望も追う。これらは、読者が理解できる凡人の感情である。その理解可能性が、支配、偏見、他者操作の加害性を覆い隠す。

読者は、あからさまな悪役を外部から憎みながら物語を読むのではなく、悪役だと気づかない人物へ感情移入し、その人物が起こす波乱を、自分自身の不安、失敗、善意と重ねながら追う。夏月、佳道、大也、澄香、絢子といった理解されない当事者へ共感する一方、寺井や久保田の凡庸な苦悩にも共感し、支配する側と支配される側の双方へ感情を預ける。

この構造によって、作品の善悪配置は表面上ほど単純ではなくなる。しかし、自分が問題の一部であると認識しない人物には、悔い改め、謝罪、他者の未知性の受容、関係の作り直しへ進む契機が生まれにくい。支配する側の人物が、自分の加害性へ気づかないまま物語を動かし続けるなら、本人の側から救済の経路が開かれる可能性はほとんど残らない。

作品内に愛情やつながりや希望の兆候が一切存在しないという意味ではない。支配する人物が自分の加害性を認識し、関係を作り直す経路が、作品構造の中へほとんど組み込まれていないという意味である。救いの不在は、暗い結末を選んだ結果とともに、自分を善良な凡人だと信じる悪役を物語の駆動力へ置いた構造から生じている。

ゴッサムシティをゴッサムシティとして楽しむなら、極端な制度、偏執的な人物、孤立、犯罪、救いの少なさは、濃密な物語を成立させる魅力になる。同じように、『正欲』と『イン・ザ・メガチャーチ』を最高品質のホームドラマ(Domestic Drama)として楽しむなら、その極端さは作劇上の力として評価できる。違和感が生じるのは、その極端な舞台と、自分を悪役だと知らないジョーカーの物語が、現実社会の平均像として語られ、読者へ「これがあなた自身の社会である」と迫るときである。

批判の対象は、その娯楽を「現代社会の深部を描いた深い社会派作品」として包装し、作品内で細くされた回復の経路、誇張された人物設定、悲劇を成立させるための環境配置を、社会全体の真実として権威づける文化である。極端な物語空間を現実社会の平均像として語り、読者へ当事者性を迫るとき、誇張と現実との距離が、恐怖、共感、怒り、不安を生む商品価値へ変わる。

作品の誇張を作品の魅力として認めず、社会の深部を描いた真実として包装するとき、本を深く見せる浅さが生まれる。深刻な題材、孤立した人物、暗い結末、強い共感を、そのまま深さの証明として販売すれば、本は読者の感情を確認する商品へ縮小する。

本は、自分の気持ちを確認するための鏡であると同時に、自分の外部へ出るための扉でもある。読者が知らなかった歴史、異なる人間像、複雑な因果関係、反対の立場、回復の可能性、自己認識を変える思想へ接続する力が、本という媒体の固有の深さを作る。その力が販促しやすい感情の代弁へ置き換われば、短い動画、SNS投稿、感情的なニュース、共感型コンテンツとの違いは薄くなり、本を読む理由そのものが失われる。

『正欲』や『イン・ザ・メガチャーチ』の当事者たちは、生きる希望を持ってよい。日本のマイノリティ文化が示してきた雑草的な生命力、ダルクのような回復共同体が現実に作る戻る場所、福音が告げる悔い改め、赦し、恩寵は、その希望を現実の側から支えている。苦痛、差別、再発、加害、貧困、孤立は現実に存在する。しかし、それらが人間の未来を悲観へ固定する根拠にはならない。

浅いホームドラマを深い社会派として売るために、人間の絶望を利用する必要はない。本の深さは、人間を傷の中へ固定することより、傷を抱えた人間がなお生き、戻り、変わり、赦され、別の一日へ進む可能性まで考えるところに生まれる。本を深く見せる「浅さ」を批判する理由は、書籍が持つ本来の深さを守りたいからである。書籍の深さを守ることは、書籍の持続可能性と、書籍そのものの未来を守ることである。

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